3 向こう側

 部屋に残されたのは、塩見と京子だけだ。

「塩見主任。あの」

「塩見でいい」

「では塩見さん。先ほどはその、えっと」

 京子の表情は引きつっている。隠しきれていない若かりし感情に、塩見は溜息ためいきをついた。

「謝りたくないなら、謝らなくていい。それと遠慮はいらない」

「そうですか、それは助かります。じゃあさっそくいいですか?」

 竹を割ったようにスパッと切り替える京子に、塩見は度肝を抜かれた。これが世代の差というものなのだろうか。

「……移動しながらでいいか」

 部屋を出て、廊下を進んで行く。職員専用通路は直線的かつ無機質な作りで、道中に設けられた鉄扉から、それぞれのセクションへ移動できるようになっている。勤める多くは国家公務員であり、日本の保安という重責を負っている自覚がある人間がほとんどだ。理由は分かっていながらも、越中島えっちゅうじまから見れば、すれ違う人の表情はどいつもこいつも堅かった。仕事を楽しんでいるようには見えない。それで言えば、一番つまらなそうなのは、目前を早々と歩く塩見である。

「なぜ、タマさんにあんなことをしたんですか」

 その背中に、京子が尋ねる。塩見は振り返らずに言った。

「誰だ、お前の実家のネコか」

「先ほどの猫人族の女性です! もう忘れたんですか」

 塩見は記憶を巡り、女性が名前がそんなふうだったことを思い出した。猫人族には、クロとかミケとか、日本古来の飼い猫のような名前が多い。

「そういえば、その人はあの後、どうした」

「またたびを持ち帰りましたよ。私が代わりに買って来ましたから」

 いくつかの扉を通り過ぎた所で、塩見は急に方向を変え、扉を開けた。越中島はその背中に鼻をぶつけそうになり、思わず舌打ちしそうになったのを堪えた。

「どこに行くんですか」

「休憩場所だよ」

 扉の先には、こじんまりとした空間があった。単色の樹脂による壁、飾り気のないLED電灯。自動販売機が数個横並びになっていて、その前にはベンチソファが並んでいる。一角にはガラスによって隔離された喫煙所があり、側面に窓は無く、天井に設けられた採光窓がどんよりとした天候を知らせている。非喫煙者の京子には、あまり休まりそうにない。

「休憩って、早くないですか」

「案内だよ。一番に覚えた方がいい場所だろう」

 そう言いながら塩見はまっすぐ自動販売機に向かい、ポケットから取り出したカードケースをかざしている。

「そうですかね。てか、買うんですか、結局」

「お前、細かいヤツだって言われないか」

「うるさいですね、言われますよ」

「だろうな、ほら、早く選べ」

 どうやら奢ってやる、ということらしい。越中島は自分の眉毛がへの字に曲がっていることを感じた。光るボタンに指先を押し込めば、いつものカフェラテが音を立てて転がり出てくる。

「ごちそうさまです」

「甘党か」

「ブラック飲めないんですよ。悪いですか」

「大丈夫だ、俺もだ」

 そう言って塩見はベンチに腰掛け、クリーム入りミルクコーヒーをごくごくと飲み始めた。京子もしぶしぶそれに合わせる。この男といると、ペースを崩される。なんだかんだで質問に答えてもらっていない所がまた、気に入らない。

 そんな京子の無言の訴えに気が付いたのか、塩見が口を開いた。

「越中島、一つ聞きたい。タマさんを向こうに帰した、と言ったが、お前はそれで良かったと考えているのか」

「当然ですよ」京子は胸を張って言った。「彼女の目的はまたたびの入手です。それは達成できたのですから。無理して帽子を被るなんて、心に傷でも追ったら大変でしょう。無理することはないですよ」

「そうか」対して塩見は、あまり興味がなさそうに「なら、それでいいんじゃないか」とコーヒーを飲んだ。

「答える気、あります?」

「どうだろうな」

「そういうの、無いっていうんですよ」

 今度は越中島が大きく溜息ついた。膝の間、両手で抱えたコーヒー缶にまで届いたそれは、ふぉっと音を立てる。

「お前、行ったことあるか」

 ふいに、塩見が言った。

「どこにですか」

「向こう側だよ」

「異世界?」

 返事をしない代わりに、塩見はうなずく。

「ありませんよ。あるわけないじゃないですか。てか、いるんですかね、行ける人。なんでも、どんなにお金を払っても審査は下りないとかで」

「俺はある」

 塩見は吐き捨てるように言った。その言葉に、京子は自分の顔が恐るべき速さで振り向かれたことを、後から襲ってくる首の痛みで知った。

「なぁ、越中島。俺はお前の価値観を否定しない。好きにやってくれていい。だが、考えてほしいことがある。お前はさっき、タマさんは目的を達成したと言ったが、果たして本当にそうなのか」

 意味を図りかねている京子を見て、塩見は続ける。

「あのリュックを見たか。数日数時間で終わるような用事なら、あの大きさは不釣り合いだ。もしかしたら、別の目的があったのかもしれん。むしろそっち方が、本人にはより大切だったのかもしれない」

「それは」極論だ、とは言い切れなかった。

「俺達は入国審査官だ。入国を望む者に適正な審査をし、その希望を叶えるのが俺達の仕事だ。越中島、お前の選択は解決としては迅速だったかもしれないが、結果としてみれば、彼女はこちら側に来ることは叶わなかった」

 その言葉が、越中島の心臓を締め付ける。

「彼女が再びこの地を踏むとき、また同じ問題にぶち当たる。彼女自身が乗り越えない限り、な」

 塩見はそう言って缶を放り投げた。それはごみ箱から外れ、地面を転がった。塩見は舌打ちして、気だるそうに拾いに行く。

「だからと言って、あの方法はどうかと思いますよ」

 その後ろ姿に、京子は言った。

「あれ、絶対セクハラですから。それこそ、越権行為なのでは?」

 負けず嫌いの表情が、最高に生意気だ。塩見は思わず眉を上げた。

「肝に銘じておこう」

 塩見は手を差し出す。しかし越中島はそれに応じず、塩見と同じように缶を放り投げた。それはカランと音を立てて、ゴミ箱の中に吸い込まれていった。

「食えない奴」

「お互い様です」

 二人は再び鉄扉の向こうに歩き出した。

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