死せる姫君に狼のくちづけを(4)
コウシロウたちが〝
「待ってください、少し休んだ方が良いのではないですか?」
ユリシャがあきれもあらわに呼びかけてくる。
「大丈夫です。傷は、もうふさがっていますから……」
コウシロウは苦笑いで頭を振り返し、報告やら諸々のことは全て彼女に丸投げて、真っ直ぐにファナティアの部屋に向かう。
その足取りはフラフラと。確かに、血を流し過ぎていた。
鎧の胸から胴にかけて、黒狼に噛まれて穿たれた亀裂が開いている。
そこから覗く傷口は銀狼化の力ですでに血は止まり、皮膚も癒着して、傷そのものはもう癒えていた。
しかし、肉体の消耗は歴然と深い。当然だ。宿した銀狼の力が全て回復に費やされて消えるほどの深手だったのだ。
疼く胸もとを押さえ、足を引きずるようにゆるゆると歩を進めていく。
薄暗い廊下に差し込む、夕日の色彩。
茜色に照らされた景色の中で、待ち構えている人影があった。
金色の羽根飾りがついた山高帽に、同じく金羽根と金刺繍に飾られた礼服姿。何より特徴的なのは顔の上半分を覆う金色の仮面。
金色孔雀。
いつものようにパイプを吹かしながら、いつものように飄々とした笑みを浮かべて、仮面の団長はのんびりと壁に寄りかかりながら、コウシロウに呼びかけてくる。
「おかえりなさいやし、ダンナ」
「どうも。今、ユリシャさんが、あなたの部屋に報告に行ってますよ」
「そりゃ大変だ。急いで向かわないと、女性を待たせるのは男としてダメダメでやすからね」
それは当然ながらコウシロウへの皮肉なのだろう。
金色孔雀は少しも急ぐ風もなくニヤニヤ笑いを浮かべつつ、のんびりとパイプを吹かし続けている。
「ファナティアさんは、自室ですか?」
コウシロウが問えば、金色孔雀はもう一度深くパイプを吹かしてから、その仮面の貌を向けてきた。コウシロウの目を、その心情をうかがうように、ジッと見つめてくる。
「……どうやら、昔の女とのケジメはつきましたかね」
茶化すような台詞は、けれど、静かに真剣な声音で紡がれた。
だからコウシロウは意識した苦笑いで、同じく真剣に肯定する。
「ええ、後は、ファナティアさんが、僕を赦してくれるかどうかですね」
「はは、まったく、色男はツラいでやすねえ」
楽しげに笑う金色孔雀。
そんな彼に、コウシロウは改めて静かに首を垂れる。
「これまでのこと、ありがとうございます」
真摯に、礼を言った。
それは様々なことに対する礼だった。
コウシロウを一座に迎えてくれたこと。
ファナティアのそばに置いてくれたこと。
黒狼との争いを傍観してくれたこと。
そして、今もこうして変わらず迎え入れてくれたこと。
本当なら、金色孔雀は全てを拒絶することもできた。
彼が求めるのは技芸の才のみ。一座のことのみを優先するなら、コウシロウや黒狼の眷属など、面倒ごとは全て受け入れずに放り出してしまっても良かったのだ。
そうすればファナティアが惑うこともなかっただろうし、彼女を狙う者があっても、この仮面の団長ならばいくらでも対処できるのだろうから。
それでも、彼はコウシロウを──愚かな異郷の獣を信頼し、全てを委ねてくれたのだ。
「言ったでやしょ? 一座に入る条件はあっしの眼鏡に適うこと。あっしはファナティアさんのことも、ダンナのことも気に入ってるんでやす。なら、ここにいる理由はそれだけで充分でさあね」
ただ──。
「できれば、ファナティアさんを、幸せにしてやって欲しいですな」
戯けることなく告げられた言葉は、だからこそ胸に刺さる。
それは、本当にその通りだった。
ひと言もないコウシロウに、金色孔雀はことさらに飄々と肩をすくめて、その黄金の仮面をゆるりとつかみ取る。
わずかにズラされた仮面、
そこに覗いた双眸に宿るのは鮮やかな金色の輝き。
「……まあ、そう気に病むな、若き狼よ。生まれの違い、獣と鳥の違いはあれど、我もまた同じく、人であることに憧れた愚か者だ……」
