#05 清蔵、後朝の別れをする

 カラスカァと鳴いて夜が明けて、火鉢に清蔵が当たっておりますと、幾代が煙管に吸い付けましたものを寄越してまいります。

 真面目単純が服を着たような男と言われる清蔵でありますから煙管なんて趣味も無く、煙草なんて呑めませんし呑んだこともありません。それでも折角花魁が吸い付けてくれたのだからと力一杯に吸い込みますと、煙管の火皿で火球がぐらぐら揺れまして清蔵はゲホゲホとむせ、目の端からつつつっと涙が流れていきました。そんな涙を流しながら煙管を返しますと、花魁が一言こう申します。


「清さん、今度は何時来てくんなますか?」


 これはまあ社交辞令という奴でありまして、ああまたすぐ来るよ、なんて適当に答えておればよいものでありますが、真面目な男、そうは思いませんでした。


「……一年、先になるんだ」

「一年? それはまた、長うありんすが」

「一年、働かないと来れないんだ」


 清蔵は知らず知らずのうちにこの花魁に情が移っておりました。こんな男に身体を許し、夜中の遅くまで付き合ってくれたのですから当然でしょうか。先程出来た涙の跡を、新しい涙が伝っていきます。


「ぬしは野田の醤油問屋の若旦那ではありんせんか。どうして」

「違うんだ! 私が……オイラが醤油問屋の若旦那? そんな大層なモンじゃございません。

 ……花魁、ゴメンなさい。オイラ嘘を吐いていました。オイラは日本橋馬喰町の搗き米屋、六衛門さんとこの奉公人の清蔵でございます」


 吉原は嘘の街。その中に棲む花魁は、世の中で一番美しいものを見ておりました。人の真心というものでありました。


「ちょうど一年前、お使いの帰りに見かけた幾代太夫の錦絵に、もう頭の先から足の爪まで惚れちまって。いつか花魁に会うんだ、てなもんで、朝は誰よりも早く起きて夜は最後まで残って仕事をして

 搗き米屋のみんな、ぐっすり眠ってるんですよ。その夜中に、こう、井戸から汲んできた水で桶洗うんです。寝てる連中起こさないよう、静かにね。冬なんて指先が裂けたりなんかして……オイラ、ナニしてるんだろうってね。

 この一年で貯めた十三両と二分、昨夜で全部使っちまいました。だからまた一年、同じように働いて働いて働き抜かないとこの里には来れないのでございます。オイラ明日から、いえ今日からまた頑張ります。……一年後、もし忘れずに覚えていてくれたら、おい清蔵、なんて呼び捨ててやってください」


 清蔵はもう恥ずかしさに顔から火が出る思いでした。見栄を張って若旦那を演じることに決めたのに、最後の最後でご破算にしてしまったのです。垂れた洟をグズリと啜りあげながら、二つにしか折れない身体を三つにも四つにも折る気持ちで花魁に頭を下げておりました。


「……ぬしさん、頭を上げなんし」

「へえ、恥ずかしくてそんなこと出来ません」

「上げなんし」


 二度目の強い口調に男はハッと顔を上げました。貧乏人など、といよいよ叩き出されるのかと花魁を見ますと、菩薩様のような表情を浮かべております。


「ぬしさん、おカミさんはおあんなさんすか?」

「いえ、この顔で嫁御などなり手がありません」

「あちきは来年の三月に年季が明けんすによって、清さんのところへ行きんす。そしたら清さん、あちきを貰ってくんなますか?」


 初めて迎える朝で花魁がプロポーズするなど前代未聞のことでありますが、幾代は不思議と穏やかな気持ちでありました。真心に真心で返すのは当たり前。ましてや幾代はこの男に惚れているのです。この答えが口から出てくるのも当然でありました。

 呆然としている清蔵ではありましたがやがて落ち着きを取り戻しますと、断る理由もございません、きっとお迎えいたします、と返事をいたしました。


「嬉しゅうありんす。……禿や――」


 閨の外に控えておりました禿を呼び寄せますと何事か耳打ちをします。それが出て行きますと花魁、清蔵へ向き直りました。


「ぬしさん」

「へえ」

「ぬしさんはもう、この里へ来てはなりんせん」

「そりゃまたどうしてでございましょう」

「ほかのおなごへ目移りなどさせたくありんせん」


 幾代、初めての悋気でありました。

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