第7話 - 間に合え!入学式!⑦

 芙蓉とは庭を越えた門の前で合流した。

 少し休めたものの、やはり紅くんの容態はよろしくない。顔色は青く、脂汗が止まらない。今や、執念だけで足を動かしているような状況だ。

 私も彼に肩を貸し、可能な限りのスピードで坂を登る。

 しかし所詮は怪我人を抱えての逃避行だ。どれほど頑張って走っても、限界がある。今、あの二人に全速力で追いかけられたら、どうしようもないだろう。

 ちらりと『揚羽荘』のほうを見るが……今のところ彼女らが出てくる気配はない。


「へっ、幸運だな。奴らまだ、ぐずついてるらしい」

「ふん、当然よ。マグネシウムの炎上は、水を浴びせても悪化するだけだから。処理が面倒な罠を仕掛けてやったのよ」


 芙蓉は鼻を鳴らしながら、誇らしげにそう言った。

 今のところは、作戦は怖いくらいに上手く行っている。完璧だと言ってもいいだろう。

 だけど、あの粘着質そうな二人が、このまま諦めるはずもない。きっと、速やかに処理を終わらせて、私達を追撃するだろう。

 だからこその作戦の第三段階。ここが肝心なのだ。噴水にまで戻って、そこで決着を付ける。

 そのためには、こんな半端な坂道で捕まるわけにはいかない。できる限り距離を保たないと……。

 と、考えているところで。

 もう遠くなっている館の扉が、勢いよく開くのが見えた。

 無論、そこに立っているのは、扇で自らを煽ぐキサラと――出会ったときより、一層冷たい眼光を孕む、嘉門の姿があった。


「クソ、思ったより早ぇ。俺にかまうな、急げ!」

「嘘、早すぎる……。どうやってあれを、片付けたの……?」


 芙蓉ちゃんの疑問は、私も感じたことだ。

 彼女と一緒に、ネット上での調査を踏まえた上で、マグネシウムは処理に時間がかかるという情報を集めてから、この作戦を立案したのだ。だから、想定では、まだ館からは出てこれないはずなのだ。

 一体どんな機転で、彼らはここを乗り切ったのか。


 そんな不可解な疑念は、すぐに解消されることとなった。

 遠くから見てもわかるほど、嘉門の手が、異常なほど赤く変色していた。

 キサラは嘉門に、燃える粉末の山を、手で握り潰させたのだ。


「……なにそれ」


 この学園のことも、『彼氏』のことも、私はまだよく知らない。

 目の前の勝利を求めるためだったら、キサラのように、血も涙もない立ち振る舞いこそが、もしかしたら正解なのかもしれない。

 だとしても。学園が鬼になることを私に求めているのだとしても。

『彼氏』を傷付けて尚平気な顔をしている『淑女』を自称する者の姿に、またそれを当たり前のように受け入れる『彼氏』などという存在を、私は受け入れることができなかった。

