12章:奥村緋人は策士である(合宿3日目)

第65話 効果がばつぐんだ

 やってしまった。


「やってしまった……」


 ステンレスの洗面台に手をつき、鏡の中の自分を呆然と見つめる。

 口にも出ようものだ。



 昨夜は、ペンションに戻っても廊下で誰にも会わなかったのをいいことに、そのまま部屋に舞い戻り、半ばふて寝を決め込んだ。寝られないかとも思ったけれど、前日が寝不足だったせいか、思いのほかあっさりと睡魔に負けた。おかげさまで今朝は起床時刻にスッキリ目覚めている。睡眠って素晴らしい。

 そして爽やかな朝日を浴びて、冷静になったところで、事態に気付いた。



 緋人様から課されたミッションを、達成できないどころか泥沼化させてしまったことと。

 本日は満月であることを。



 ……本日は、満月である。

 どうあがいても、満月である……。



 本来であれば。私と若林くんは昨夜のうちに和解し、緋人くんが言っていたように、あのタイミングで若林くんに状況説明した上で、彼に血をあげるつもりだった。


 一つには、若林くんの健康上の問題があり。

 もう一つには、私の身の危険の問題があった。


 満月の夜に血が足りなければ、若林くんは日常生活にも支障をきたす。

 しかし逆に言えば、適量の血さえ摂取していれば、若林くんは吸血鬼としての規格外の能力を最大限に発揮できるのである。


 守ってもらうというのもおこがましいけれど、もしまた私が襲撃された時に備えて、彼のコンディションは整えておきたいというのが緋人くんの考えであった。

 多分、私のことはブラフで、襲撃犯の本当の狙いが若林くんである可能性についても見越しているんだろう。


 けれど現状、血はあげられていないわけで。

 仮にこの後、血をあげたとしても、私たち二人がぎくしゃくしている以上、いつものようなパフォーマンスは発揮できないわけで。


 そして今は合宿。血をあげるタイミングを計るのは、ただでさえ難しい。

 一番、人目を避けられるのは、飲み会でサークル員が適度にバラけている夜だけど。今日は、その夜が来る前にどうにかしないといけないのだ。


 つまりまあ。自分の感情がどうであっても、昨日の時点で、どうにかして私は彼に血をあげなければならなかったのだ。


 しかしこの状況は、半分以上が自業自得である。ついイラッとして逃げてきてしまったけれど。これじゃ自分の首を絞めるようなものだ。

 実際にこの前、締められたしね!!!

 あっ笑えない。マジで笑い事じゃない。



 それに自分のことと襲撃犯のことはさておいても。

 単純に、現状はヤバい。


 今夜は、バーベキューが予定されている。

 『戸外でのバーベキュー』である。

 満月の光降り注ぐ中での、バーベキューである。


 どう考えてもヤバい。

 ヤバくない要素がない。




「これは……ヤバい……」

「愚鈍な頭でも一日経てば冷静になるんだ?」

「ヒッ」


 独り言に反応があり、思わず悲鳴が漏れる。

 背後から聞こえてきた声は、勿論、緋人様のものだった。


 洗面所には、他のサークル員はいない。そのせいか、いつものようにあの朗らかな笑顔で取り繕っていなかった。

 つまり、この上ない仏頂面で、大変に不機嫌そうなオーラを発している。

 あっ笑えない。マジで笑い事じゃない。


「ごごごごめんなさいすみませんでしたッ!!!!!」


 身の危険を感じて、咄嗟に謝罪した。

 しかし緋人くんは一つため息を吐き出すと、ゆるゆると首を横に振る。


「いや。八つ当たりだ」

「へっ?」

「あれは流石に紅太が悪い」


 やはり不機嫌な声音だったが、しかしそれ以上は文句を言われることもない。顔面をわし掴まれることもなかった。

 彼に習って、ようやく私も歯ブラシを口に含みながら、恐る恐る尋ねる。


「あれから。話、どうなりました……?」

「どうもこうも。何も進んでないよ。お前は逃げるし紅太はアレだし」

「申し訳ございませんでした」

「シロのくせに、ばかに殊勝じゃないか」

「命は惜しいので……」

「心配しなくても飼い犬を食い殺したりしないよ」


 つまり食い殺す手前までは可能性があるんですね。

 気をつけます!!!!!


