第3話:あの向こう、光る前灯に

 唯の失恋なんです――彼女は一メートル右で、まるで僕を茶化すように言った。妙な安心感を覚えた自分の卑怯さを飲み干すように、僕は麦茶を二口飲んだ。


「自分から告白を?」


 ポニーテールが左右に揺れた。


「見ちゃったんです。他の女子と歩いているところ。本当は……昨日、告白しようと思っていたんですけどね」


 上手くいかないものですね、と彼女は立ち上がり、自動販売機でサイダーを買った。そのまま別のベンチに座ってしまう気がした僕の胸が、毟られるような痛みを覚えたが、しかし彼女は戻って来てくれた。


 充填された炭酸ガスが、甘い水と一緒に周囲へ飛び散った。細い首、その奥を上下に動かす彼女は、「はぁ」と息を吐いて、昨日も見つめていた雑草の方を見やった。


「でも、本当にその二人が付き合っているかどうか……分からないですよ」


 幼稚な僕の質問に、それでも彼女は真剣に回答を用意する素振りを見せてくれた。うーん、と困ったような唸り声は、僕の耳を無造作に弄んだ。


「それは、まぁそうかもですけど」


 会話をする時、一人で黙する時。これらの差が大きいように思えた。僕と話してくれる時は年頃の明るい、コロコロとした声を以て笑うが、昨日のように雑草を見つめたり、花壇を眺めたりする時の表情が、何処か印象を他人に与えるのだろう。


 贅沢なその男と歩く女は、きっと惜しげも無く笑い、泣き、怒る子供のような女に違い無い。だからこそ、僕はその男に「勿体無い奴だ」と嘲笑してやりたかった。


「でも、踏ん切りが付いたって感じなんです。『私じゃ駄目だろうな』って、根拠も無いですけど。思っちゃったから、仕方無いなって」


 じゃあ、僕と付き合ってみませんか……軽々しく提案してみせる架空の僕を羨む本当の僕は、ただ、口を噤んで俯くだけだった。


「今、何年生ですか?」


 口下手な僕を気遣ったらしい。優しい彼女は僕でも答えやすい質問を投げ掛けてくれた。


「二年生です」


 一緒ですね、と実に嬉しそうに笑う彼女にお返しをしようと、僕も当たり障りの無い質問を用意した。


「植物とか、好きなんですか? さっきも花壇とか、昨日も、あの草とか……」


 見ていましたよね、そう言い掛けた僕の喉は、強烈な乾きに喘いだ。事実、僕は彼女を常に見ていた。かと言って「ずっと見ていましたよ」と暗に伝える意味など無い、むしろ悪い印象を抱かせてしまうはずだ。


 何処まで僕は馬鹿なんだ。


 頭を掻き毟りたくなる衝動に駆られた僕など構わず、意外にも彼女は「好きですね」と呆気なく答えた。


「私、園芸部なんです」


「園芸部?」


 僕の高校には無い部活動だった。近いものを挙げるとすれば、生徒会に属する環境委員会だろうか。彼らも運動場の花壇に何を植えたとか、何を植えて欲しいかとか、校内新聞を通して生徒に問い掛けていたはずだ。


「そうです。文字通り、花を植えたりちょっとした野菜を作ったりするんです。野菜と言っても、プチトマトとか、キュウリぐらいですけど」


「じゃあ、あの花の名前も分かるんですか?」


「分かりますよ。あれはサルビア・ファリナセアですね。部活で育てたかったんですけど、クジに外れちゃって」


 曰く、彼女の学校の花壇にはスペースが余り無いらしく、部員同士が別の花を育てたい場合、クジを引いて抽選するとの事だった。


「家で育てるのは?」


「私の家、マンションなんです。ベランダも小さいし、『虫が来る』って母親が嫌がるんですよ」


 溜息交じりに家庭の事情を語る彼女と僕との距離が、少し短くなったようで嬉しかった。彼女がサイダーを半分程飲み終えた辺りで、いつものように、遠くから二つの光が近付いて来た。


「来ましたね、列車」


 頷く僕の方も見ず、「よいしょ」と立ち上がった彼女の制服から、微かに日焼け止めクリームの匂いがした。僕の高校でも頻繁に嗅ぐ匂いだった。


 あの子は、何処に座るのだろうか。


 僕は乗降口に吸い込まれた後、彼女の動向が気になりつつも、昨日と同じ位置に鞄を下ろした。列車はやはり一両編成で、今日に至っては乗客が僕と彼女だけだった。


 結った髪を左右に揺らし、彼女は僕に会釈しながら……僕と同じ列の座席、三メートル左に座った。ホームの時とは距離を離された僕だったが――。


 反対に、僕は笑い出したくなる気分だった。

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