第42話 鮮血の白雪姫
私の首からは、血が滴り落ちている。
地下へ降りる直前に、黒崎が付けた傷から流れる血だ。緋人くんの能力を使っているため、おかげさまで痛みはない。
多分、ここに来るまでの階段には転々と血痕が残っているはずだ。ごめん藍ちゃん、後で掃除するね……。
別れる直前と同じ、吸血鬼化した状態の若林くんは、その深紅の双眸で狼狽えたように私を見つめる。
「止血しないと」
「だめ」
焦った声で言う若林くんを制止すると、私は黒崎から渡されたクーラーボックスを開け、中に入っていた血液入りのパックを取り出す。
「この血と、それから、できる限り私の血を飲んで。
そうすれば、きっと若林くんも、円佳さんも、死なずに済む」
簡潔すぎる説明だった。慌てていたせいではあるが、しかしいくらなんでもこれでは伝わらない。続けて説明しようとするも、余計に焦って、頭が上手く働かなかった。
だけどこれで、若林くんは私の言わんとしていることが概ね分かったらしい。
「分かった。つまり、この血と望月さんの血で、俺の血液量を補いながら、円佳に血をやるってことだね」
絶望的に意味不明な説明ですみません!
汲んで頂いて助かります!!!
「だけど。まずは、望月さんの血を飲ませて。先にこれをどうにかする。
悪いけど、俺の口の近くに、近付いてくれる?」
言われるがまま、彼の口元に、血の流れ出る首元が届くよう、身を乗り出すと。
まるで、抱きつくような体勢になってしまう。
拘束された。
半裸の。
大天使に。
これは。
これは大変である。
これは大変な問題である。
こんな場面を見られようものなら。
もれなくお巡りさんに110番通報されてしまう。
違う、違います!
私は決して、抵抗できない相手を襲っている変態ではないです!
不可抗力なんです! 相手も同意の上なんです!
アッ同意の上って注釈つけると余計に怪しくない!? なにこのバグワード!?
よし。
大天使を誤って触れたり潰したりしないように注力しよう。
天使の絹がごとき肌に指一本でも触れてはならぬぞ。
触れたら最後、貴様は犯罪者だ……!
心の中で身の潔白を訴えながら、万一の際の言い訳を必死で考えているうちに、気が付けばある程度の血液補給が終わったようで。
若林くんは、血の付いた顔を上げる。
「ごめん、ちょっと離れてて」
「え? うん」
言われたとおりに数歩、後ずさると。
若林くんは、そのか細い身体に力を込める。
すると。
私の指の太さほどもある。
鎖が。
ブツンと、さながら糸みたいに、切れた。
……吸血鬼の馬鹿力やばくない!?!?!?
えっ……話では……聞いていたけど……。
えっ……うそ……?
見ると聞くとじゃ大違いってやつですねこれ。
これは。確かに、敵なら警戒するわ。
若林くんの血の補給経路を全力でシャットアウトするのも分かるわ……。
呆然としている私をよそに、若林くんは椅子から立ち上がると。私の手にしていた血液のパックを受け取り、今度はそれに口を付ける。
部屋が薄暗く、銀髪に赤い目も判然としないくらいだ。知らずに見れば、ぱっと見はそれが血だと分からないだろう。
なんか、この絵面だけ見てると、ウィダーインゼリーで補給してるみたいに見えるな。
なんて間抜けなことを考えていると、あっという間に十秒チャージが終わった。
口元を手で拭うと。
若林くんは、眉根を寄せた。
「これ。誰の血?」
「えっと。多分、黒崎朔の血。今は経緯は省くけど、ちょっと色々ありまして」
「黒崎……」
黒崎の血を飲んだのが嫌だったのだろうか、若林くんは僅かに顔をしかめる。
が、空になったパックをジーンズのポケットに突っ込むと、気を取り直したように話を戻す。
「望月さんのおかげで、ほとんど万全に近い状態に戻ったよ。まずは今の状態で、できる限りまで桜間円佳に血を与える。
さっき血を貰った時、仮に傷は塞いであるけど。途中で足りなくなったら、またお願いしてもいい?」
「もちろん、大丈夫だよ」
「あんまり飲み過ぎると望月さんの身体に障るから。間違って飲み過ぎないよう、現時点での失血量を知りたいんだけど。血を出したのは、いつから?」
「ここに来る直前だよ。階段を降りる前。だから、まだそこまで血は流れてないよ」
「分かった。加減しながら貰うけど、もし体調が悪くなったらすぐ言って」
早口で確認し合うと。若林くんは、私の降りてきた階段の対岸に広がっていた、蛇腹のパーテーションに手をかけた。
パーテーションで区切られた奥には、小さな部屋が続いており。
そこには、人一人が収まるサイズの、黒い棺だけが鎮座していた。
棺の側に歩み寄ると。
彼は、心なしか小声で尋ねる。
「離れてる?」
「ううん。すぐ対応できるように、側にいるよ」
黙って頷くと。若林くんは、上に被さる蓋に手をかけ、取り払う。
中には。綺麗な女の子が、眠っていた。
咄嗟に、白雪姫を思い出してしまう。
それくらい、うっとりしてしまうような、綺麗な人だった。
背中まで流れる艶やかな黒髪に、長い睫毛。
形の良い唇には、満足そうな微笑みを浮かべている。
事情を聞かなければ。それこそ、ただ眠っているだけだと勘違いしてしまうかもしれない。
だけど。彼女の肌は、ひどく病的に白かった。
それこそ、葬儀場で以前目にした、焼かれる前の死人のように。
若林くんは、無言のまま口元に右手首を押しつけると、自分の歯で手首の皮膚を切り裂いた。
あふれ出た血を、反対の手で円佳さんの口を押し開き、流し込む。
