第77話 二次元ムーブは程ほどにしてくれ
無意識のうちに口が引きつり、同時に掴まれた手がぴくりと動くが、先ほどより一層、強く握りしめられた手首は、その微かな挙動すら許してくれない。
案の定というか、当たり前というか、簡単に逃してくれそうにはなかった。
ですよね。
「つれないねぇ。一度は共闘した仲なのにぃ」
「どの口が言います!?」
思わずノリよく切り替えしてしまう。
知ってるんだぞ!
私を体のいい捨て駒にしようとしたことは!!!
いや、しかし。
目の前に黒崎が現れたというのは、確かにピンチだけれども。
今すぐ、何かどうこうされるってことはないはずだ。
だってここは、いかな人通りが少ないとはいっても、大都会は池袋のど真ん中。
しかも、真っ昼間である。
確かに大通りから外れてはいたが、十数メートルも戻れば、さっきの人混みに突き当たる。
ここから走って逃げるのは難しいかも知れないが、声を上げれば、あからさまに連れ去られようものなら、誰かが気付くだろう。交番だって近くにあったし、そう手荒なことは出来ないはずだ。
落ち着け、私。
状況を整理して、少しだけ冷静さを取り戻していると。
「何を考えてるかは大体分かるけどね」
緋人くんそっくりの顔で、しかし本物の彼なら人前では決してしないような嫌らしい笑みを浮かべると。
「お生憎様ぁ」
黒崎はすっと目を細めて、空いた方の手で指をぱちりと鳴らした。
途端。
ぼわん、と耳が遠くなるような感覚がして、街の喧噪が遠のく。
一本脇道に入ったとはいえ、さっきまで煩いくらいに背景で響いていたざわめきが、嘘のように静まりかえっていた。
まるで、水の中にでも、いるかのような。
何事かと後ろを振り向くが、すぐ側の大通りでは相変わらず大勢の人々が行き交っていて、見たところさっきと変わりはない。
だけど、どこか景色が色褪せて見えるようにも思える。
「そうそう人は来ないよ。即席だけど、閉鎖空間を作り上げたからね。
外界からこのエリアを隠蔽したから、その辺を歩いてる人たちには助けを求められないよ。コード
…………。
なんかマンガとかで出てきそうな単語が出てきた!?
いや、閉鎖空間って言葉自体はそのまんまの意味だし、別にそういう単語じゃあないだろうけど。でもなんか、あからさまに怪しい単語がちらほらあったぞ?
なんなんだ。虹といい黒といい、そもそも亜種の方々だってそうだけど、ホントこの界隈はなんなんだ。ファンタジーめ。
そしてつまり、何がどうなったんだ。
日常であまり遭遇しない規格外なことを、音声でぱっと言われても、わたしのポンコツ脳じゃすぐ理解できないぞ。
要するに、ええと。人混みから切り離した感じ? うん?
分かったような分からんような。
現代ファンタジーライクな単語に、眉間に皺を寄せていると。
「ジャンプ読んでる?」
「唐突にどうした!?」
黒崎の意味の分からない問いに、思わず素で答えてしまう。
いやだって、この状況でその問いは意味分かんないでしょうよ!
昨日の桃ちゃんとの歓談じゃないんだぞ!!!
「分かりやすく言うと。呪術廻戦でいう
対オタクに、これ以上ない的確なたとえが来てしまった!
なるほど……。
分かりやすくて、ポンコツ脳にも一瞬で腑に落ちてしまったな……。
本誌は買ってないけど、コミックス買ってて良かったな……。
「厳密に言えば全ッ然違うんだけど、まあ、ざっくり意味合いを理解してくれればいいから。
そもそも『
また意味分かんない理屈と、いよいよファンタジーな単語が出てきたけど、もう私を混乱させるためのブラフということでよろしいか? ここは無視していいやつだよねきっと?
オーケー、とりあえず。
「つまり。君が泣こうが叫ぼうが喚こうが、そうそう助けは来ないってこと。
お分かり?」
当初の想定より、だいぶピンチだということは十二分に理解した!!!!!
