第1幕 白雪の歌姫

白雪の歌姫(1)


 この世で最も他人に迷惑をかけない死に方は餓死だという──。


 その代わり、最も当人が苦しむのもまた餓死であるそうだ──。


 いつだったか、偏屈者の同胞から聞かされた益体やくたいのない考察。

 哲学やら歴史学やらに傾倒したその同胞の言はいつも小むずかしくも唐突に、聞かされた当時は〝さて、そんなものだろうか?〟と、疑念に首をひねったものだが。


 現に飢えて道端にヘタりこんだ今、彼は痛烈に納得していた。


「何にせよ、笑えない話ですよねえ……」


 目深にかぶったフード越し、しみじみとこぼしたぼやきに、唸る腹の虫が拍車をかける。

 見渡せば、見知らぬ街並みを行き交うのは、当然、見知らぬ者ばかり。まして、ボロのコートに身を包んで路脇に座りこんだいかにも怪しい青年ひとり。避けて通りはすれど、手を差し伸べてくるような酔狂者などいはしない。


 怪しいものには近づかず、かかわらない。

 それは確かに生物として正しい判断なのだろう。


「……けど、人間としては寂しいじゃありませんか……」


 人類皆兄弟、助け合い支え合って生きることこそ人間の美徳であり、世界平和の要であると、彼は常々思うのだ。

 何より、このままでは本気で空腹で死んでしまいそうだ。

 相変わらず盛大に喚き立てる腹の虫に、うずくまる青年は改めて己の窮状に苦笑う。


「……お腹、空きましたねえ……」


 背後から響くのは、賑やかな喧騒と、何より鼻孔をくすぐる美味そうな匂い。

 彼が寄りかかる壁の向こうは酒場である。無論、食事もできるし、現に店内では多くの客が酒と料理に舌鼓を打っている。

 無一文の身にとってこの状況は生殺しの生き地獄であるが、その美味そうな匂いを振り切って立ち去る気力も体力も最早ない。


 やれやれと再度吐き出した力ない吐息。

 ふと、それを掻き消して響いたのは女の悲鳴。いや、それは悲鳴というには楽しげだった。


 見上げれば、今まさに二階の窓から飛び出してきた銀色の光。


 銀色――。

 それは落下してくる少女の長い髪が、夕陽に尾を引く色彩であった。

 思わず身を起こした青年だったが、それは危機感よりも、その色彩のまぶしさに誘われたという方が正しいだろうか?


 まぶしさと、そして、身を刻むような苦しみに──。


 ジワリと胸裡に疼いた痛みに突き動かされるまま、彼は降ってくる少女を受け止めようと両腕を広げる──が、空腹にへばった四肢はフラフラと頼りなくたたらを踏んだ。


「……ッ!?」


 短い呼気は頭上の少女のもの、空中で身をたわめた彼女は、その足で壁面を蹴りつけ、宙返って華麗に身をひるがえすと、ふわりと勢いを殺して着地した。


 輝く銀髪をなびかせて振り向いた少女。

 その白い美貌の中で、煌めく翡翠色エメラルドの瞳が冷ややかに細められた瞬間、まるで周囲の空気が凍りついたかのように冷えた。


 客観的に見て、綺麗な少女だった。

 冷ややかな、それは氷雪で造り上げられた彫像のごとき冷たい美貌に、青年は思わず息を呑む。

 だが──。


「らいじょうふらっは?」


 呼びかけは、青年の無事を確認するものか?