「紅太については。とりあえず俺の血と、それから村上の血を飲ませた。だから当面は大丈夫だろう。

 けど、どこかでやっぱりお前の血は飲ませたい。この際だから最悪、和解云々はなくてもいい。タイミングみて夕方あたりに頼む」

「了解です」


 それを聞いて、少し安堵する。

 よかった。単純な摂取量もだけど、村上くんも人間だから、同族の緋人くんからもらうよりも効果は高くなるはずだ。


 ありがとう村上くん。

 そしてごめん村上くん。


 心の中で勇者村上に敬礼を送りながら、深夜の男子三人での血のやりとりを思い浮かべてしまい、うっかり私は歯磨き粉を飲み込みそうになった。

 いけない。流石にこのタイミングで煩悩にとらわれてはいけない。

 こちらの煩悩は、無事に合宿を乗り切った後に取っておこう。大変に楽しそうな煩悩である。BでLなサムシングにあまり造詣が深くない私でも、既にわりと楽しい。


 場の空気を読んで必死に煩悩を押さえ込んだが、珍しく緋人くんは私の挙動不審には気付かないようで、無言のまま淡々と洗顔まで終えた。

 身支度を済ませてしまうと、緋人くんは左右に視線をやって周りに誰もいないことを確認してから、抑えた声音で告げる。


「一つ言っとく。昨日の犯人が落としてったものについて、聞いたか?」

「ううん、聞いてない」


 そういえば、襲撃犯は昨日、逃げる寸前に何かを落としていった。

 あの後は若林くんが大変に怖かったので、すっかり忘れていた。


「クシだよ」

クシ?」


 思いがけない物を告げられ、首を傾げる。

 なんかこう、もっと物騒な物かと思った。ナイフとか武器みたいなそういうやつ。

 いや、物騒な物を所持されていても困りますけれども!!!


 あれかな。襲撃とは関係なしに、普段から持ち歩いてるものをウッカリ落としちゃった系かな。そうするとデザインにもよるけど、いつも持ってるってことは。


「木でできた古風なやつで、デザインからすると女物だ。普通に考えれば、少なくとも昨日お前を襲撃した奴は女の可能性が高い。けど」


 私の思考を引き取ってそう言うと、しかし緋人くんはそこで言い淀み。

 しばらくしてから、また深いため息をついた。


「ちょっと。練り直す。今みたいにサシで話せる機会はあんまりないだろうし、何かあったらLINE送るから、見て」

「承知いたしました」


 殊勝な飼い犬は、従順に返答した。

 たまには煩悩に溺れずに、こういう対応ができる時もあるのだ。途中危なかったけど。

 と、その時。



「朝から不愉快なものを見てしまいましたねぇ」



 穏やかながらも絶対零度の含みを持たせた言葉に、静かに振り返る。

 そこに立っていたのは、洗面用具を手にした桃子さんである。


 ひえ……。

 ショートパンツの生足が目にまぶしいけれども……。

 微笑みを浮かべていらっしゃるけれども、目が笑っていらっしゃらない……。

 頼むのでここで喧嘩は止めていただきたい……。


 って、アレ、どっち?

 緋人くんと私、どっちに向かって言ってた??

 いや、どっちもか???



「こっちだって朝っぱらからお前の面なんざ拝みたくねぇよ」



 渋面を浮かべて緋人くんは吐き捨てた。


 あの、緋人くん。

 いつもより。いつもより、口調が悪いです。

 あれだな、あの日と同じだな?


 そういえば。もしかして、この合宿で二人が接触するの、今回が初めてなのか?

 周りに人がいないから、二人とも猫を脱ぎ捨てていらっしゃる。

 非常に危険な状況です助けて。

 ま……まあでも、二人とも分別はあるだろうし。さすがに、この状況下で事に及んだりはしな、


「元はといえば、全部お前が悪い」

「……なんです?」

「お前が邪魔だって言ったんだよヤンデレ女」


 待て待て待て待て待って待て。

 緋人く……緋人さん???

 何してくれちゃってるのアナタ!?


 怪しまれてる方を挑発してどうするんですか!

 いえ、桃子さんが犯人て決まったわけじゃないですけれども!!!

 犯人じゃなかったとしても、このタイミングで彼女を刺激するのは如何なものなんでしょーか!!!!!

 悩みの種が増えるだけでは!?!?!?!?!?


「せっかく離れられると思ったのに、性懲りもなく俺たちの前に現れて。一体どういうつもりだ」

「それは、だって」

「その性根を叩き直さない限り、二度と姿を見せるなっつったよな?

 どうせ俺たちの居場所だって、媚売って聞いたんだろうが」


 緋人くんと違って、桃子さんはあの日みたいに言い返すことはなく。

 彼女は、無言のまま手にしていたタオルを強く握りしめた。



「俺は、お前みたいなクソ面倒くさいひねくれ者は大っ嫌いなんだよ」



 桃子さんはぎゅっと顔をしかめ、唇を噛みしめる。そのまま、くるりと踵を返し、小走りで走り去ってしまった。

 思わず手を伸ばしたけれども、しかし私の立場や、私が彼女に嫌われていることを考えると、追いかけることもできず。

 私はおろおろと、桃子さんの去った方角と、緋人くんとを交互に見比べる。


「さ、さすがに言い過ぎなのでは」

「ドストレートに言わないとあいつには効かない。言ってもどうせほとんど効かない」


 いや、めっちゃ効いてそうでしたけど。

 もの凄い涙目でした……けれども……。


 もやもやして、続けてまた口を開こうとしたけれど。それからすぐ何人か他のサークル員がやってきたので、会話はそこで終わってしまった。桃子さんとは別の方角から来たので、特に彼女のことに言及されることもなく、無難に挨拶をしてから、緋人くんは立ち去り、私は身支度の続きに戻ったけれども。

 それから、ずっと桃子さんのことが気がかりで、私は既に磨いたはずの歯を、何度も何度も磨き続けていた。

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