暑さ故の汗だか冷や汗だか分からない雫が、私の背中を滴り落ちるのが分かる。
ああ。せっかく桃ちゃんにチョイスしてもらった推しカラーの
というか。黒崎なんかに邪魔される時点で、もう台無しだ。
失敗しないように、準備してたのに。
万が一がないよう、早めに家も出たのに。
やっぱり私は、どうあがいても恋愛と縁遠い生き物なんだろうか。
まあ、でも。これは私に降りかかってること、だからな。
紅太くんに不幸が降りかかってる訳じゃあ、ないからな。
しかし。こちらだけではなく、あっちにも別途、黒崎の仲間が行ってる可能性だってある。紅太くんは大丈夫だろうか。
スマホが手元にないから時間が確認できないけど、多分そろそろ約束の十時になっている頃だろう。きっと待ち合わせ場所にいるに違いない。
彼なら私なんぞよりはよっぽど対処を心得てるだろうけど、どうか無事でありますように。
とはいえ紅太くんが無事であった場合、今度は私がとんでもない遅刻魔として彼を待たせてしまうことになるので、普通に迷惑をかけてしまう。現状、連絡もできずにいるので、それはそれで非常に由々しき事態だ。
あ。段々、普通に腹が立ってきたな。
一刻も早く、コイツを蹴り飛ばして駅まで戻りたい。
いえ、それが簡単じゃないってことくらいは重々分かってますけどもね!?
「怖がらなくてもいいよぉ。別に取って食ったりしないからさ」
「ここまで信憑性がない発言は初めて聞いたわ!」
新歓合宿での貴様の挙動をお忘れか!?!?!?
「本当だって。いくら閉鎖空間だからって、公共の路上で致す趣味はないからさぁ。それとも、そういうプレイ好き?」
「全力でごめん被りますけれども」
答えながら、脳内で奴の頬に全力で平手打ちする。
ここは天下の往来の真っ昼間だぞ黙れ歩くR18!
「オレは君と話をしにきただけだよ。ちょーっとばかし、確かめたいことがあってね。
とはいえ。大体、それももう終わったけど」
「終わったって」
「危うい単語ばらまいても、平気どころか完全置いてけぼりな反応見る限り。とりあえずアンタは、本気でただの一般人なんだな」
「いや本当マジで、それ以外の何を私に期待した???」
私は!
吸血鬼でも人狼でもないし!
SAIみたいな特殊な組織にいる人間でもありません!
たまたま周りのサークル員が、やたらめったら規格外だっただけです!!!
「SAIくらいは知ってるだろうけど、D機関もNも女王のことも、こないだの
「一般人に専門用語を無闇矢鱈に使用されては困るんですけれども……」
生憎だったな!
振っても叩いても大層な情報は出てこないぞ!
つぅかアレだな。この感じ、既視感あるな。
新歓合宿の時だ。あの時も、コイツから似たようなことをされて探られたんだった。
あの時は、私の挙動で紅太くんの情報が奴に知られてしまったんじゃないかと焦ったけれども。多少なりとも黒崎のことを知った今なら言える。
私は、コイツがほしがるような情報は、マジで何一つ持ってない。
私が知り得ているような情報は、黒崎の立場上、とっくに知っているだろう。
だから、この一連のやり取りで奴が得たことは、私が『マジで役に立たないただの一般人』だということだけだ。
残念だったな!!!
「なら、用事が済んだのなら帰ってよろしいですか?」
「よろしいわけないよねぇ、分かるよねぇ」
さりげなく黒崎の手を振り解こうとし、遁走を試みるも、更に手首を強く握られあえなく阻止された。
で! す! よ! ね!
黒崎は、これまでのふざけた口調から一転し、表情まで引き締める。
「君がホントに一般人なのは分かった。
だけどそれだと、ますます分からない。
なら君は、どうしてこんなところにいる?」
「そんなことを言われましても……」
紅太くんと、いわゆるデートをするためですが。
そこに唐突にアナタが乱入してきただけですが。
そして現在進行形で約束時間を超過しているところですが……。
「というか。ただの一般人だってのは、八王子事変の時点で、充分そちらも分かってたのでは?」
っていうか、それありきの作戦だったよね?
血との相性という要素はあったけど、私が純粋な人間だからこそ黒崎が持ちかけた案だったのだし、現に成功できたわけなのだ。
それを今更、何を言うので?
