第4話
病院の屋上に出た僕は、涼しい夕風を感じて晴れやかな気持ちになった。
この屋上は草木や野菜が植わっている庭園になっていて、めだかが泳ぐちょっとしたビオトープもある。病院の内側は薬剤と消毒液の匂いが支配しているけれど、この屋上はいい感じに不純物が多くて、色々な生き物が息づいているのを眺められる。その感じが、僕は何だか好きだった。
なんで好きなのだろう、とふと思った。たぶん、小さい頃の記憶に根差した感情のように思えた。
夕暮れ時の空は少し光量が落ちていた。それでも、照明がなくても文字を読めるぐらいの日差しはまだ充分残っている。
適当なベンチに座って、僕はその袋から色紙を取り出した。
クラスの12人の全員と担任・副担任の先生が、わざわざ手書きでコメントを書いてくれていた。色とりどりのペンで、ちょっとしたイラストもついていて、クラス全員で撮ったフォトも貼ってある。
先頭から僕は順番に読んでいく。
A君 :『不安だろうが頑張れ! 退院したら遊べよ!』
B君 :『換体のついでに短距離走早くしてもらえ! また俺へのアシスト頼むぜ!』
Cさん:『学習合宿では色々教えてくれてありがとう! 手術、応援してるよ!!』
――以下省略。
まいったな、と僕は照れと嬉しさで頬が緩んでしまうのを感じながら、ひとつずつありがたく読んでいった。
書かかれているメッセージはどれもポジティブで、それぞれの顔と口調が思い起こされるような温かいものだった。
最後に、さっきまでここにいた海埼のメッセージを見つけた。
『退院したら、こないだ言っていた水族館に行こうよ★』
2人でね、と小さく小さくその後ろに書き添えて。
どう見てもデートのお誘いだと思った。確かに海埼とは時々楽しく喋る仲で、かわいくて優しい子だと思っていたけれど、誰に対してもそんな感じだったからこんな誘いが来るなんて全く想像していなかった。
なるほど、さっき恥ずかしがっていたのはこれのことか。僕はぱっと頭の中がピンク色に染まるのを感じつつも、ふと『水族館』というフレーズに目が留まり、すぐに現実に引き戻されたように感じられた。
僕が海埼に打ち明けた話というのは、ある水族館に人生で2回行ったんだ、というものだった。
最初に行ったのは、両親がまだ穏やかだった頃、つまり僕が相当小さかった頃。親に手を引かれながら、僕は色々な水槽に泳ぐ大小様々な魚介類に眼を奪われた。ブースの先々で水槽の前からちっとも動かない僕を、両親はせかし、「いい加減にしなさい」と叱ったりしながらも、僕の両脇でずっと笑っていた。ほとんど半日かけてゆっくりと見て回ったように思う。帰り際に、僕は「毎日水族館に来たい!」と無邪気にはしゃいだのも覚えている。
でも、後にも先にも、親と一緒に水族館に行ったのはそれだけだった。いや、水族館どころか、両親が僕のためだけに遊びに連れていってくれたこと自体、それを含めて数えるほどしか覚えていない。
2回目に行ったのは、親との関係がすっかり冷え込んだ頃。その時、僕はひとりでその水族館へ行った。前回は親にせっつかれながら回った印象が強かったから、今度は自分のペースで気が済むまでじっくり見れる、とすごく期待していた。でも、ひとりで回ると案外あっけないものだった。ひとつひとつの水槽をじっくり観て、もう満足だと感じてから次の水槽へ移っていったつもりでも、ほんの1時間少しで全て見終わってしまった。
以前行った時、どうして僕はあんなに楽しいと思ったのだろう、と考えないわけには行かなかった。
――そんな話を、ひとりで行って来た次の日の登校日に、海埼に話したことがあった。もちろん親との確執がどうとか、そんな重々しいことを打ち明けたわけではなく、「久しぶりに水族館に行ったんだけど、ひとりだと意外とすぐ終わっちゃうね。小さい頃に親と行ったときはすごく楽しかった気がするんだけどなー」という程度の雑談として。その時はまだ親は生きていて、毎日家に帰るのが嫌だった頃。
そういういきさつを踏まえると、海埼が敢えて「水族館」を選んだのは、もしかするとその水族館を『亡くなった両親との大事な思い出の残る場所』だと思っていて、『両親の死に多かれ少なかれショックを受けている僕』を『慰めるため』に提案してくれたのかも知れない。
もしそうだとすると、残念ながら少し不快な気もした。僕は純粋に生き物を見るのが好きなだけで、親がどうとかは別に関係ないんだけど、と。
