白雪の歌姫(2)


 微睡まどろみだけは、今も変わらぬ優しさで彼を包み込んでくれる。

 懐かしいぬくもりで、失ったかつての日々を呼び覚ます。

 だからこそ、彼にとって微睡みはこの上ない安らぎであり、しこうして、堪えがたい苦しみとなっていた。


兄様あにさま……』


 すぐかたわらに微笑むその呼びかけは、遠い記憶の向こうから響く声。

 愛しく、大切な彼女のその声は、かつていく度も聞いたのに同じく、変わらぬ優しさで呼びかけて──だからこそ、それは億千万の怨嗟えんさよりも深く彼の後悔を駆り立てる。


 微笑む彼女の向こうには、同じく優しげに笑う者たちが並んでいる。大切な家族、大切な友、今はもう失ってしまった同胞たちの残像。


 己の胸もと、そこに感じる仲間たちの残滓ざんしは、優しくあたたかく、だからこそ彼の魂をさいなみ続ける。


 ――やめてくれ、僕は――。


 彼には優しさを思い起こす資格などない。ぬくもりを懐かしむ資格などない。大切なこの人たちに囲まれて眠る資格などあり得ない。


 ――みんなの命を消してしまったのは、この僕なのだから――。


 懺悔ざんげ慟哭どうこくには、ゆるしが返ることはないし、もとより赦されるとも思っていない。

 だから、微睡む彼はいつも苦痛にもがき続けている。


 ぬくもりに焼かれる胸もとに、ふと、別のぬくもりが重なった。

 それが、知らぬ誰かの指先が触れる感触であると感じ取った瞬間、彼は弾かれたように覚醒する。


 首から提げ、胸もとに乗せた首飾り――大切な仲間たちの残滓に誰かが触れることが堪えがたくて、起き上がりざまにその手を振り払った。


「……っぁ……!?」


 か細く響いたのは女の悲鳴。

 起き抜けのコウシロウは、未だぼやけた意識のままに、その悲鳴の主を睨んだ。

 紅茶色の髪をしたその女は、同じく紅茶色の瞳を驚きに見開いて、今まさに手を払い除けられた姿勢のまま硬直していた。


「…………」


 直後、女はその表情を泣きそうに歪めた。逃げるように身をひるがえした彼女に、コウシロウは狼狽する。


「おあ! すみません、今のは……!」


 イラ立ちを抑え込んで謝罪しようとするコウシロウだったが、寝起きの情動はうまく操れず、女は怯えた様子で部屋の外へと走り去る。


 扉が閉じる音は低く硬く、コウシロウを地味に打ちのめした。


 見回せば、ここは見知らぬ石造りの小部屋の中、そこに設えられたベッドの上。


「……えーと……」


 思考が巡りだすにつれて、自分がゴロツキどもとやり合った後に気絶したのだと思い出す。ここは病院施設か、あるいは警備隊の留置所か、わからないが、ともかく、倒れた彼を誰かが運び込んだのだろう。


 巡らせた思考は、腹に響いた空腹感に掻き乱された。


「あぁ、ダメだ……クソッ……」


 延髄から血の気が引くような感覚に、コウシロウが再度ベッドに倒れ込みそうになったところで、入り口の扉が開け放たれた。


 ふわりと銀色の髪を揺らして入室してきたのは、白磁の肌に、同じく純白の衣服をまとった少女。


「今、アルスラ姉さんが飛び出してきたけど……」


 雪景色のような白銀の色彩の中で、鮮やかな原色に煌めく翡翠色の瞳をまたたかせて、ファナティアはニッコリと笑った。


「キミ、何かした?」

「……すみません、少し、驚かせてしまいました」

「あらら、姉さんは繊細だから、あまりイジメないであげてね」


 愛らしく小首をかしげたファナティアの笑顔。

 なのに、まるで鋭く睨みつけられたかのように感じたのは、果たしてコウシロウの錯覚か?


