princess "little mother"
三千人が詰める前線基地の兵員食堂はいつも騒々しい。
だが、青年にそれを気にする様子はなく、沈着な面持ちでコーヒーを啜っている。兵士は士気高揚が肝要である云々とやらで、民間ではとっくに代用品しか見なくなったものが普通に供されるのは嬉しい。煎った麦やタンポポを煮詰めたものではなく、豆本来の香りがするコーヒーをしみじみと味わいながら、青年はまんじりと時間をやり過ごす。
ふと、正面の椅子が引かれ、視線を上げると見知った顔があった。
「シュナイゼル中佐」
「久しいな、フォックス」
相席を求めることなく座った男の肩には、金地に一つ星の階級章が縫い付けられている。
「今は〈グリム〉です。それはともかく、昇進おめでとうございます。その歳で将官とは恐れ入る。さぞ周囲からの羨望も、反感も厚いことでしょうね」
「この戦争は上も下も関係なく死んでいく。空きが出たから補充された。それだけだ」
「そう、ですね」
マグカップを手に取り、青年は背もたれに寄りかかる。
自分がいなくなったから、
「……聞きましたか?」
「将官には通達があった。佐官以下にはまだだ」
一拍置き、居住まいを正すとシュナイゼルは切り出す。
「軍に戻ってくるつもりはないか?」
「あなたは御存知のはずです。二年前、あの戦場で、私は隊の皆を死なせた」
「俺とて貴様に死ねと命じた。部下を、仲間を死なせた者に戦場に立つ資格がないというのなら、今頃、誰もいなくなっている。誰も切り捨てずにいられるほど、世界は甘くない」
「私はもううんざりなのです。他人の命を預かることも、他人に死ねと命じることも、末期の者を見捨てることも。戦うなら、一人がいい。果てるものがこの命のみであること、そうでなくては、私はもう征野に臨むことができない。私はもう〈笑い狐〉ではないのです」
本質的な理由とは異なるとしても、その言葉に偽りはない。優秀な人間が必要だ、となおも食い下がるシュナイゼルに対して青年は首を振り、譲ることのできない
「あの少女は、どうなるのですか」
あからさまな話転に難色を示すことはなく、シュナイゼルは物憂げに言う。
「それは奴次第だ。祖国と呼ぶのが相応しいかは知らぬが、同胞の不利益を嫌うような忠心の厚い奴であれば敬意は表せども荒っぽく訴える他にあるまい。人類は逼迫しており、あれは貴重な情報源だ。殺めることはなくとも口は割ってもらわねば困る。だが、あの見てくれだ。そもそも兵士かどうかも怪しい。有益な情報など、得られても僅かだと思うがね」
そこまでを訥々と語り、シュナイゼルは立ち上がる。
「目を覚ましたそうだ。同席するかね、フォックス」
「私は外部の人間です。そのようなことが許されるので?」
「第一発見者だ。所感を述べる程度の報告義務はあるだろうし、それに、この基地の中では俺が最も偉い。俺が下した決定に異議を唱えられる者などいない」
茫洋として掴めぬまま、ただそこに在り続けたものの正体を知りたくはないのかね、とシュナイゼルは笑む。彼の鳶色の瞳の裏には、未知への好奇が朱く燃え盛っている。
「……閣下は、奴が祖国を売るために現れたと見做すことに御賛同いただけますか?」
「何か、奴と話したのかね?」
「いいえ、まだ何も」
これから言葉を交わすのだと、青年はコーヒーを飲み干した。
ヒナゲシの少女は拘束服を着せられ、さらに、床に溶接された鉄椅子へと繋がれている。ぼんやりと青白く発光する床は部屋の様子をどこか薄ら寒く演出させ、窓もなく、時計もない部屋は収容者の感覚を削ぎ落としていく。少女の前にはマイクスタンドがひとつ。壁に埋め込まれたスピーカーの格子が、アイボリーの壁を黒く切り取っている。
検疫所を通過したとはいえ、
目覚めたばかりの〈イーバ〉の少女が恐慌を来すことは、果たしてなく、落ち着き払った挙措で自身の状況を確かめていく。体を絞め付ける拘束具、咬まされた猿轡、視界さえもマスクで遮られた状況で、少女の無味な反応はある種の生理的嫌悪さえ抱かせる。
「外見に似合わず、なかなか豪胆な性格のようだ。これは骨が折れるぞ」
シュナイゼルは愉快そうに肩を竦め、この戦争が始まって以来、初めてその任に当たった
「
「承知しました、閣下」
厳かに咳払い、交渉官は手元のスイッチを入れる。
「ハロー」
突如として響き渡った声と、カシュ、と空気の抜ける音とともに外れた猿轡に少女は貌を上げる。躊躇うようにもごもごと口を動かし、一拍置いてから、流暢な発音で言い切った。
《
感嘆めいた空気が、一瞬、場を支配する。宣戦布告が英語だったことから予期していたとはいえ、こうして実際に〈地球言語〉で言葉が通じた瞬間を迎えれば、思わず心が浮足立つ。
《状況は理解しています。これが尋問であるのか、拷問となるのかは分かりませんが、私はあなた方にとって有益な情報源となることを望まれている》
あまりにも早すぎる認識。愛国者に共通の
疑惑。少女は何を為すために送り込まれたのか。「ミス……」と言いかけて交渉官は口を閉ざす。アイマスクによって被われた貌の中で、淡紅色の唇が妖美に笑む。
《どうぞ、ミス・イーバと。私達は私達のことを〈
「あなたの名を知りたい、ミス。私はランバネル交渉担当官です」
名乗られたら名乗り返すのが礼儀、少なくとも地球では。
