死せる姫君に狼のくちづけを(3)
劇場の支配人への挨拶と、利用の手続きはつつがなく終了した。
ユリシャは見た目は子供でも実際には立派な大人の女性である。態度も作業も実に丁寧に的確に、さすがは〝
もとより護衛でついてきたコウシロウは完全にオマケ状態のまま、劇場を後にする。
後は再び馬車に揺られて帰るだけなのだが。
(……どうにも、気マズいですね)
行きの馬車内でのやり取り以降、コウシロウとユリシャはひと言も口を聞いていない。
まあ、気マズいのはもともとそうだったのだが、輪をかけて空気が重くなっているのは否めなかった。
劇場の前庭を歩きながら、気晴らしに景色へと目を向ける。
この辺りは東部区画内でも北西端に近く、普通に郊外と呼んで差し支えない。だが、寂れてはおらず、荒野に面した街とは思えぬほど植樹が多く、緑が目立つ。今歩いている庭などは何と芝生敷きだ。
シャロワの西部区画には雑木林もあるそうで、改めてその広大さを思い知らされる。
待機していた馬車に乗り込もうとしたところで、ふと、ユリシャが立ち止まった。
彼女が見つめた先は、数十メートルほど先にある建物。屋根に十字架を掲げた小綺麗なそれは教会か、いずれにせよ宗教関係の建造物だろう。
「あそこでの行事が公演日程と重なっていたら面倒ですね」
そう言って、早速に確認しようとそちらに歩を進めるユリシャ。
確かに、祭事や葬儀とかぶってしまったら、向こうとこちらの客で混雑が倍増するし、単純に、葬式してる近くで公演というのも色々と気をつかいそうだ。
建物についてみれば、やはり教会だった。
入口の扉を開けて入れば、中には四十脚ほどの長椅子が整然と並ぶ光景。コウシロウは大陸の宗教事情には明るくないが、規模は大きいと思う。
正面の祭壇には白い聖母像がたたずみ、その前に黒い修道服姿の女性がひとり。
おそらくはこの教会の尼僧なのだろう。
彼女は聖母像の前に置かれた黒い棺に対してひざまずき、厳かに祈りを捧げているところだった。
どうやら間が悪いことに、ちょうど葬儀の真っ最中であったようだ。
そのわりには弔問客のひとりもいないのは、旅人か行き倒れか、いずれにせよ身寄りのない死人の弔いなのだろう。
ユリシャも声をかけて良いか計りかねた様子で立ち尽くす。
だが、静まり返った堂内のこと、扉の開閉音は明確に響いていたのだろう。尼僧は祈りを中断して立ち上がり、こちらへと歩み寄ってきた。
砂漠の土地柄か、あるいは葬儀の作法なのか、ベールと
ユリシャも丁寧に礼を返しつつ、切り出した。
「お取り込み中に失礼しました。少し、お訊ねしたいことがあってきたのですが、出直した方がよろしいでしょうか?」
「いいえ。どのような御用件でしょう?」
囁くような弱い声は、面布越しに少しくぐもって、それでも温和な響きをもって応じた。
ユリシャは早速、劇場での公演日程との行事のかぶりがないかを丁寧に簡潔に確認する。幸いにも、今のところは重なる予定はないようだ。
「……ですが、何ぶん、凶事は突然訪れるもの。お亡くなりになる方がいらっしゃれば、急遽こちらで弔うこともございます。昨今は、少々不吉な事件も続いておりますし……」
痛ましげに顔を伏せる尼僧。それは例の怪物騒ぎのことだろう。
「今弔ってらっしゃるのは、件の怪物騒ぎの犠牲者の方ですか?」
コウシロウの問いに、尼僧は静かに頭を振る。
「いえ、あれは先日に病死なされた女性で……」
そこで言葉を止め、ややためらうようにユリシャに視線を落とす。幼い子供に聞かせる内容ではないということだろうか?
