第4話 - 間に合え!入学式!④
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少年が、蹲っていた。
口から、鼻から、耳から血を流し、痣だらけになった腕で、腹部を抑えている。
かつての涼しげな美顔は、もう見る影もない。暴力により歪められた顔面がそこにあるだけだった。
虫けらみたいに、無様に転がる彼の表情には、絶望的な恐れが刻まれている。
少年が見上げるのは――真正面のベンチで、冷たい視線で見下ろす、一人の男だった。
男は、傍若無人に足を組み、袖を通さず肩に掛けたジャケットを敷布にするようにして、背もたれに寄りかかっている。
ふてぶてしいまでの不遜な表情で、足元に転がる物体を眺めていた。
彼は明らかに、関わってはいけない人種だった。
長い前髪から除く、異様なまでの冷酷さを秘めた眼光もそうだが……喉に、腕に、足首に。
精緻に刻まれた龍の入墨が、異彩を放っているのだった。
血を流し続ける少年は、ひどく震えている。
――厳しい学園だとは知っていたけど。まさかこんな。
――正真正銘の悪魔までが闊歩しているだなんて。
ここで出会ってしまったのが全ての終わり。
己の運命を呪わないわけにはいかなかった。
男は、本当にくだらない、といった表情のまま――ポケットから煙草とライターを取り出し、火を点ける。
すると突然、クキキ、なんて底意地の悪い笑い声が聞こえてきた。
いつの間に近づいていたのだろうか。
丸い眼鏡を掛けた、いかにも性根の悪そうな細い男が、ふらりふらりと彼らに近付いていたのだ。
眼鏡の男は、ぱちぱちと拍手をして、入墨の男に惜しげない称賛を送る。
「いや、いや、いや、いや。クキキキキキ! 凄いねぇ、素晴らしい。まさか、こんなところで、お目にかかれるとは思っていませんでしたよ!」
「――誰」
「いやいやいやいや! これは失敬。私、武部と申します。すみません、あまりにも感動してしまって、我慢できなくなっちゃいました」
武部は、丸眼鏡をくいと持ち上げ、口角を吊り上げさせた。
「そこの不運な『彼氏』は可哀想ですねぇ。そこのお方が何者なのか、知ってさえすれば、また違った立ち回りがあったでしょうに」
「…………何者、か?」
少年は、振り絞るような声を出し、再び男を見上げた。
しかし、いくら顔を見ても、何者かなんてわかるはずもなく、どうしても目にとまってしまうのは、両腕両足の龍の彫物だ――。
「あー! ダメダメダメダメ! ピンとこないようじゃあ、もうダメダメ過ぎますねぇ! 無知を通り越して無礼ですよ、んもう! ねぇ――」
そして武部は、その名を口にした。
「九龍さん」
「…………く、りゅう」
そしてようやく、少年は、その男の正体を悟った。
武部が、我が意を得たりと、満足そうな顔でペラペラと喋りだす。
「九龍。裏社会で、最強の武闘派と恐れられる指定暴力団、九龍組。その組長の息子にして――六つの公立高校と一つの私立高校を制覇したなんて伝説を持つ、不良界の凶星。その九龍でしょう? いや、まさかここで会えるなんて」
意気揚々と、出会ったばかりの悪魔の紹介を並べる武部。
その伝説は、同年代ならば、少なからず全員が知っているはずだ。
この成熟した現代社会において、己の拳のみで、たった一度の敗北もなく、数々の学校の頂点に至り、伝説と化してしまった、ならず者。
生み出された数々の凄惨なエピソードは、最早嘘か真か判断ができない始末で、存在自体が都市伝説だと言って憚らない者もいる。
無論、ここで転がる少年も「九龍」の話は知っている。
まさか、さっき敵対した相手がその本人だったなんて、そんな悪夢はあるだろうか。
更なる絶望は深く、少年は言葉を失うしかなかった。
「四肢の龍の入墨! ほんとだったんですねぇ。こんなモンスターを『彼氏』にできる女なんて、一体どんなレベルの権力者なのやら……」
「てめぇさ」
ようやく、九龍が口を開いたかと思うと。
「うるせえんだけど」
そんな短い言葉だけで、臓腑が底冷えするようであった。目の光、佇まい、言葉の力。そのどれをとっても、彼が本物の「九龍」であることを証明している。
武部は、背筋にゾクゾクとした悪寒がせり上がるのを堪えきれなかった。
「いやはや、とんだ失礼を。いや、嬉しくなっちゃってですね。ご挨拶だけでもしておかなきゃ、と。貴方と同じチームで戦えるだなんて、夢みたいで」