 クールな容姿にあるまじく朗らかでくぐもったそれは、口に大きなパンをくわえたままなれば当然に。寸前まで鋭く細められた双眸そうぼうも、柔和に曲線を描いて相好をくずす。

 あまりの豹変振りに、何だか気が抜けてしまった青年は、もとからの空腹も相まってぐらりと身を傾けた。


「ひょっほっ!」


 素早く駆け寄った少女に支えられる青年。

 助けようとしたつもりが、逆に助けられている状況に、だが、青年は自嘲よりもまず間近に突きつけられたパンの香気に意識を奪われる。

 鳴り響いた腹の音に、少女はニッコリと小首をかしげた。


「……食べう? こえ」


 咥えたパンを指差して問う少女。もはや空腹の限界にあった青年は、うなずきも慌ただしく直接パンにかぶりついた。


 少女が口を離せば、青年はパンを手に座りこみ、まるで獣のような勢いで平らげて行く。

 その傍らに屈み込んだ少女は、さも楽しげに笑声を上げた。


「あはは、スゴいね、キミ、そんなにお腹が空いてたの?」

「……っ……はい、おかげで餓死せずに済みました」


 あっと言う間にパンを食い尽くした青年。


「どうもごちそうさまでした。えーと……」


 頭を下げつつ言い淀む彼に、少女はニッコリと名乗る。


「名前? わたしはファナティアよ。キミは?」

「あ、ああ、どうも……僕はコウシロウといいます」


 彼女の明るさにやや気圧されながらも応じた青年。対するファナティアはその瞳を円らに見開いて驚きの声を上げた。


「クー……セロー……もしかして東方の人?」


 いかにも興味津々に詰め寄ってきた彼女だが、不意に「うわ! 和んでる場合じゃなかった!」と、慌てた様子で立ち上がる。


 ファナティアの叫びの意味は、酒場から飛び出してきた怒気もあらわな男たちの姿に、コウシロウもすぐに察することになった。


 いかにもゴロツキという風体の強面がざっと八名。怒気と酒気で真っ赤になった険悪な形相はコウシロウたちを、正確にはファナティアを睨みつける。

 ヒラリと身を躍らせてコウシロウの影に隠れたファナティア、先ほどの着地といい、その身のこなしは卓越したものであるが、ひとまず問題は、まるでコウシロウを盾のように扱っていることだ。