察したらしいユリシャの方から問い返す。
「モグリでお客を取っていた娼婦の方でしょうか?」
平然とした様子のユリシャに、尼僧は少し驚きながらも肯定を返した。
娼婦──つまりは身体を売る女性のことだが、通常は娼館や、その土地を仕切る組織の後ろ盾を受けて仕事をするのが常だ。
それには様々な事情があるが、最も大きな理由は、娼婦という仕事の性質上、他職以上に互助の必要性があるからだ。
そんな中で、モグリで客を取る娼婦とは、何らかの事情で娼館や地元組織に受け入れられていない。すなわち、孤立して誰も助けてくれる者がいないということ。
そのような者が死んだ場合、処置は困難になることが多い。
後ろ盾がないということは、身寄りがない者と同様に、葬儀埋葬に関わる費用も手続きも負担してくれる者がいないということであり、結果、引き受けた教会なり施設なりが肩代わりすることになるからだ。
今、ここで弔われている女性も、そうしてタライ回しにされた果てに、この郊外の教会に送られてきたのだろう。
「よろしければ、献花していただけませんか? 見送る者がわたくしだけでは、故人も寂しいでしょうから……」
あえて断る理由もないだろう。
尼僧に促されるままに、ユリシャとコウシロウは祭壇前に歩いて行く。
「この女性は、南部区画の、いわゆる貧民街の方です。お綺麗な方で、以前は複数の男性とお付き合いをしながら、なかなか羽振りの良い生活をなさっていたようなのですが……。数年前に病を患ってからは、それも一転してしまったようです」
ふたりの後に続く尼僧が、さも痛ましげに故人のことを語ってくれる。
男遊びの派手な女性が、病を機に交際相手から捨てられ、それまでの傲慢で怠惰な振る舞いが祟って周囲からも孤立し、果ては貧民街で身体を売るにまで落ちぶれてしまった。
良くあるといえば、良くある話だ。
「故人は、決して善良とはいえない人でした。しかし、死して神の御許に召される時は皆が平等でございます。どうか、御冥福を祈ってあげてください」
穏やかに厳かにそう告げて、尼僧は静かに両手を組んで祈った。
祭壇前に用意された献花の束。ユリシャはそこから一輪を手に取り、フタの開けられた黒い棺に歩み寄る。手にした花を遺体に供えようと、中を覗き込んだ。
簡素な黒い棺の中で、白木綿の敷布に寝かされた女性。
美しかったという容姿は見る影もなく、遺体であることを差し引いてもみすぼらしくヤツれ衰えた姿。
そのボサボサにほつれて色褪せた赤毛と、苦悶に見開いた藍色の瞳に、ユリシャはハッキリと大きく、固唾を呑んだ。
「故人の名は、〝エルラ〟と仰るそうです」
尼僧が告げるまでもなかった。そんなことを聞くまでもなく、見間違えようもなかった。
ユリシャは、手にした献花の花を握り潰して、遺体の顔を覗き込む。
「……ああ、ようやく……会えましたね。お母さん……」
ニィ──と、冷ややかな笑みを浮かべて、ユリシャは母の死に顔を指先でなでる。
「お母さん、ずっと、ずっと、私は貴方に、会いたかったんですよ?」
水気を失い、生気を失い、シワとヒビに汚れた貌。それをゆるゆるとなでながら、ユリシャは冷笑のままに怨嗟をしぼり出した。
「ふふふ、こんなに醜く落ちぶれて、何という様でしょう……。お母さん? 貴方のおかげで、私がどんなに苦い思いをしたか、どんなに、どんなに、惨めを味わったか……ほんの少しでも、御理解いただけたのでしょうか……」
くぐもった笑声。
込み上げる昂揚を懸命に抑えるように、ユリシャは笑声を噛み締めながら母に顔を寄せ、その見開かれた双眸を間近に凝視した。
