#06 清蔵、春を迎える

 後朝の別れも済ませ、清蔵は朝早くの吉原をトボトボと歩いておりました。手にはなにやら重そうな風呂敷包みを持っておりまして、その中には五十両の大金が入っております。これは花魁が輿入れの前払いと男に預けたものでした。

 しかし清蔵が呆けているのは大金に驚いているからではありません。閨を共にした、あの花魁に心焦がれていたのです。夢のような時間は本当に一瞬でありました。

 ここで清蔵、大変なことに気付きます。あの幾代の振りをしていた花魁の、本当の名前を聞いておりません。名も知らぬ女を女房に迎えるつもりかと慌てておりましたところに遠くから声がかかりました。


「おーい、清蔵。魔法使いから賢者に転職できたか?」

「……先生、今までどこにいらっしゃったんで?」

「なんじゃその顔は。ぐずぐず泣きおってからに」

「昨夜の花魁の名前が分からなくって……」


 清蔵の言葉を聞いて老医者はしまったという顔をします。どうかしましたか、と清蔵が尋ねますと先生は舌をペロリと出しておどけました。


「実はの、昨日はニセモノかもしれんと言うたがの、ありゃホンモノじゃ。傾城屋に文句を言ったらの、行儀の悪い子で申し訳ないと……清蔵? これ清蔵! おおい大変じゃあ、誰か医者呼んでくれい!」


 そんなこんなで清蔵は吉原から人足の戸板でもって馬喰町まで戻ってまいりまして、オヤジさんの店の二階でウンウン唸っております。それを心配しておカミさん、


「清蔵、具合はどうだい?」

「らいねん……」

「お粥作ったげるからね、それをお食べ」

「さんがつ……」

「じゃあお薬出してもらおうか」

「らいねんのさんがつ……」

「……お前さん、身体をよくする気は無いのかい?」

「らいねんのさん――」

「それはもういいんだよ!」


 とまあ一事が万事そんな感じでありまして使い物になりません。ああこれは罪作りなことをしてしまったとオヤジさん、何も言わずに清蔵の面倒を見ることにしました。

 清蔵も根は真面目でありますから、そのうちに起き上がって少しずつ店の手伝いなどに復帰していきまして、やっと店の仕事を任せられるまでに快復しましたのは年が明けて、寒さのピークも過ぎた頃でありました。


 * * * * * *


 梅は咲いた、桜はまだかいな、なんて言っている時分のことでありました。

 搗き米屋の前に立派なつくりの駕籠が止まりまして、かついでいた駕籠かきが店の前など掃除していた小僧に声をかけます。


「坊主、ここは六衛門さんとこの搗き米屋かい?」

「そうだよ」

「じゃあ清蔵って人はいるかい?」

「せい兄さんなら奥でもってチョーメン見てるよ」

「へえそうかい。……おられるようです」

「そうでありんすか」


 駕籠の中から声がいたしますと戸がすいと開き、幾代が降り立ちます。廓とは違って地味な着物でありましたが流石花魁、立ち姿だけで周囲の景色を一変させました。


「小僧さん、清さんに幾代が参りましたと伝えてくんなまし」

「へ、へえっ! ――オヤジさん大変だぁ!」

「なんだい五月蝿いね。どうしたんだい?」

「ら、らら、来年の三月が太夫はせい兄さんに呼べって!」

「まあまず落ち着け。……なになに、来年の三月だから幾代太夫が清蔵を呼んでる。……幾代太夫だって!?」


 そんな風に表で騒いでいるのを何事かと裏から清蔵が出てきましたところに、幾代も店に入ってまいりました。おおよそ半年振りの再会でありました。


「ぬしさん、約束通り来んした」

「お、花魁……」

「あちきはもう花魁ではありんせん。ぬしさんのおカミさんでありんす」


 この一言で清蔵の治まっておりました恋煩いがまたぶり返しまして、うーんと唸ってひっくり返ってしまいました。これに慌てる主人と小僧でありましたが、幾代だけは顔色も変えず、こう言います。


「誰か、お医者を呼んでくんなまし。……藪はいけんせんよ」


 可哀想に小僧、遠くの医者を呼びに走らされることになりました。


 * * * * * *


 幾代が嫁いできたということで清蔵も何時までも米搗き屋の二階というわけには参りません。

 どこか無いかと探しましたところ両国に貸店舗が見つかりまして、ここは一つ商売でも始めようかとなりました。お世話になっておりましたのが搗き米屋ということで餅屋がいいでしょうとなりまして、屋号はどうする嫁御の源氏名がいいだろうなんて『幾代餅』と名付けました。

 吉原の花魁が下町の職人と一緒になって、それが餅屋を始めてなんてことになれば話題を集めぬわけがありません。助平な客などが大挙して押しかけてこんな意地悪を申します。


「いらっしゃいませ、何にしんすか?」

「幾代の餅肌、持ち帰りてぇんだが」

「確かにあちきは餅肌でありんすが、もう売り物ではありんせん。身も心も清さんのものでありんす」


 とまあこんな感じにあけすけな客あしらいをするものですから人気はうなぎのぼり。財を成し、子も三人成して幸せに暮らしたそうでございます。

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珍説・幾代餅 @toma5519

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