確かな
「…………ですから、あっしらは似た者同士。何もかしこまることはありやせんやな」
ゆるりと仮面を戻して続いたのは、いつも通りに戯けた笑声。
確かな親しみを込めたそれは、イサめであり、励ましでもある。
神代の孔雀は、項垂れた銀狼の肩を軽く叩いて、そのまま立ち去っていった。
コウシロウは、しばし、その場で立ち尽くしたまま──。
抱いた思考と、込み上げた感情に折り合いをつけるように、ゆっくりと深呼吸をひとつ。
フラつく身体を引きずって、再び歩き出す。
貧血と痛みで立ち眩みそうになりながらも、ようやく、ファナティアの部屋の前にたどりついた。
深呼吸を、もう一度。それから意を決して、扉を叩く。
「ファナティアさん……」
呼びかけて、しばしの沈黙。
「……クーちゃん……」
随分と間を置いてから、そんな弱々しい笑声が返ってきた。
コウシロウは溜め息を挟んで、扉越しに呼びかける。
「大切な、とても大切な話があるのですが……開けてもらえませんか?」
「………………だめ」
今度は、そう間を置かずに返った拒絶。
「……そうですか、じゃあ、このままでいいので、聞いてください」
扉に寄りかかりながら、乱れた呼吸をととのえて、告げる。
「
返答はない。反応もない。
「どうですか? あなたの中に、負の感情は戻ってきましたか?」
問いかけても、やはり、返答はない。
だが、わかっている。彼女に負の感情は戻っていないだろう。
コウシロウに正の感情が戻っていないのだ。
なら、感情を喰らい奪った黒狼を討滅したからとて、やはり、奪われた感情が戻ることはないのだろう。ましてや、彼女の負の感情は、すでにあの〝
もし、ファナテイアに負の感情が戻るとしても、それは〝
「ファナティアさん……。あなたは、僕を好きだと言ってくれましたね……」
「…………」
「今でも……まだ、好きでいてくれますか?」
沈黙は、少しだけ長かった。
「……うん、大好きだよ」
小さく、はにかむような肯定。
本当なら、嬉しく温かく感じるはずのそれを、けれど、コウシロウは正常に感じ取れない。
反転して込み上げる黒い情動を、いつものように、これまで何度もそうしてきたように、理性でねじ伏せ、知性で補正する。
(……ファナティアさん。僕も、あなたを好きなのかも知れません)
自分でも判じきれぬ想いは虚ろで曖昧で、口には出せなかった。
かつて愛した人に良く似た少女。
かつて愛した人を想起する時に感じる情動と、ファナティアを想う時に抱く情動は良く似ている。
なら、これは暗くても好意なのかもしれない。黒くても愛情なのかもしれない。
けれど、喜楽を失い、全てを哀怒でしか感じられなくなったコウシロウには、憎悪と愛情の区別はもうつかない。
だからコウシロウは、ずっと心を凍らせてきた。
込み上げる情動を理性でねじ伏せて、知性で補正して、向き合う全てを苦笑いで受け流してきた。
そうして黒狼への憎悪と、同胞への贖罪と、シオリへの罪悪感を抱き締めて、銀狼の使命に生きてきた。
喜びも楽しさも、何かを好ましく想う心も、誰かを愛する気持ちさえも、全てが黒くねじ曲がって渦巻き淀む日々。
そんな暗黒の感情の中で、けれど、たったひとつだけ、黒くねじ曲がらないものがあったのだ。
あの日、あの舞台の上で、銀髪の歌姫が紡ぎ奏でた確かな感動。
「……ファナティアさん。僕は、あなたの歌が好きです……」
それだけは、確かな自信をもって、そう言える。
ファナティアの歌は美しかった。ただ、美しいと感じられた。
彼女の奏でる歌声が、旋律が、歌い舞うその姿が、たまらなく美しくて、まぶしかった。
普く輝きが黒く濁る中で〝
「……僕は、あなたを守ります」
たとえ何が立ちふさがろうとも、守ってみせる。
「あの〝
だから──。
「歌ってください。どうか……」