「どうしました? お母さん、さっきから何を黙りこくっているのです? いつものように無様に声を荒げないのですか? 下卑た言葉を吐かないのですか? 貴方はいつだって、私にその醜い情念を叩きつけて嬲ってくれたではないですか。死ねば良いと、死んでしまえと、オマエなんか生きている意味がないと、死ね、死ね、死ねと、死んでしまえば良いのにと、何度も、何度も、殺意を浴びせてくれたではありませんか?」
それとも──。
「私がわからないのですか? そんなはずはないでしょう? 私は、貴方が嫌悪し忌避したあの時のままなんですよ? 貴方に捨てられたあの時のままなのに……」
ユリシャの小さく細い指先が、母の首筋に触れる。
棺の中に身を乗り出して、両の手を差し伸べて、物言わぬ母の頸をゆるりとつかむ。
「お母さん、お母さん、お母さん、やっと会えた。やっと、やっと、会えたのに……!」
呻きはかすれて引きつれる。腹の底からわき上がるドス黒い感情のままに、ユリシャは母の頸を絞めた。
小さな両手に力の限りを込めて、絞め上げる。
「ふざけるな! ふざけるな! 私は、貴方を憎んで! 貴方を恨んで! ずっと! なのに……ふざけるなッ!!」
憎悪を吐き出すユリシャ。
オマエを苦しめたかったのだと。
オマエを痛めつけたかったのだと。
自分が踏みにじられ刻みつけられた苦痛を、何倍にも何十倍にもして叩きつけてやるために、汚泥の底を這いずって生き延びてきたのだと、心に鬱積した黒い闇を吐いて叫ぶ。
けれど、憎い相手は物言わず、身動ぎもしないまま──。
「……だったら私は! 何のためにあんなに苦しまなければいけなかったのですかッ!!」
ひときわ張り上げた叫び。
ゴキリと、鈍い音が響いて、絞め上げた遺体の首が歪に傾いた。不自然に仰け反ってぶら下がった頭部。
ユリシャの喉から叫声が放たれる。
最早それは声ではない。濁った音でしかない。黒い黒い感情に染まりきった、血を吐くような慟哭。
その感情の爆発を待ち望んでいたかのように、黒衣の尼僧は静かな笑声をもらした。
「──其方を縛る、その絶望の〝枷〟を、我が消し去ってやろう──」
歓喜に震えた口上とともに、尼僧はベールを脱ぎ捨てる。
たなびき広がった長い黒髪。
暗黒の色を映し込んだかのごとく不吉な闇色の髪と、死人のごとき青白い肌。
凄絶なまでの美貌の中で、鮮やかな黄金の双眸が艶やかな笑みに細められてコウシロウを、その背後で慟哭するユリシャを見つめて嗤う、嗤う。
コウシロウは黒瞳を見開いて、その憎き災厄を睨み上げた。
「相変わらず、手のこんだことですね」
コウシロウの冷ややかな眼光に、黒狼はうっとりと陶酔するように唇を舐める。
「美味なる食を
そう、かつて其方の〝枷〟を味わったあの時のように──。
愛しい妹の血肉を乗っ取った悪獣。艶やかな嘲笑に歪む美貌、その懐かしくも愛しかった姿が邪悪に歪む様に、コウシロウはビキリと奥歯を軋ませて地を蹴った。
怒号とともに襲いかかる彼に、黒狼はあたかも駆け寄る恋人を受け止めるかのように、優しげな所作で手を差し伸べる。
「そんなにガッつかないでおくれ〝
囁きとともにフッとこぼした吐息。
それに呼応するように、黒狼の長い髪が大きく振り動いた。黒髪がねじれ束ねられて生き物のように蠢き、コウシロウの首に巻き付いて絞め上げながら天井に放り投げる。
大きく放物線を描いて飛ばされ、壁と床に叩きつけられるコウシロウ。
「良い子で待っていておくれ、この娘の闇を喰らうのが先なのだ。のお? 其方も、もう堪えられぬであろう?」
黒狼はクスクスとふくみ笑いながら、骸に覆いかぶさったユリシャににじり寄る。
母に捨てられ、世界に踏みにじられ、母を呪い憎むことで生き延びてきた哀れな女。
憎い相手に復讐することを、恨む相手に復讐することを、それだけを糧に地獄の中で顔を上げ、前を睨みすえてきたその果てに、研ぎ澄ました憎悪を突き立てる相手を失った。
吐き出す対象を無くして渦巻き猛り狂うその黒い魂を、暗黒の心を、今こそ!