 歪んだ怪物は走り迫る。最悪の場合、私一人でもここに残り、時間を稼ごうとしたその時――。

 紅くんが、立ち止まり、その場で膝をついた。

 空気が凍った。あれほど足掻いて、なんとか細い道筋を作り上げたのに。

 ここまでなのか。

 思わず天を仰いだ私の耳に、彼が呟いた小さな声が届いた。


「テメェ、いい加減、目覚ませよ」


 すると、紅くんは俊敏に立ち上がり、なんと私と芙蓉の腰を掴み、抱え上げた。


「えっ、えぇ! 何々!? どういうこと!?」

「紅! もしかして……!」

「まだ万全じゃねえ。だが、少しは目が覚めたみたいだぜ」


 さきほどまでの、青白い顔はどこへやら。

 見る見る内に、血色が回復してきて、全身の筋肉に張りが戻ってきているようだった。


「優希」


 そして紅くんは、私の名を呼んだ。


「お前の根性のお陰だよ。ありがとう、な」


 整った彼の口から出された、素直な賛辞は、私の耳を赤く染めるくらいの、破壊力があった。

 紅くんは私達二人を抱えたまま、それまでの弱々しさから一点、力強く走り出した。見る見る間に坂を駆け上がり、そのまま、最初に出会ったあの場所へと近付いていく。

 彼にこんな膂力があったなんて。

 気になる台詞もあったが、今は気にしている暇はない。

 注力するべきは最終段階。ここで嘉門とキサラを――撃つ。


 そして私達は噴水前の広場に到着した。

 紅くんから離され、地面に降り立つ。私は芙蓉と目を合わた。


「芙蓉。お願い」

「――わかった。任せて」


 芙蓉は紅くんを連れ、ここから去っていく。

 それを見て私は一息つき、前を向いた。

 そこには、肩で息をしながら、鬼のような形相で立つ、嘉門の姿が。


「もう、もう、もう、本当に、ここまでだ」


 呂律が怪しくなるほど、怒りに支配された男の目は、真っ赤に血走っていた。

 隣のキサラは言葉すら発すること無く、静かな激情に身を浸らせているように見える。


「て、て、テメェ。よくも、のこのこ、目の前に出てくれたな、オイ」

「……ねぇ、嘉門くん」

「あ? あッ!? 話しかけんな、馴れ馴れしくすんな、殺す、ぞ!」

「貴方は、キサラちゃんの『彼氏』なんだよね」

「それが、何だよ!」

「キサラちゃんは、貴方にとって、なんなの?」


 私の質問に、彼は呆気に取られた。


「嘉門。そんな卑しい女の言葉に、耳なんか貸さないで」

「キサラちゃん、貴女もだよ」


 口を挟んだキサラへ、私はすかさず反論する。


「貴女は、御舟学園で、名を上げるために、一生懸命頑張ってる。だから、『黒薔薇の会』なんてところにも入って、命令を忠実に聞こうとしている」

「……それがなにか? 御舟は普通じゃない。生存のための戦略は、惜しみなく選ぶ。それだけよ」

「『黒薔薇の会』にとって、貴女はなんなの?」


 私の問いは、彼女の顔面を醜く歪める。


「貴女は、目的のために『会』という手段を選んだ。だけど、結局貴方達は、誰かの手段に成り下がってしまっている。ライバル潰しなんて、誰のためにやっているの?」


 私は、目を合わせたまま、言いたかったことを、伝えた。


「『淑女』の誇りって、そんなに安いものなの?」

「――愚民が」


 キサラが絞り出した声は、表現できないくらいの色んな感情がないまぜになっていた。


「今のを遺言だと思っておくわ。『彼氏』にも見放された、口先野郎め。嘉門、やれ!」


 そして怪物が躍り出る。真っ赤に火傷した手を私に向け、存分に振るわせる。

 私は思い切り背を向け逃げ出した。嘉門の指先が背中を擦る。

 真正面から向かって、勝てるだなんて思ってはいない。あんな啖呵を切った手前であれだけど、ここは全速力で逃げなければ――。

 だけど、その見立ては甘かった。

 嘉門くんがその巨体に秘めていたエネルギーは凄まじく、私は完全に読み違えていた。

 枷から解かれ弾かれるように飛び出した彼は、まるで火山の噴火だ。なんとか躱したと思った次の瞬間には、制服の襟足をもう片方の手で掴まれてしまって。


 思い切り投げ飛ばされた。

 重力がめちゃくちゃになる。

 地面、空、建物、地面、空、空、地面。 

 視界がこんがらがって大変なことになり、私は空中にいるんだということを思い知らされる。

 そして墜落。

 どれほどの長距離を飛ばされたかなんてわからないが、か弱いこの肉体が飛んだ先は――噴水の水たまりだった。

 水面に叩きつけられ、骨にまで響くような痛みが広がり、水柱が勢いよくせせり立つ。

 豪雨のような水しぶきのカーテンの向こうから迫りくる影は鬼の模様をしていた。

 それはぬるりと腕を突き出すと、私の喉元を容赦なく掴む。


「が……ぁ……ぁ……!」

「舐めんな、女。二度と、立てないように、してやる」


 太い腕に纏われた筋肉は鋼の鎧のようで、全力で締め上げられると、一ミリも空気が入ってこなくなった。

 意識が朦朧とする。

 何も考えられない、どうしようどうしよう苦しい苦しい苦しい苦しい来る死来る死死死苦苦苦死死。

 そんな絶体絶命のピンチだったけど。

 視界の端に、芙蓉と紅くんが見えて、彼らが一生懸命何かを伝えようとしているのがわかった。


「ぁ……ぁ……ぁ、ァ、ぁあああ」


 もがいて、嘉門くんの剛力から逃れようとしている演技をする。その隙に、ポケットにねじ込んだゴム手袋をそろりと取り出す。

 そして、全体重を後方に預けると、ほんの少しだけ、私達の位置が、半歩ほど後ろにずれた。

 そこにあるのは――芙蓉と紅くんが乗り捨てていたEVバイク。

 しかも、事前の打ち合わせ通り、車体の中は解体されていて、電線が剥き出しになったコードがまろびでている。

 私はゴム手袋を装着し、最後の力を振り絞って、その電線を掴んだ。

 嘉門くんが動揺する様が、締め付ける手から伝わってくる。だけど、もう、遅いんだ。

 彼の腕を、左手と顎でがっちりとホールドしてやる。

 鬼の顔が、そこではじめて、恐怖に歪んだ。


「くら、ぇえええええええ!」


 そして彼の手首に、電線を押し付ける。

 それと同じタイミングで、芙蓉が遠隔キーのボタンを押し、EV電動バイクの電源をオンにする。

 電撃が迸る。鬼が哭く。叫ぶ。

 私達の反撃の雷電は、晴天の下、怪物へと放たれたのだった。

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