けれど、そこまで考えた時、僕は不意に別の可能性に気が付いた。
2回目に僕がひとりで水族館に行った時は、ゆっくり観ても1時間で済んだ。けれど、最初に両親と行った時にはたっぷり半日は見回っていた。つまり、少なくともあの時の親は、相当我慢強く僕に付き合ってくれていた。それは間違いなかった。
当時の僕は「もっと見たかったのに……」と不満たらたらに感じてもいたけれど、それでも楽しかったのは、あの瞬間は両親が僕の方をきちんと向いてくれていたからではないだろうか、と。
であれば、さっき僕が想像した、海埼が行き先に水族館を選んだであろう理由は、結果的に図星ということになるのではないか。
――あまり認めたくないな、と僕は感じた。
あれこれ考え過ぎる前に、僕は色紙を袋の中に戻した。そして、ポケットの中から差し入れでもらった駄菓子を取り出して、柵の方へ歩いた。
肩ぐらいの高さのある金網に両腕を着けて、街の向こうへ沈みゆく太陽を眺めながら、その包装を解いて中身をかじる。優しくトゲのない味付けの病院食が続いた中で、その無遠慮で直情的な味は舌に沁みた。
ジャンクフードが好きなのは、家にいる間は厳しく制限されて、ほとんど食べられなかったから。母親は医療関係者としてのプライドなのか「健康に悪い」との断固とした信念でもって、食卓からそれらを排除していた。それでも、年に数回ぐらいは「今日は許して」ということでインスタント食品を食べることがあった。たまに食べる化学調味料の刺激的な味付けは最高だと思ったし、普段は禁止されていることもあって、魅惑の食べ物だった。
夕日を見ながらそんなことを考えていると、僕はある皮肉な結論に気づいた。
そうすると、だんだんこの「復讐」がばかばかしく思えてきて、乾いた笑いがこみ上げてきた。
結局、僕が心から好きなものを辿ってみれば、大体何もかもが親との記憶や関わりに辿り着く。屋上の農園やビオトープで泳ぐめだかに心を癒されるのも、昔水族館に行って楽しかったことも、このジャンクフードを旨いと感じるのも。
その感覚自体は、確かに僕の――僕だけの感情だ。でも、その出どころにはほとんど全て、憎むべき親がいる。いや、正確には、父親と母親を好きだった頃の僕がいる。
ああ、まるで呪いみたいだ。
それを振り払うためにこそ、僕は換体をするつもりだ。でも、義体にも嗜好や感性が引き継がれるなら、その根っこにある親とのつながりを断ち切ることはできないじゃないか。容姿を多少変えたところで、親から受け継いだ身体を足蹴にして廃棄したところで、それは今僕と言う命が乗っかっている宇宙船を取り換えるだけの話。宇宙船の中身が僕である以上、結局逃れることはできない。それこそ、乗組員ごと宇宙船を破壊する――要するに、自殺してしまわない限りは。
生身の身体を捨て去る換体は、自殺にも少し似ているんじゃないかと漠然と思っていたけれど、そうじゃない。天と地ほどの、ゼロとイチほどの、ALL or NOTHINGほどの歴然とした差が、そこにはあるんだ。
それに、まだ確信は持てないけれど、もし海埼が僕のことを何か好意的に意識しているとしたら、もっと絶望的だ。それは、彼女は僕の今の姿を許容している――最悪の場合、惹かれているということ。この父親に似た眼、母親に似た口元。僕が許せないそういう遺伝的形質を「許せない」なんて、海埼はまさかわかってくれるはずがない。
きっと、海埼なら――優しくて思いやりのある彼女なら、一点の悪意もなく、こんな絶望的な一言を口にするであろうことは、容易に想像がつく。
「そんなことを気にするのは、君だけだよ」と。
「君が嫌いでも、わたしは気にしないよ」と。
違う。
そうじゃないんだ。
そんな優しくて思いやりのある言葉は、僕にとっては何ひとつ優しくもないし、思いやりのある言葉でもない。
そんな言葉で許容されてしまったら、僕のこの「復讐」は完結してくれないんだ。
けれど、その言葉を突き返すには、僕の復讐の動機はあまりにも幼稚で、姑息で、最低で――そして、脆弱だった。
そのまま日が落ちて、看護師さんが施錠のためにやって来るまで、僕は茫然としたままその金網から街を眺めていた。
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