「さあ、その闇色を差し出すが良い。我が喰ろうてやるぞ。もう其方が苦しむことはない。さいなまれることもない。その黒く渦巻く憎悪の全てを、我が取り除いてやる」
さあ、さあ、其方の闇を喰わせておくれ──。
黒狼が舌舐めずりして艶笑する。
響いていた慟哭が、引きつれて途切れた。
棺の中、骸の頸を絞めたまま、ユリシャはかすれた憎悪を切れ切れに紡ぎ出す。
「……お母さん……私は、貴方に、言いたいことが、あったんです……」
憎く、恨めしい、呪っても呪っても呪い足りない相手に、ずっと言ってやりたかった。
「……お母さん。私の死を望み、私の生を疎んだお母さん……」
細い喉を震わせて、ユリシャは息を吸う。
「生き延びてやったぞ!
高らかな会心を込めて、ユリシャは勝ち誇った。
ピクリと、黒狼の笑みが軋む。
ユリシャは母の頸部から手を放し、ゆっくりと身を起こす。
そして、背後にたたずむ黒狼を振り仰いで、その幼い貌を深い嫌悪と軽蔑に歪めた。
「消え失せてくれませんか? 私の心は、私のものです。私が憎み、私が苦しみ、私が抱き続けた、私の闇です。誰にも渡してやるものですか」
真っ直ぐに、わずかの惑いもなく断言する。
「……何が〝枷〟ですか。私のことを、シタリ顔で断じるな! 気持ちが悪い!」
オマエに喰わせるものなど何もないと、ユリシャは
それは思いがけぬ反応であったのか、黒狼は呆然と。
「解せぬな。苦しみや痛みを消し去ることを、何ゆえ拒むのか……」
「言ったでしょう? これは私の苦痛です。私の中の、私の心。そこに勝手に踏み込んでくるなど、たとえ神様であっても、赦しはしない!」
祈りの祭壇で、仮にも神を前にしながら、高らかに叫ばれた宣言。
黒狼は、その笑みを激しく歪めて牙をむいた。
思い通りにならぬ相手に、どうしても欲しいものに手が届かぬ事態に、憤り暴れるように、金瞳を見開いて咆える。
その黒い咆吼を掻き消して響いた、もうひとつの咆吼。
より高らかに、激しく、雄々しく叫び上げられた狼の遠吠え。
銀色の閃光が、黒狼の身体を薙ぎ払う。黒い血しぶきを振りまきながら向き直る黒狼。
睨みつけた金色の眼光を、同じく金色の眼光が受け止める。
銀色の毛並みを逆立てて、鋭い爪牙を軋ませた、白銀の輝きをまとう巨大な狼の姿。
「……銀狼ぉッ!」
恨めしそうに、黒狼は咆えた。
直後、黒い女から闇色があふれ出し、その身を包み込んで膨張する。寸前まで人の形だったものが、禍々しく蠢く漆黒の魔獣の姿へと変貌する。
漆黒の狼と対峙した銀狼は、その神々しい威風にドス黒い殺意と憎悪をまとって、もう一度大きく咆えた。
「憎いのか銀狼! 我が憎いのだな銀狼! ああ、そうであろ! 其方にはもう、それしか残っていないのだからな!」
応じる黒い咆吼は嘲りを宿し、哄笑となって聖堂内を震わせる。
銀と黒の獣は同時に床を蹴り、その爪で互いを斬り裂き合って行き違う。
「憎め! 憎め! もっと憎め! それが我らの糧となる! 愛しい女の血肉を奪った我が憎いであろう! 同胞たちを喰い散らした我が憎いであろう!」
嘲り咆える黒狼が牙をむく。喰らいついてくるアギトを躱して爪を振るう銀狼に、黒い尾が刃のように鋭利に振り下ろされた。
肉を裂く音。鮮血を噴いて床を転げた白銀色の狼。