「実はわたし、こわーい人たちに追われています」

「そのようですね」


 見ればわかります──と、苦笑うコウシロウ。

 ファナティアはなお可憐な笑顔のままに。


「というわけで、どうかカッコ良く助けちゃってください♪」


 どこまでも朗らかな申し出に、コウシロウは思いっきり肩をすくめた。


「気楽に言わないでくださいよ、いったい何したんですあなた……」

「あ、それはねぇ、すっごく単純な事情なの」


 ハイどうぞ──と、うながすように片手でゴロツキたちを指し示すファナティア。当のゴロツキたちは笑声を上げた。


「逃げるこたねえだろお姫さん、ちょっと付き合ってもらいたいだけだって」

「へへへ、坊ちゃんがお待ちかねだ。素直についてきた方が、お互いのためってもんだぜ」


 下卑た態度でヘラヘラと詰め寄る酔漢たち。


「なるほど、わかりやすいですね」


 コウシロウはぼやきながらも重い腰を上げた。

 ファナティアをかばって立ちふさがった彼の、その頭ひとつ抜きん出た長身に、ゴロツキたちは一瞬たじろいで立ち止まる。


 だが──。


「あのー……大勢で女性をどうこうしようとか、よしましょうよ。ほら、せっかく楽しく飲んでいらしたんでしょう? ゴタゴタしてもお酒がマズくなるだけですよ」


 ことさら丁寧な申し出は、お世辞にも威勢が良いとは言いがたく、逆に虚を衝かれた一同はポカーンと顔を見合わせる。

 直後、一斉に笑声を上げたゴロツキたち。ひときわ大柄なひとりが肩を怒らせながら歩み寄ると、拳を振りかぶった。

 鈍い衝撃。

 横っ面を張り飛ばされたコウシロウの、目深にかぶっていたフードが跳ね上がり脱げて、その顔があらわになる。


 浅黒い肌に、黒髪と鋭い黒瞳をした彼の容貌に、ゴロツキたちは「あぁん?」と、いぶかしげに眉をひそめた。

 無理もない。褐色の肌はともかく、東方人特有の黒髪と黒瞳は、この大陸では非常に珍しく奇異なものだ。


 拳を振り抜いた姿勢のまま立ち尽くすゴロツキ。コウシロウはゴロツキの腕をゆるりとつかんで、いかにもやれやれと深い吐息をこぼした。


「よしましょうよ……こういうのは」


 ぼやきは吐息と同じく、心底からやれやれと面倒そうに、彼は無造作にゴロツキの腕をねじり上げた。遠慮も躊躇ちゅうちょもなく、迅速に逆関節を極める。

 痛みに喚くゴロツキ──だが、他のゴロツキたちが息を呑んだのは、仲間の腕をねじり上げたコウシロウ自身の、その異様な装具にだった。


 赤錆びた装甲に鎧われた腕、否、それは腕だけではない。まるで返り血に染まったかのごとき装甲は、はだけたコートの下、彼の首筋から足先まで全身を包みこんでいる。

 血錆にまみれた全身鎧──というよりも、痩身をタイトに包みこむそれは外骨格と呼ぶ方が正しいだろうか? いずれにしても、異様であることには変わりない。

 腰ベルトに吊された兜はオーガの頭骨を象ったフルフェイス。鋭い二本角と、瞳のない虚の双眸は二対四眼、ゴロツキたちを睨み上げるかのように揺れていた。


 コウシロウは再度の溜め息をこぼして。

 直後、腕をひねられたゴロツキは下腹を殴りつけられて〝く〟の字にくずおれる。

 装甲に鎧われたコウシロウの拳はそれだけでも硬く重く、倒れたゴロツキは反吐をこぼして身悶えた。


「嫌いなんですよね、こういう荒事って……」


 ウンザリした呟きとは裏腹に、コウシロウは素早く間合いを詰めると、次のゴロツキの足下を蹴り払い、倒れたその鳩尾に踵を落とす。

 またたく間にふたりをのされて慌てるゴロツキたちだが、そのスキこそを容赦なく衝いて、コウシロウの拳足が空を切った。

 同じく鳩尾を殴られくずれる三人目、続く四人目と五人目は首筋をまとめて蹴り薙がれて倒れ込む。


「てめぇッ!」


 怒声も新たに殴りかかる六人目。コウシロウはその腕を払い除けざまに絡め取ると、今まさに背後に迫っていた七人目に向かって投げ飛ばした。


 コウシロウが攻撃を受け止め、躱し、打ち倒す体捌きは素早く正確で、明らかに素人のものではない。まして、酔っているとはいえこの人数の強面を相手取って翻弄するのは、少々腕に覚えがある程度ではできない芸当だった。


 あっと言う間に仲間たちを叩き伏せられ、最後に残った禿頭のゴロツキは、大きく怯みながら悲鳴混じりの抗議を上げる。


「ふ、ふざけんなよ! 何なんだテメエ、言ってることとやってることが違うだろうが!」


「だってあなたたち、問答無用で殴ってくるんですもん。話が通じない人と話し続けても無駄ですから、被害がひろがる前にさっさとやっちゃった方が早いですよ。……というわけで、歯を食いしばってくださいね」


 なお態度だけは弱腰に、グッと力強く拳を振りかぶるコウシロウに、ゴロツキは怒りに茹だっていた顔を蒼白に変えて後じさった。


「ち、ちくしょう! おぼえてろよテメェッ!」


 捨て台詞の勢いだけは勇ましく、倒れていた者たちもどうにか起き上がり、一目散に逃げ去っていった。

 遠ざかる八つの後ろ姿に、離れて見ていたファナティアが楽しそうに呟く。


「あらら……あんなベタな捨て台詞、実際に聞いたの初めてかも」

「そうですか? 僕は結構聞きますけど」


 ふう──と、こぼれた溜め息は深い疲労から。普段ならあんなゴロツキどもの八人や十人、相手取っても体力的にどうということはないコウシロウだが、今の彼はそもそも行き倒れ寸前だったのである。

 それに──。


「あぁ……やっぱり、こういう荒事は好きになれませんね……」


 ぼやきは今にも掻き消えそうにかすれて弱く、腹を締めつける感覚は空腹と嫌悪とが相乗に強く、ガクリとヘタりこんだコウシロウは、そのまま気を失ってしまった。


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