武部の妙な言葉に、九龍は眉をひそめる。
「『黒薔薇の会』に入ったんでしょう? 学園最大派閥の。いや、あの会も苛烈ですねぇ。入会したくば、ライバルを沢山蹴落として来なさい、だなんて指令を出すんだから。私なんか、ようやく五組ほどを蹴落とせたところですよ」
何がおかしいのやら、武部はゲラゲラと笑い始めた。それを聞き、少年が青ざめる。
当然のようにふるわれる暴力。都市伝説の不良。そして、新入生同士を相争わせる派閥。
そのどれもが浮き世離れしている。こんな混沌とした世界があるだなんて、誰が信じられるだろうか。
そして、武部が「そういえば」なんて白々しい言い方をした。
「この辺で『黒薔薇』から逃げ出したカップルがいるらしいですねぇ。なんとかモーターの令嬢と、その『彼氏』。そして……一人の『淑女』が、協力し合って逃げ出したとかなんとか」
それを聞いて、ぴくりと反応する九龍。
彼は、ゆっくりと立ち上がり、武部に尋ねた。
「どこに逃げたって」
「クキキ……! 獲物は逃さない、ですか! いやいやいやいや! 精が出ますねぇ! 一体何ポイント稼ぐつもりなのやら! クキキ、あちらの噴水の方向らしいですよ」
そして九龍は、礼も言わずに、武部が指さした方向へと歩き始めた。
その威風たるや、まさしく龍の子。
剥き出しの刃物のような殺気を撒き散らしながら、彼は手負いの獲物の後を追う。
血だらけの少年を、その場に残して。
九龍の背中を見て、彼は思った。
行かせるものか。
制服の内ポケットに仕舞い込んでいた、特殊警棒を取り出す。
音も立てずにそれを伸ばすと、手持ち部分のスイッチを押した。
装置が唸り、微かに振動する。見た目にはわからないが、それには高圧電流が迸っている。
なにが伝説。なにが悪魔。なにが龍の子。
九龍は、彼のことなど、最早眼中にもなく、完全に背を向けている。
やるなら、この好機しかない。
避けられるはずなんて、ないのだ。
少年は、体の奥底から湧き出る勇気を掻き集め――立ち上がった。そして、駆ける。
「くらえぇぇぇええええええ!」
それは、予想外の一撃。完全に沈黙したと思った敵からの、不意の攻撃だ。
手には、触れれば意識を刈り取られる特殊警棒。あらん限りのスピードで駆けた少年の反撃は、避けられる道理なんてどこにも無い。
すぐそこまで肉薄する。手を振り下ろした。もうあと一瞬で攻撃が当たる。だから勝ったと思った。
そんな道理、伝説に通じるはずもないのに。
警棒が当たる間際に九龍はその身を回転させた。
竜巻のように美しい旋回は、警棒を見事に避け、そのまま拳を少年の顎に叩き込ませた。回避と攻撃を併せた、ため息が出るような美しい動作だった。
あまりの痛みに、手の警棒を取り落とす少年。
そこから九龍は右脚を振るった。龍が尾を振るうような鋭いハイキックは、少年の頭蓋に衝突する。
意識を飛ばす少年の胸ぐらを掴み、九龍は右手を再び固めると、彼の顔面に容赦なき拳骨の雨を浴びせた。
畑を耕すかのような、純粋で無造作な腕力だけの原始的暴力。
鮮血を垂れ流していた少年の顔は、見る間にどす黒く変色する。
そうやって少年の胸ぐらを掴みながら、地面に転がった警棒を器用に蹴り上げ、右手で掴んだ。
そして取手のスイッチを入れる。
バチバチと、電流の音がした。
なんの逡巡もなく、それを少年の首元に押し当てる。彼の全身がびくんびくんと痙攣した。
そうしてやっと、少年の体を離す九龍。
そして、一切の興味を失ったように、また同じ調子で、目的の場所にまで歩き始めた。
九龍の、本物の制圧を目の当たりにした武部は――もう、それはそれは、嬉しそうに笑っていた。
「あぁ、あぁ! いやいやいやいやいやいやいやいや! 最高! 最高だよ、貴方! クキキキキキキ! 九龍さん! 私は先に、式場に向かってますねぇ! なにかあれば、私、武部にまでご依頼くださいませ……!」
九龍は返事すらせず。人のものとは思えない眼で、御舟学園を歩くのみであった。
この男に狙われた生徒の冥福を、武部は祈った。
こんなものに狙われた時点で、そいつらは終わりだ。ああ、なんて愉快なのだろう。
武部は、遠ざかる彼の背を見て、思った。
――龍の逆鱗に触れるなかれ。
何人たりであれ、その怒りを受け止められる者はいないのだから。
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