第44話 甘すぎる僕のお姉ちゃんが待つ家

 しお先輩と『ラブリーキャット』の前で別れたあと、僕と華恋かれんはお互いに頭の中に入っている台本の読み合わせをおこないながら帰路についた。


 もちろん、二人とも内容を間違えることなく物語は進み、最後は泥棒を追っ払って、イヌたちは幸せに明かりのついた家で暮らすことになり終焉を迎える。


 そして、一呼吸おいたあとに、華恋かれんがぽつりと呟く。


「今更だけどさ、あたし、小さい頃から好きだったのよね、この話……」


「えっ?」


 そんな話を始めて聞いた僕は、ちょっと驚いてしまった。


 華恋かれんが『ブレーメンの音楽隊』を好きだというのが意外だった……というわけではなく、あれだけ小さい頃から一緒にいたのに、そういう話を聞いたのが初めてだったことに驚いてしまったのだ。


 どれだけ長い時間一緒だろうと、互いに認識していないこともあるということか。


「何よ、その意外そうな顔は……」


 しかし、僕のリアクションが不満だったのか、華恋かれんが僕を睨むようにして問いただしてくる。


 少し焦った僕だったけれど、華恋かれんはすぐに話の続きを語りだす。


「ほら、この子たちって、悲しいけど、もう必要がないからって理由で飼い主に棄てられちゃったでしょ? でも、ちゃんと自分たちの夢を思い出して、ブレーメンを目指すっていうのがさ、なんだか子供心に凄いなって思ったの。上手く言葉では言えないんだけどね……」


 そう語る華恋かれんの話を聞いて、僕も頷く。


「……なんか、華恋かれんの言いたいこと、僕にも分かる気がする」


「そう? 自分で言っておいてなんだけど、子供の頃からそんな風に見ていたのかも分かんなくなってるのよね、正直。思い出って美化されちゃうもんだし、昔のあたしだったら、泥棒を追い出すシーンを面白がってただけかもしれないし」


「あー、それはあるかも。華恋かれんっていたずらするの好きだったし。それでおばさんによく怒られたよね」


「ちょっと……嫌なこと思い出させないでよ……お母さんが怒ったら怖いのは、あんたもよく知ってるでしょうが」


 よく知っているが、僕はおばさんから怒られたことがないので、あまり実感がない。


 とはいえ、華恋かれんがよく怒られているところを見ていたのも事実なので、素直に賛同しておいた。


「とにかく、そのロバやイヌたちみたいにさ、もしあたしが何かに躓いたりしても、諦めないような大人にならなきゃいけないなって思ったわけよ。今も昔も、それは変わってないと思う」


「……そうだよな。みんな凄いよ。僕だったら……」



 ――僕だったら、どうしていただろうか?



 もう必要とされなくなったとき、家を追い出されたりしたら、果たして、彼らのように新たな希望をもって旅立っていただろうか?



 誰も認めてくれない世界を、歩もうと思うだろうか?



りく? どうしたのよ。さっきより、辛気臭い顔してるわよ? まさか、もう緊張してるわけ?」


「……ははっ、案外そうかも」


「もう、しっかりしなさいよね。ま、ちょっとりくが失敗したところで、あたしがいるんだからちゃんとカバーしてあげるから安心しなさい」


 ドンっ、と胸を張るようにしてそう告げる華恋かれんは、僕には本当にたくましく見えた。


 そんな会話をしているうちに、僕たちが住むマンションへと到着した。


 まだ日が沈んでいないにも関わらず、辺りが少し薄暗くなっている。


 空を見上げるとどんよりとした雲が広がっていた。


「良かった、一雨来る前に帰ってこれて」


 華恋かれんの独り言にも頷きつつ、いつものようにエレベータで別れの挨拶を交わす。


「明日は宜しくな、華恋かれん


「ええ、任せときない」


 自信たっぷりの返事を聞いて、僕も元気を分けてもらった。


 このあとは、姉さんが作ってくれる夕食を食べてから、パソコンで明日使う音声の確認をしておこう。


 もしかしたら、心配した姉さんが勝手に部屋などに入ってくるかもしれないけれど、今日だけは作業に集中させてもらうつもりだ。


 そう決意しながら、家の玄関の扉の鍵を差し込むと、すでに施錠は解除されていた。


 以前、鍵を忘れて華恋かれんに迷惑をかけてしまったので、今日は念のため鍵を持ってきていたのだけど、姉さんはどこにも出かけたりしなかったらしい。


 また色々と今日の出来事なんかを聞かれると思うけれど、夕食の時間までは、雑談に勤しむのもいいだろう。それで姉さんが楽しそうにしてくれるのなら、僕だって断る理由もない。


「姉さん、ただいま」


 だから、僕はいつも通り、リビングの扉に手をかけたのだが、そこで違和感を覚えた。



 ――あの姉さんが、僕の声を聴いて、リビングまで迎えに来なかったことなどあっただろうか?



 そして、そんな疑問に答えたかのように、その声は僕の耳にまで届いた。



「遅かったな、りく。どこに行っていた?」



 そこには、椅子に座って不安そうに僕の顔を見る姉さんと――。



 母さんの命日である冬の日から顔を合わせていなかった、僕の父さんが待ち構えていたのだった。


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