第4話:踏切近く、まるで花のような

 僕は、例えば神様を信じたり、仏様に手を合わせたりといった行為に縁遠い人間だ。冒涜したり馬鹿にしている訳じゃない。


 唯、何となく、信じられなかった。


 家族旅行の最中に訪れた教会でも、他の人に倣って目を閉じて祈る振りをした。やっぱり人真似で、初詣に出掛けてお賽銭を投げる事もある、勿論、お賽銭の意味は知らない。


 理由はハッキリしている。神仏の類いに「嬉しい事」を授けて貰った記憶が無いのだ。無いから祈りやお賽銭は気持ちの乗らない動作に過ぎず、その場の空気を壊さないように取り繕う猿真似である。


 けれども、今日。


 俄雨がいきなり降り出したこの日だけは、あらゆる上位の存在にお礼を言いたくなった。きっと彼らが、無神論者の僕を叱り付ける為に「嬉しい事」のデモンストレーションをしてくれたのだろう。


 僕が星浦駅のホームに向かう際、近くにある踏切を越えて行かねばならない。勢いを増す雨は、ヒビ割れた道のあちらこちらに大きな水溜まりを作っていた。踏切から少し離れた位置、丁度一人だけ雨を凌げる事の出来る木陰に、園芸部の彼女が立っていたのだ。


「すいません」


 僕の声に肩を震わせた彼女は、驚いたように振り返り、「どうも」と照れ臭そうに微笑んだ。ブレザーに若干の光沢が見られた。突然の雨に濡れてしまったらしい。


「さっき、いきなり降って来ましたから」


 雨に濡れてしまった事を言い訳するような彼女は、駅舎までの距離を面倒そうに目測した。


「一〇〇メートルくらいでしょうか」


 僕は頬に落ちた雨粒を拭い、声が裏返らぬよう気を付け、「入りませんか」と興味無さげな声色で言った。


 放って置いて下さい、とは言わずに……両手で頭の上を隠しながら、小走りで彼女が僕の領域へ侵入した。


「すいません、助かります」


 緊張に縺れ掛けた足を何とか動かし、僕は嫌々歩き出した。可能なら、一〇〇メートルが一〇〇〇メートルに伸びてくれと願いながら。


「傘、入れています?」


 風呂上がりの後に渇かしている最中のような髪が左右に振れた。僕の右肩が雨に当たっていると指摘してくれたらしい。僕の肩ぐらいしか身長の無い彼女は、まるで母親のような顔で「風邪引いたらいけませんから」と注意してくれた。


 いつの日か、彼女も誰かの子を産み、今日のように「濡れたらいけないから」と、我が子に傘を持たせるのだろうか。


 光景を想像しようとして、すぐに止めた。未来の夫の顔に、僕の顔が当て嵌まらなかったからだ。未来は千差万別と担任は口酸っぱく言うが、大抵の未来は「右足から踏み出すか、左足から踏み出すか」ぐらいの違いでしか無い。そんな気がする。


 今この状況を、雨の匂いを、彼女の足音を、揺れる髪の軌跡を、近付く駅舎の鬱陶しさを、泣きたくなるような恋情を、僕は唯記憶するだけだ。未来の結末が例えつまらなくとも、道程を楽しむ権利は僕にだってある。


 間も無く――僕は屋根の下で傘を閉じ、外に向かってバサバサと震わせた。ふと気付くと、彼女の姿が何処にも無い。陽炎のように消えてしまった。訳では無かった。


「これ、お礼です」


 彼女はホームの方から急いて戻って来た。両手に一本ずつ、サイダーを携えていた。「お礼なんて」と遠慮した僕の気持ちなど知らず、「二本も飲めません」と、彼女は無理矢理に手渡して来た。人差し指同士が触れ合い、ドキリと戸を叩くようなリズムで心臓が高鳴る。


 不器用な僕の謝辞に、それでも彼女は「いえいえ」と嬉しそうに返してくれると、軽やかな手付きで蓋を開けた。同じベンチに座ってからすぐに僕も蓋に手を掛け、なるべく同時に音が鳴るように……タイミングを合わせた。


 喉が渇いていた。雨の日には、不思議と喉がよく渇いた。雨に触れた肌を見て、喉が「俺にも寄越せ」と嫉妬するからだろう。


「美味しい?」


「はい、凄く」


 彼女の指先から滲む何かが、プラスチックの壁面を通り越して液体に染み渡り、結果として極上の味を作り出していると思われた。


 以前、こんな事を友人が言っていた気がする。


『彼女に貰った食い物なら、チョコの欠片一つだって最高に美味いんだ』


 馬鹿な事を言っていると当時の僕は笑ったが、彼の言う通りらしい。こんなに美味いサイダーは初めてだった。


「そう言えば」


 出会った頃よりも多少は仲を深められたと自信を持っていた僕は訊ねた。


「前は、この駅を使っていなかったですよね」


 一年生の春から星浦駅を利用している僕は、彼女のような存在を見逃す程、記憶力が錆び付いてはいない。


「はい、自転車で帰っていたんです。ちょっと遠いんですけど」


 彼女の横顔に暗色が差し込んだ。余り触れて欲しくない話題らしい。例の贅沢な男に関係しているようだ。僕もその男の話はしたくない。


「でも、やっぱり列車の方が楽ですね。定期券を出すだけだし、少しなら寝ちゃっても問題無いし」


 僕は雰囲気を明るくしようと努め、数ヶ月前に犯したミスを説明した。何て事は無い、居眠りした為に終点まで連れて行かれたというありがちなミスだったが、それでも彼女は、上質な落語を聞いたような笑みを見せてくれた。


「あっ、警笛」


 俄に彼女は遠くを見やった。ごく小さな二つの光が、雨の中を動いていた。狸か何かが轢かれ掛けたのだろう。線路を横切る動物を追い払う為の警笛を、僕も何度か聞いた事がある。


「今日は本当に助かりました」


 ありがとうございます――立ち上がり、一礼する彼女。軽そうな前髪が音も無く垂れ落ちた。


 細やかな髪の毛を見つめている内に、僕の中で何かが弾けた。


「これからも、列車で通うんですか」


 不意な質問に顔を上げた彼女は、物珍しそうな顔で「今のところは」と肯定した。


「やっぱり、楽ちんだし」


 詫びるような笑顔は、愛おしい彼女の癖なのだろうか。


 どうか、いつまでも列車で通学して下さい。


 どうか、僕の隣で眠って頂けますか。


 どうか、僕の手を繋いで――。


「あれ、雷が鳴っていますね」


 彼方に光る雷雲を指差した彼女は、短い列車の横腹に吸い込まれて行った。小さな彼女の後を追い、僕も車内に歩を進める。


 また少し、僕と彼女の座る位置は近くなった。

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