「ククク、健気よな。一途よな。ほんに其方の抱く心は甘露よ。あの時に喰ろうた味、今でも忘れられぬぞ」
耳まで裂けた口を笑みに歪めて黒狼は嗤う、嗤う。
「自由を望み、安らぎを願い、楽しき日々を求め、愛する者の幸福を喜びとした其方が、その希望がゆえに犯した過ちよ」
遥か東方の地、狼たちの故郷での罪科。
当代の銀狼王であるコウシロウは、同胞たちが獣の力を結晶化して取り出し、人の姿で生活している中で、ただ一柱、狼の姿で生きていた。
黒狼を封じる銀狼の戒め。
直系の者が代々その身に受け継いできた銀狼王の力。その力こそが封印であり、銀狼王が銀狼王として座に在ることが要である。
そんな何百年も前の迷信に縛られるのはイヤだった。古き獣として森の奥に隠れて潜み続けるのが耐えられなかった。
だから、獣の力など捨て去って、人間として、自由に生きたかった。
〝……人間になれるのだよ……〟
だから、そんな甘い声に耳を傾けてしまった。
長い時の中で綻んだ封印の隙間から、こぼれ出た黒狼の影。その甘言に踊らされ、コウシロウは自らの銀狼の力を
そうすることで、人間になれるのだと──。
確かにコウシロウは人間になれた。全てと引き換えに、人間になった。
「其方を縛る〝枷〟……銀狼の使命、銀狼の力、銀狼の血族、其方があの地に留まらねばならぬ全ての理由は、我が喰ろうてやったよな?」
黒狼が哄笑とともに爪を振り下ろす。銀狼は引き裂かれながらも牙をむき、その黒い前肢に喰らいついた。
黒い血を流しながら、それでも黒狼は笑声を高らかに、喰いつく銀狼を黒尾のひと薙ぎで吹き飛ばす。
長椅子を砕きながら叩きつけられた銀狼は、四肢を軋ませ身を起こした。
憎き怨敵を睨み返す銀狼。
血まみれながら未だ衰えぬその眼光に、黒狼はたぎる興奮もあらわに艶笑する。
「其方が喜楽を求めたがゆえに我が目覚めた。其方が幸福を願ったがゆえに皆は死した。其方が愛したがゆえに、この娘は我に喰われた!」
真っ赤な舌を伸ばして、己の黒き獣身を舐り上げて示す。
そうだ。だからコウシロウは、己の中の、そんな生ぬるい感情を──忌み、厭うたのだ。
あの日、あの時、コウシロウにとって、それらの感情こそが、暗く黒く染まった〝負〟の想いだった。
「其方の心、其方の喜楽……正でありながら負に反転した感情の歪み……ほんに、得も言われぬ美味であったぞ!」
さあ、牙を折られし銀狼よ──。
「喜楽を喰われ、憎悪と哀怒だけでさまよう愚かな咎人よ! 其方の育み練り上げた怨嗟を、さあ、今こそ味わわせておくれ!」
黒狼は感極まった悦楽の笑声を上げて、大きく牙をむいて銀狼に喰らいついた。
白銀の毛並みが引き裂け、血がしぶき、銀狼はもがき身もだえる。
それでも喰らいつく黒狼のアギトはわずかにも揺るがない。鋭く、強く、ゆっくりと深く、銀狼の皮膚に、骨肉に、その魂に、突き刺さり抉り込んでいく。
銀狼の身体が霞むように輝き、まとう光輝が霧散するように蒸発して、人の姿に縮小し始める。
傷を負い、力を削がれ、銀狼の姿を保てなくなったコウシロウ。
胸から下を黒いアギトに噛み締められながら、コウシロウは静かに、苦そうに、笑った。
「……ああ、そうだ。ずっと、一緒にいられるだけで……それだけで、良かったのに……」