 彼女の肩口からハラリとこぼれたひと房の髪、その白銀の色彩から目を背けるように、コウシロウは己の胸もとに視線を落とした。

 赤黒い色彩の甲冑。その胸もとにぶら下がる首飾り、獣の牙らしき装飾を無数に連ねたそれを、そっと右手で押さえる。


 そんな所作の意味を、ファナティアは取り違えたのだろう。


「窮屈でゴメンねー、その鎧、脱がせ方がわかんなかったから、そのまま寝かせちゃったの。あ、頭はそこよ」


 ベッド脇のサイドボードに乗せられた異形の兜を示して笑う彼女に、コウシロウは穏やかに頭を振って返す。


「……いえ、逆にシーツを汚してしまって、すみません」


「ふふ♪ 見た目ほど汚れてないでしょ。不思議な鎧ね、それ、錆びてるのかと思ったけど、もしかして木製? 東方では木で建物を造るって聞いてたけど、鎧も木で作るの?」


 興味津々の様子で顔を寄せるファナティア。

 鼻先が触れ合うような相変わらずの無防備さに、コウシロウは「いえ、これは、この鎧が特別で……」と、慌てて身をそらしながら──。

 やはり、またも鼻孔をくすぐる美味そうな香気に意識をからめ捕られる。

 ファナティアの手にあるのは、トレイに乗せられたシチューの大皿。

「あ、ゴメーン、お腹空いてるんだよね」

 彼女は笑顔でうなずきながらベッドに腰かけると、湯気を立てるシチューをスプーンですくって差し出した。


「はい、あーん♪」


 どこまでも楽しそうな彼女に、コウシロウは空腹感を決死に食い止めて問い質す。


「えーと、どういう趣旨でしょう?」

「食べさせてあげる。だから、あーん♪」

「じ、自分で食べられますよ」

「ダーメ、またワンちゃんみたいにガッついちゃったらお腹壊しちゃうもの。というわけで、ね♪」


 ズイと、突きつけられるスプーン。匂い立つシチューの湯気に、とっくに限界を迎えていた食欲が抑えきれるわけもない。

 コウシロウは観念した様子で浅い溜め息をひとつ。


「……せっかくですが」


 短く謝罪し、スプーンではなく皿の方を手に取ると、そのまま中身を一気に飲み干した。

 ケフゥ──と、熱気まじりの息を吐き出したコウシロウに、ファナティアは驚きに目を見開いた。


「やだ、熱くないの!?」

「平気です。猫舌とは無縁ですし、それに、胃袋の頑丈さには自信がありますから」

「あはは♪ ホントに面白いね、キミ」


 彼女は楽しげに笑声をこぼしながら、やり場をなくしたスプーンを己の口にふくむ。


 シチューひと皿で飢え死にしかけた空腹が満たされるはずもなく、とはいえ、ひとまずの急場はしのげたと、コウシロウはファナティアに頭を下げた。


「パンに続いてシチューまで、本当にありがとうございます。ここにはあなたが運んでくれたんですか?」

「いえいえ、か弱い乙女の細腕には無理ですよー。運ぶのは団員さんたちにお願いしたの」

「団員?」

「そ、うちの団員さん♪」


 ニコニコとうなずくファナティアに、コウシロウは改めて室内を見回した。

 さっきは石造りかと思った壁面や天井だが、それにしては表面が滑らかで、各部のつなぎ目も精巧に過ぎている。石材ではなく、金属板を組み合わせた構造のようだ。


「ここはいったい……?」

「ここはねえ、〝波鎮号ウェイブスィーパー〟の船室よ」

「え? 船……ですか?」

「んー……直に見た方がわかりやすいかな」


 コウシロウの反応を楽しむように、ファナティアは芝居がかった仕種でベッドの脇、窓らしき戸口を指し示す。

 金属製にしては軽い戸板を開け放ってみれば、窓ガラス越しに差しこむ陽光。

 まばゆさに目を細めつつ垣間見た外の景色は、岩山と枯れ木が立ち並ぶ砂塵舞う荒野。それ自体は、旅の間にコウシロウがイヤというほど見てきた情景。


 要点は、その荒野の景色が流れているということだ。


 明らかに海上ではなく陸地を走破している。この重厚な建造物が、水上を流れるかのように荒野を進んでいるのだ。


 コウシロウも話には聞いたことがある。

 この大陸には、特殊な鉱石を燃焼させることでエネルギーを生じさせ、それを動力として用いる車両があると。


「汽車……ですか?」


 コウシロウの疑問に答えたのは、ファナテイアではなく、やけに軽薄な男の声。


「そこはもっとスマートに〝蒸気機関車スチームロコモーティブ〟と呼んでいただきたいでやすねぇ」


 振り返れば、部屋の入り口に立つ異相の男がひとり。

 そいつは軽薄な声音の通りに、大袈裟な所作で大きく一礼する。


「ようこそ、我が移動劇団〝語り部語りテイルズテイル〟へ。歓迎いたしやすよ、異国のお客様」


 そう言って、その黄金の仮面をつけた男は、唯一あらわになっている口許を半月型につり上げて笑った。


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