あなたの歌を、聴かせてください──。
「誰のためでも構いません……。何を想っていても、構わない……」
全てが黒く染まった絶望的な世界の中で、ただひとつだけ美しく心を満たしてくれる彼女の歌声。
それを響かせてくれるなら、それを聴かせてくれるなら、それだけで良い。
それだけで、コウシロウは救われる。
「……歌っているあなたは、本当に、綺麗だから……」
視界が揺れて、足から力が抜ける。
全身から血の気が引くような感覚に襲われたその時、
寄りかかっていた扉が、横にスライドして開け放たれた。
支えを失って前のめりに倒れ込んだコウシロウを、ファナティアが抱き締め受け止める。
「……だから、何度も言ってるじゃない」
明るく、朗らかに、彼女は笑う。
「わたしは……ずっとクーちゃんのために、歌うんだよ」
嬉しそうに、楽しそうに、彼女は笑っている。
なら、それでいいとコウシロウは思った。
込み上げた焦燥のごときイラ立ち、でも、わかる。これは安堵だ。
彼女が優しく受け止めてくれた。そのことに安堵した安らぎが、ねじれて発露しているだけだ。
「……ッ!? クーちゃん? これ、血が……ッ!」
ファナティアが声を上げる。
「……ああ、すみません。服が……汚れてしまいましたか……」
苦笑いで謝れば、彼女はヒクリと肩を震わせて、笑みを引きつらせた。
込み上げた喜悦をねじ伏せ呑み込もうとしているのだろう。
それが良くわかった。その心の動きも流れも、ねじれすらも、良くわかったから。
「すみません。でも、傷は大丈夫ですから……だから、泣かないでください」
そうやって〝怪我を心配して悲しんでいる彼女〟を、安心させる言葉と態度で接する。
驚いたように、戸惑うように、コウシロウを見上げて笑うファナティア。
「わたし……泣いてるの?」
「泣いてるでしょう。見ればわかります。だいたい、こんな傷……あなたに避けられていた時の寂しさに比べれば、どうということもありませんよ……」
意識して笑顔を象りながら、コウシロウはファナティアをそっと抱き締めた。
「……笑ってください。気にしなくていいんです」
気にする必要はないのだと、コウシロウは受け入れ、肯定する。
「……あなたは笑っていてください。それが反転した感情かもしれないとか、そんなことは、気にしなくていいんです……」
何も変わらないのだ。
普通に誰かを想い、接することと変わらない。
相手を悲しませないように、幸せにする。そう心がけるだけ。それは特別なことではない。
ファナティアに負の感情があろうとなかろうと関係ない。
ただ、誰もがそうするように、大切な彼女を思いやればいい。平温と安らぎに満たしてあげれば良いだけだ。
ただ、守れば良い。
悲しみや、苦しみから、彼女を遠ざけてあげれば良い。
そんな、当たり前のことで良いのだ。
「あなたが楽しくて笑っている時は、一緒に笑いますから……。あなたが、悲しくて笑っている時には、こうして抱き締めます……。だから……」
「それは、イヤだなあ……」
コウシロウの言葉をさえぎって、ファナティアが吐息をこぼす。
「悲しい時だけじゃなくて、楽しい時も、抱き締めて欲しいもの」
血に汚れるのも構わずに、彼女はコウシロウを抱き締め返して、ニッコリと微笑んだ。
ぬくもりに満たされた笑顔。
だから、コウシロウも微笑みを作った。
それだけでいい。本当に、それだけのことなのだと、そう思った。
彼女が喜楽しか抱けないのなら、全ての感情が喜楽にねじ曲がるのなら、これからずっと、喜楽だけで満たしてやればいい。
ねじ曲がることなどない、疑う余地もない、明確な幸福と安らぎで包み込んでやればいいのだと。
そんな夢みたいな想いを願いながら、コウシロウは抱く腕に力を込めたのだった。
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