虚ろな呟き、虚ろな眼差し。
「……ただ……それだけで…………」
金色の双眸は明滅し、銀色の髪はくすんで、肌の色も黒く染まりゆく。
まばゆき銀狼から、ただの咎人へと戻っていくコウシロウ。その全身からあふれてこぼれ出た銀狼の力が、伸ばした手の中に収束していく。
〝──ずっと、一緒に──〟。
それだけを願い、それだけで良いのだと望んだ彼女の笑顔。
それだけのことを叶えてあげられなかった愚かなコウシロウ。そして、今もまた、叶えられない不甲斐ない自分を呪いながら──。
握り締めた手の中で、まばゆく輝く、愛しかったあの子の残滓。
彼女が遺した白銀の
「……さあ、森へ還ろう。
張り裂けそうに猛り狂う黒い心のままに、握り締めた彼女の
甲高い獣の悲鳴。
大きく仰け反りもがく黒狼に、突き刺さった白銀の牙から輝きが流れ込む。
漆黒の闇が、内側からあふれ出す白銀の輝きに覆われていく。
「バカな、バカな、こんな! こんな小娘の力に、我の魂がぬり潰されるなど……!?」
流れ込む銀色に、銀色の力に、黒狼は抗い、あがき、それでも、急速にその勢いを失って輝きにぬり潰されていく。
白銀の毛並みをたなびかせた狼。黒く蝕まれる前の、白狼の姫の残影。
白光に輝く獣の身体が、そのシルエットが、急速に収縮し、人の形を象って──。
まばゆい銀光が霧散して、そこに残ったのはひとりの女の姿。銀色の髪を流して、金色の瞳を物憂げに細めた、白い肌の女。
煌めきをまとってたたずむその懐かしい姿に、愛しかった彼女に、コウシロウは苦い笑みを浮かべて呼びかけた。
「……すまない、シオリ……僕は……キミを…………」
血泡まじりに紡いだ免罪に、彼女は記憶の中と同じく、ニッコリと優しげに微笑んだ。
〝……本当に、兄様は仕方がないですね……〟
恨みもツラみもあるだろうに、憤りも無念もあるだろうに。
それでもなお、彼女は最後の瞬間までコウシロウのことだけを案じて、淡雪のように掻き消えて逝った。
シンと静まり返った堂内。
寸前までの荒ぶる光景は夢幻のごとく、血まみれたコウシロウはぐらりと天井を仰いだ。
「クーセローさん!」
ユリシャの声。駆け寄ってきた彼女は、それでも慌てることなく、コウシロウの傷を手当てし始めた。本当に、何て強い女性なのだろう。
「……ありがとう、ございます」
コウシロウは、心からの礼を言う。
「は? むしろ助けてもらったのは私の方でしょう? それに、礼を言うのは早いかもしれませんよ。血を流し過ぎです」
相変わらず冷静で厳格な物言いに、コウシロウは苦笑う。
「いいえ、そういう意味ではなく……」
目を閉じ、呼吸を落ち着けて、渦巻く黒い感情をいつものように抑えてねじ伏せながら。
「あなたのおかげで、ようやく、わかった気がするんですよ……」
黒狼を前に、ユリシャが一歩も揺らぐことなく叫んだ意思。
自分の中で、自分が抱いた感情の全てが、自分のもの。
その通りだと思う。それで良いのだと思う。だから、きっと──。
コウシロウは苦笑いながら。
早く帰って、ファナティアに会いたいと、そう思った。
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