死せる姫君に狼のくちづけを(2)
黒狼の眷属の乱入によって中止になった初日公演より四日が経過しているのだが──。
当初に懸念していた〝怪物騒ぎによる風評やトラブル〟は、意外にもほとんど発生しなかった。
なぜなら、そもそもこのシャロワの都市内では、すでにして黒い怪物による事件が発生していたからである。
獣に襲われた変死体の発見や、夜中に黒い獣の目撃例など、人喰いの怪物がウロついているというウワサがまことしやかに囁かれていたのだ。
そんな中で起きた今回の事件は、ついに怪物が確認された決定的な一件として捉えられ、〝
おかげで、当初にクルークが言っていた通り、劇団側は完全に被害者の立場になれた。
観客たちに〝
そんなわけで、破損した劇場の修理や、怪我人を初めとした観覧客たちへの補償対応、そして今後の公演日程の調整などの事後処理に専念した四日間。
団長である金色孔雀を始め、一座の者たちが忙しく立ち回る中で、用心棒であるコウシロウだけは常と変わらぬ日々を過ごしていた。
用心棒の役目は〝
いや、それは正確ではないだろう。確かに用心棒としてのコウシロウの仕事は減っている。だが、銀狼の血族としての役目は逆だった。
シャロワを騒がせている怪物騒ぎ、そして、現に遭遇した黒狼の眷属。この街にコウシロウの怨敵たちがひそんでいるのは間違いない。
ならば、コウシロウは街中を駆け回り、情報を集め、黒狼を見つけ出すことに執心するべきだったのだ。
しかし──。
車窓から流れる街並みを眺めながら、コウシロウは小さく息を吐く。
それは特に意識したつもりはなかったのだが、あるいはだからこそ腑抜けた感じに響いたのだろうか?
「……辛気くさいですね」
対面に座したユリシャがジト目で睨みつけてくる。
コウシロウは「ああ、すみません」と謝罪しつつ、彼女に向き直った。
現在、ふたりは馬車で都市部を移動中である。
正直、コウシロウはこういった客室が屋根と壁に覆われた豪華な馬車は初めてで、微妙に落ち着かない。
(……いえ、落ち着かないのは、ユリシャさんとふたりっきりなせいですかね)
いちおう仮面の団員が御者を務めているが、御者席は外部なのでいないのと同然だ。
もともとコウシロウは、生真面目で気難しいユリシャとはあまり反りが合わず、さらにこないだの綿菓子の時のやり取りで、少々険悪な雰囲気になったままだったのだ。
そんな彼女と差し向かいで長時間馬車に揺られるこの状況。
(せめてアルスラさんが同行してくれてれば良かったんですが……)
ユリシャと仲が良いアルスラが一緒なら、コウシロウは完全に外野でいられたのだ。
とはいえ、人見知りを通り越して対人恐怖症の感もあるアルスラでは、そもそもの用件が務まらないだろうけれど──。
用件とは金色孔雀の使いであり、北部区画にある劇場の手配に向かっているところだ。
怪物騒ぎの後始末の影響で〝
そのため、急遽、代わりの劇場を手配することになったのだ。
場所自体は、金色孔雀の人脈ですぐに見つかったので、手続きと挨拶を兼ねてユリシャが訪ねることになり、コウシロウはその護衛である。
団長曰く〝仮面のオジサンが出向くより、可愛いお嬢さんの方が受けが良いでやしょ〟とのことだが、まず間違いなく面倒だからだろう。
だが、あの仮面の団長が残っていれば、たとえ〝
安心────いや、どうだろう?
だったら最初からファナティアのことは彼に任せて、この四日間の内に黒狼を探し回れば良かったのだ。それをせずに彼が〝
思わず、再度の吐息をこぼしてしまったコウシロウ。
「寂しそうですね」
ガタガタと揺れる走行音の中、ユリシャが耳聡く聞き取って睨んできた。いや、睨んでいるわけではないのかもしれないが、表情が硬いのは確かだ。
「まあ、寂しいですよ。いつもあれだけくっつかれていたら、さすがに……」
素直に肯定を返せば、ユリシャは少し驚いたように目を見開いた。
「だったら、さっさと仲直りしたらどうですか?」
冷ややかに告げられる。
「あの人が今のままだと、公演なんて無理ですよ」
ユリシャの態度は少々ウンザリと。
それは当のファナティアに対してか、それともコウシロウに対してか、あるいは両方か──。
四日前の甲板での一件以降、ファナティアはずっとコウシロウを避けている。
以前はことあるごとに飛びついてきたのが嘘のように、今はまったく近くに寄りつかず、会話はおろか視線を合わせることすらしてこない。
それだけならば、ある意味仕方ないで済むのだが、問題は彼女の〝歌〟に影響が出ている点だ。
変わらず美しい声で、華やかな笑顔で奏でられる〝
変わらず明るく朗らかに、楽しそうに振る舞いながらも、その情動は戸惑い、不安定に揺れている。
その原因は、明らかにコウシロウだろう。
彼と甲板上で口論したのを境にこうなっているのだから歴然だ。だから、仲直りした方が良いという指摘は、当然ではある。
だが──。
「ねえ、ユリシャさん」
「はい?」
「悲しみとか、怒りとか、憎しみとか、そういう黒い感情ってのは、消えてしまった方が幸せなはずですよねえ」