ここで今更ながら、彼女が血を飲まなかったらどうしよう、との不安がよぎる。
だけどその心配は杞憂のようだった。
吸血鬼の反射のようなものなのだろうか。口の中へ注ぎ込まれた血は、彼女の口内から溢れることなく、彼女の体内に飲み込まれていくようだった。
普通だったら。意識がない人に水分を飲ませるのは、誤嚥の可能性があるからやってはいけないとされているけれど。そもそも飲む、という行為とは事情が違っているようだった。現に彼女の喉は動いていないし、飲み込む音もしない。
飲む、というよりは。
砂漠にしみこんでいく水のように、身体に吸い込まれていく、といった表現が似つかわしかった。
しばらく若林くんは、そうして血を与えていたが。
やがて顔を上げ、ちらと視線が合う。
「ごめん。貰って、いい? あと少し。あと、少しだと思うんだ」
「大丈夫。足りるだけ飲んで」
慌てて彼に近寄り、首筋を差し出す。
「飲んだりあげたりだと回りくどいし、
円佳さんに足りるまで、飲んで!」
右手首は円佳さんの口に寄せながら。
左手で私の頭を引き寄せ、血を飲む。
今回は。今までに血をあげていた時と、少しだけ感触が違っていた。
飲まれている、感じではなく。
吸い込まれている、感じ。
円佳さんと同じように。口に入れた側から、すぐさま彼の体内に飲み込まれているような。
黒崎が言っていたように、体内に入った血をすぐさま彼の血とするべく、躍起になって吸収していっているようだった。
それだけ。
きっと、それだけ、瀬戸際なのだ。
即座に変換しないと追いつかないほど。
血が、血が、足りない。
お願いだ。
私の血が。私の血が、彼にとって、うるさいくらいに有用な血だというのならば。
そのただの人間の、たかが私なんかの、紅い血の底力をみせやがれ。
その本領を、本性を、本気をみせてみろ。
若林くんを、助けてみせろ。
どうか、どうか。
そこまでは、保ってくれ。
絶対に。
誰一人、死なせやしないんだから。
やがて。
「脈が、ある」
円佳さんの首筋に触れた若林くんが、ぽつりと呟く。
「さっきまで。本当に、鼓動も何も、一つも聞こえなかったんだ。
まだ、冷たいけど。だけど、でも」
一つ、私にも分かるくらいの音量で、大きく息をついて。
「生きてる」
若林くんは、それこそ、独り言のように呟いた。
「よかったぁ」
ほっとして、間抜けに私は笑った。
よかった。
足りたんだ。間に合ったんだ。
なんだか、くらくらする。
安心したからだろうか。急に、身体の力が抜けてしまった。妙に全身がだるい。手足がひんやりしている。
胸元に垂れた汗を拭うと。
腕が真っ赤に染まって、びっくりした。
あ、そうだ。
これ汗じゃないや。血だった。
うーん、結構、出たなぁ。
「ばか!」
突然。
耳元で大きな声がして、びくりと肩が跳ねる。
ゆるゆると振り返ると。すぐそこに、怖い顔をした若林くんがいた。
気が付けば。
私は、若林くんの腕の中にいた。
肌寒いので、彼の体温が、とても心地いい。
「どうして。こんなことしたの」
固い声で問われた。
確かに。急いでいたこともあって、何もかも端折ってお願いしてしまったけれど。
事情を知らない若林くんからしたら、突然、何事かと思うだろう。黒崎の名前を出して、怪訝そうな顔をしていたし。
あまりに無茶だといわれても、仕方はない。
「若林くんも、円佳さんも助けるには。これしかなさそうだったから」
「だからって。やり方があるだろ」
呂律の回らない私の言い訳を遮ると、若林くんは私の頭を引き寄せ、首筋に口を付けた。
これまでにも何度か感じたことのある、生温かい感触が伝って。けれど今日は、こそばゆさよりも、安堵が先に立ち、思わず目を閉じる。
うっとおしく首元から垂れ流れていた血が、止まった。
無事に止血が終わったので、若林くんは顔を上げた。だけど、身体はまだ解放してくれない。
若林くんは、私の身体を支えるように抱きとめたままで言う。
「もし。俺が倒れてたら、どうするつもりだったんだよ」
「それは、考えないようにしてたけど。きっとまあ死にはしないだろうし、なんとかなるかなーって」
「ばか」
もう一度言われた。
若林くんは、さっきまで血が流れていた場所、塞がった傷口を、そっと親指でさする。
「そこまで身体を張るなよ。なりふり構えよ。自分のことも、考えろよ。
君は。こんな人外の諍いに、わざわざ巻き込まれなくていいはずの人間だろ」
ぐうの音も出ません。
前にも何度も感じたことだった。どこまでも私は、彼らの問題には部外者なのだ。若林くんにしてみれば、首を突っ込まれる筋合いなんて、さらさらないのかもしれない。
だけど。
「嫌だったんだもん。
若林くんが、どうにかなっちゃうのは、嫌だ。いなくなっちゃうのは嫌だ。
私の血くらいで止められるなら、安いもんだよ」
「……ばか」
三度目を言われてから。
「いや、違う。違うんだ、そうじゃない」
若林くんはゆるりと首を振る。
「言いたいことは、そりゃ、色々あるけど。今は、そうじゃないんだ」
半分、独り言のように呟いてから。
いつの間にか顔に付いていた血の跡を、指で拭った。
「来てくれて、ありがとう」
その言葉に。
自然と、笑みが溢れてしまった。
ばかみたいな話。
その言葉に、まるで、救われたみたいな気がして。
若林くんに寄りかかって、そのまま目を閉じた。
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