「それとこれとは、また別次元の話だよ。
くっそ。多少の揺さぶりをかけりゃ糸口が見つかるかと思ったけど、あの時もっと覗いときゃよかった」
黒崎は眉間に皺を寄せるが、やがて気を取り直したように息を吐き出した。
「まぁいい。ならもう一つの用事を済ますまでだ」
「まだ何かあるんすか」
「ビビらなくてもいいよ。そんな大層なことをするわけじゃない」
「前回、大層なことをしでかしてた人が言っても1ミリも説得力がないわけですけれども」
前回、成り行きで手を組んだとはいえ。そもそもコイツは、紅太くんの敵であることを忘れてはいない。
理由は分からないが、あの時は黒崎にとって分が悪くなったから紅太くんを助ける方向にシフトしただけだ。本来は彼を見殺しにするどころか、彼の死を望んでいたクチなのである。
だがしかし、黒崎は至ってあっけらかんと言ってのける。
「それは瀬谷だろ。前回はあいつの計画に便乗できそうだったからノったけど、オレは積極的に若林を殺そうとか、そこまで過激なことをする気はない。
若林がいなくなったらなったで都合はいいけど。その場合、オレ自身は、決して若林に手を出さない。そんなことをしたら、意味がないからね」
「意味がない」
八王子の時は、かなり物騒な物言いをしていたので、黒崎の言葉を少し意外に思う一方。
その表現に、引っかかる。
自分は手を出さない、というのは、順当に考えれば『自分の手を汚したくない』って意味にとらえられるし、それなら言わんとすることは分かる。
でも、『意味がない』って、なんだ?
疑問符を浮かべながらも、続けて尋ねる。
「じゃあ。一体なにをするつもりなの?」
「ちょっとした既成事実が欲しいだけだよ」
「既成事実」
既成事実。
日常会話でこの単語が飛び出した場合、私の周りでは、誇張であったり冗談であったり、なんだかんだで無難な意味合いで使われることの方が多いけれど。
コイツが言うと、文字通りのマジでロクでもない予感しかしない。
本気でロクでもない予感しかしない!!!
中身を聞く前に盛大に身構え、いよいよ不意打ちで顔面にパンチしてでも逃げるべきだろうかと思案し始めた時。
不意に、黒崎の方が、私の手を離して数歩、後退した。
その直後。
さっきまで黒崎のいた位置に、風を切る音と轟音と共に、突如、人影が飛び込んで来た。
一体どこからやって来たのか、本当に飛び込むという表現が一番合っている。多分。避けなければ、黒崎は巻き込まれて吹き飛ばされるか、強かに身体を蹴られるかしていただろう。
というか。
今の、もしや黒崎を蹴り飛ばす感じで来たのか?
「嗅ぎつけるのが随分と早いじゃん」
後ずさった黒崎は低い声で呟き、苦い表情で口の端を舐めた。
何が起きたのか飲み込めず、いきなり目の前に現れた人物を、私は茫然と見上げる。
こちらに背を向けているので顔はよく見えないが、私より年上の男の人である。20代後半か30代とかだろうか。半袖の薄紫がかったワイシャツにスラックスという姿と年齢からして、社会人だろう。
……電光石火の勢いで、人のいるところに飛び込んでくる社会人、いる???
ていうか二度目だけど、今の黒崎を跳ね飛ばそうとしてなかった???
体勢を整えた黒崎が、男の人に向き直る。
「久しぶりですね、三条センセ。まさか貴方が出てくるとは思いませんでしたよ」
そこは五条じゃないんだな?
と一瞬思ったけど、ひっそり首を横に振って邪念を振り払う。
危ない。いよいよ二次元ネタが大渋滞過ぎてどうかと思うので、SAIも黒崎もこの人も、いい加減本当に自重して欲しい。
いえ、この三条先生とやらは、ただのとばっちりですけれども!
ともあれ、どうやら黒崎とこの人とは、知り合いのようだった。
敬称からして、素直に考えれば、教え子と教師かな?
「これでもだいぶ手間取ったんだがね。あっちでもこっちでも、可愛い教え子が手を焼いてくれるから困る。
さぁて。どうしたもんかねぇ」
手をパンと叩き合わせて埃を払いながら、三条先生とやらも涼しい表情で立ち上がった。
両手をポケットに突っ込み、彼は鷹揚な物言いで黒崎を見据える。
「なにせ。なにがどうして、こんなことになっちまったのか。事情聴取も含め、じっくり教育し直さなくちゃあならねぇからな。
なぁ、奥村」
…………。
ええと。
ちょっ……と、待ってくれ。
今。なんと?
奥村?
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