「そうですね……少なくとも、ファナティアさんはそのおかげで過去を乗り越えられたのだから、幸せなんじゃないですか?」
冷然と紡がれた回答。
確かに、虐げられ踏みにじられた幼少期の苦痛を、ファナティアは悦楽にすり替えることで乗り越えた。もちろん、負の感情を失わなくても乗り越えられたかもしれない。けれど、乗り越えられなかったかもしれない。
黒い感情に押し潰されて、壊れてしまっていたかもしれない。
怒り、憎しみ、恨み、
そんな黒い情動を抱き続けるのは、良くないことだ。
コウシロウはそれを思い知っている。きっと、誰よりも思い知っている。
こんな苦しい感情は、だから、感じないで済むならその方が良いはずなのだ。
しかし──。
「もっとも、今のファナティアさんが幸せだとは、到底思えませんが」
ピシャリと言い切ったユリシャ。
それもまた、全くもってその通りだった。
再び車窓の外に目を向けたコウシロウに、ユリシャは静かに問いかける。
「結局のところ、貴方はファナティアさんをどう思っているんですか?」
単刀直入な質問に、コウシロウはうなずいた。
「ファナティアさんは美人でオッパイが大きくて、背中からお尻のラインがエロいです」
棒読みでの即答に、ユリシャのあきれた溜め息が返る。
「そういう即物的で外見上の話ではなく……」
「……きっと優しくて。たぶん一途で純情で。おそらくは自分のことよりも、好きな誰かが楽しそうにしているのが幸せな人で、だから、一緒にいるだけで安らげると思います」
しみじみと続いた返答に、ユリシャは今度は疑念の眼差しを返す。
「具体的なわりには、疑問形なんですね」
「推測でしかないですからね。自分の心だってわからないのに、他人の心なんてわかるわけがありませんよ」
ただ──と、コウシロウは窓の外に遠い視線を投げて続ける。
「あの銀髪の歌姫様は、僕が世界で一番大好きで愛しかった人にそっくりなので、きっと、彼女に重ねてそう思っているだけなんでしょうね」
「……愛しかった人ですか?」
「ええ、もう、いなくなった人ですから」
胸もとに提げた牙の首飾りを握り締めて、コウシロウは笑う。
いつものように、マズいものを噛み締めながら無理に浮かべるような苦笑い。
あまり触れるべきではない領域の話題だとユリシャは感じたのだろう。しばし口ごもりながら、それでも、聡明な彼女は、踏み込まなければ事態は好転しないと判断したようだ。
「それが、貴方がファナティアさんの好意に対して、中途半端な態度を取り続けている理由なのですか? かつての想い人に操を立てていると?」
中途半端な態度。
確かに、そう言われて当然な態度なのだろう。ハッキリと好意を寄せてくるファナティアに対して、受け入れることも拒絶することもしない。
そのクセに、四日前のように個人の事情に踏み込んでいく。
「端から見ていると、なぜさっさとくっついてしまわないのか不思議でした。少なくとも貴方はファナティアさんを嫌っていない……むしろ好いているようですし」
「そうなんでしょうか?」
「……違うのですか?」
「わかりませんよ。ただ、確かに僕は、もういなくなってしまったあの子のことをとても好きでしたし、深く愛していました。だから、あの子にそっくりなファナティアさんのことは、同じく好きで、愛しているのかもしれない……と、そう思うだけです」
コウシロウはわざとらしく口の端をつり上げて笑う。
金色孔雀が、なぜコウシロウとユリシャのふたりで使いに出したのかが、わかった気がした。たぶん、こうして問答させたかったのだろう。
そのぐらい、コウシロウの態度は中途半端で、そのことが〝
それとも、単にあの仮面の団長がお節介なだけなのかもしれないが……。
「クーセローさん」
呼びかけに、思わずコウシロウは顔を向けた。発音は不完全ながら、それでもユリシャに名を呼ばれたのは初めてのことだった。
ユリシャは真っ直ぐに、その藍色の瞳でコウシロウを見つめてくる。
「貴方は、いつも笑顔です。なのに、その笑顔は苦そうで、曖昧で……。いつも楽しそうなファナティアさんとは違って、ぜんぜん楽しそうに見えません。もしかして、それは、貴方の中の憎しみや悲しみのせいなのですか?」
おかしな質問だった。
そんな当たり前のこと、今さら確認するまでもないはずだ。
「当然でしょう? 僕はあなたと同じ、憎い仇を求める復讐者なんですから」
「同じではないでしょう!」
声を荒げたユリシャ。
「……同じなわけ、ないじゃないですか……」
繰り返した声音はひそめられて濁る。込み上げた感情を呑み込むように、ユリシャは大きく深呼吸をしてうつむいた。
哀れむように、苦しげにうつむいてしまったユリシャ。
ああ、本当に、いつも楽しそうに、形だけでも笑っていられるのなら、それはそれで、ひとつの幸福ではあるのかもしれない。
思わずそんな幻想にすがりついてしまう自分に、コウシロウはいつにも増して苦い笑みを浮かべたのだった。
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