《リトルマザーと呼ばれる個体、私は〈イーバ〉の次期後継者であり、売国奴です》
放たれた爆弾、炸裂。誰もかれもが言葉を失う。〈イーバ〉の王女であり、祖国の崩壊を企てるテロリスト。
「プリンセス・リトルマザー、あなたが国を売る理由は何ですか? 王位の簒奪か、それとも別の何かか。あなたは矛盾によって
交渉官の選択、迎合はしない。プリンセスには交渉の用意があることを鋭敏に嗅ぎ取る。
《そもそもの前提として、私はこの戦争を望んでいません。〈イーバ〉の内情からお話ししましょう。先代のマザーが死去したとき、私はまだ七つでした。飾りだとしても王位を継承するには相応しくない年齢です。結果として、叔母が代理の執政官として選出されました》
ここまではよくある話。ここからもよくある権力抗争。
《叔母は変わりました。私を幽閉し、講和によって新天地を探索するべきという〈アストライア〉の不文律を捻じ曲げ、武力による強奪者となることを選びました。閉ざされた故国、放浪する生涯に見切りをつけ、星に束縛されることを望み、そうして生まれたのが〈イーバ〉です》
「けれど、主導者が叔母上なのだとしても、現に戦争は五年も継続しています。プリンセスの意志がどうであれ、国民は戦争を望んでいるのではないですか?」
《国民、臣下――同胞。彼等が支持を表明することはありません。叔母の望んだ武力による開拓も、私の望む講和による開拓も、全てが終わった後で結末を受け入れるだけです》
絶対王政、国民は王家の所有物――財産。意思を表明することは許されていない生ける葦。地球人類が民主主義を発明してから悪政の代名詞となった統治機構を採択しているのかと眉を顰める。プリンセスの表情――隠されたまま、国民の状態を告げる。資源の獲得も見込めないまま虚無の荒野を旅する過酷さ、加速し続けた種族の選択と、生存戦略を。
《彼等は眠り続けています》
《私のからだの中で》
放たれた二つ目の爆弾、衝撃でよろめく。
プリンセスが〈リトルマザー〉と呼ばれるわけ。マザー、母体。生命を内包する存在。
《一億人の〈アストライア〉が私の中で目覚めを待っています。来たるべき
交渉官、二の句を継げない。脳裏を掠めた戦争解決への野蛮にしてスマートな方法を吐き出してよいものか迷う。彼は人類の代弁者に他ならない。彼の言葉は連邦軍の、人類の意志として規定される。故に、核心に踏み込むことが躊躇われた。
対話を一時中断しようと立ち上がったシュナイゼルの肩をグリムが掴む。猛禽の眼が問う――できるのか。黒豹の眼が応える――俺は軍に縛られていない。
「みな、退室だ。録音機も止めろ」
軍属の人間は退出した。残されたのは傭兵にもなり切れなかった回収屋ただ一人。たとえそれが詭弁に等しい建前だとしても、彼の言葉は人類の総意として規定されない。彼はこの場にいるはずのない人物だから、死神の囁きは記録に残されない。
「ハロー、プリンセス。いくつか聞きたいことがある」
《その声は、私を鞘から回収したヒトですね。初めまして。あの場で射殺されなかったことに感謝を。あなたの判断により、私はこうして地球人類と接触することができています》
「殺される可能性を理解しているのか?」
《当然でしょう。我々はあなたの同胞を随分と虐殺してきました。理不尽かつ不当な要求のために。その規模はもはや民族を超越して種の殲滅です。私一人の首で贖えるのであれば、むしろ安い犠牲でしょう》
「だが、あなたは〈アストライア〉を内包している。あなたを殺せば、我々はたやすく敵種族を殲滅することができる。数多の犠牲を強いられてきた戦争は、一発の銃弾で終結する」
《一億人を殺す引き鉄が、あなたに引けますか?》
「引ける」青年の即応。死神の鎌は万人の首にあてがわれ、そこに私情は挟まれない。
《引ける、のですか》プリンセス、初めて戸惑いを浮かべる。
異質なものを視る目付き。揺らめくビジョンに酩酊する。一億人の殺害者となることに迷いはないと豪語する狂気、プリンセスは会話の相手に計り知れない畏怖を抱く。一体何があったなら、人道に悖ることを看過できるのか。
《……叔母は、たとえ一人になったところで戦争をやめないでしょう。私を殺せば、確かに〈アストライア〉は滅亡します。けれどそれは戦争の終結を意味しない》魂なき軍勢は主人を失ったところで奔走をやめない。すでに堰は切られている。敵は〈アストライア〉ではなく〈イーバ〉だった。少なくとも今は。プリンセスの理性が保たれているうちは。
勝ちたいですか、売国の王女は不敵に笑む。
「我々を勝たせると?」
《私の異能と》プリンセスは会話の相手に告げる。《あなたの異能があれば》見透かして。
夜闇の青年は咄嗟に精神を張り巡らさせた。録音機を始めとした計器の類は停止している。隠しカメラ、盗聴器の類も感知できない。安堵を噛み締めつつ、プリンセスへと問う。
「……知っているのか?」
《その問答は後にしましょう。どうやら、来たようです》
何が、とは問わない。プリンセスが殺されれば〈アストライア〉が滅亡する。プリンセスを野放しにしておけば〈イーバ〉の存亡が揺るがされる。警報が鳴り響く。敵機の来襲。行動する起爆剤、意志をもって転進する火種、プリンセスの身柄を奪還するために。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます