#03 清蔵、吉原へ繰り出す

 さて迎えました翌日、粋な着物に身を包んだ三十男と老医者が吉原の大門をくぐっていきます。清蔵はあと一刻もしないうちに夢にまで見た幾代太夫と出会えると、ホップステップ、ウキウキと飛び跳ねておりました。


「やめんかみっともない。お前さんの話は聞いてはおるがの、歳を考えなさい」

「へえ、へえっ!」

「それもやめんか」

「? それ、と申しますと?」

「へえ、と答えるのをじゃ」

「それならなんて答えればいいんで?」

「はい、と鷹揚に答えておればよいのじゃ。……よいか、本来ならお前のような一介の職人、太夫を遠くから眺めることさえ叶わん。そこでな、儂はお前さんを紹介する手紙に『野田の醤油問屋の若旦那』と書いておいた。じゃからお前は今宵、醤油問屋の若旦那なんじゃ」

「そういうことですか。へえ、分かりました」

「……お主、儂の言っておったこと聞いておったのか?」 


 清蔵と先生は座敷に上がり、そこの主人や女将となにやら談笑しておりますと、禿を引き連れた花魁がやってきました。幾代太夫です。

 その美しさはその場にいた者全てを惹きつけました。医者などは斜めに傾けた徳利がお猪口を満たしたのに気付かず、足元を濡らしてしまったほどです。

 清蔵はついに出会えた幾代太夫に、酔いなど吹き飛んでおりました。凛とした立ち姿、真珠を溶かしたような白い肌、唇に落とした鮮やかな紅。それらの装飾が整った顔を彩っているのですから美しくないはずがありません。しかもその美しさは彼が夢にまで見ていた幾代太夫の何倍も美しかったのです。


「幾代でありんす」

「へ……は、はい、清蔵でありんす」

「馬鹿者、お前がありんす言ってどうする。太夫、ワガママを済まないね。知り合いの醤油問屋の倅がね、お前さんの錦絵を見て一目惚れでな。一度会ってみたいと駄々をこねて――」


 老人が一通り経緯を話しますと花魁、口の端をちょっと持ち上げて笑んでみせます。この笑顔に清蔵などは更にやられてしまうのですが、それ以外のその場にいた全員が唖然といたしました。

 花魁というものは高嶺の花。簡単に男に媚びないのが廓のルールです。最初の座敷で笑顔を見せるなどとんでもないことでした。何度か座敷で逢瀬を重ね、それからやっと閨で男と女になるのが廓の決まりなのですが、幾代はこの客がいたく気に入りましたようで。


「ぬしさん、今夜はお帰りになる予定などありんすか?」

「はい、この座敷がお開きになりましたらオヤジさんとこ……いえ、ちょいと離れたところに宿を取っておりますので、そちらに戻ります」

「それならここに泊まりなんし」


 あまりに我儘が過ぎる太夫に揚屋の主人が強い視線で釘を刺します。花魁の中の花魁と謳われる彼女がこんな真似をしては後輩達に示しがつきません。そんな褥を用意出来るはずもないのです。花魁自身もそんなことは分かっています。

 吉原は嘘の街です。男達は廓の大門をくぐったら身分も世俗の縁も一切を捨てた振りをして女に酔うのです。そして酔わせる女は酔わせるだけの気品が無くてはならないのです。初めての逢瀬で身体を開く安い女ではいけません。

 それでも太夫はこの醤油問屋の若旦那と名乗る男に強く惹かれておりました。お金だけならお忍びでやってくる大名や上方の商人のほうが持っています。顔だけなら歌舞伎役者と比べたら月とすっぽんでしょう。それでも太夫はこの男が気になってなりませんでした。


「旦那さん」

「しかし花魁」

「何か言われることがあれば、あちきが責を負いんす」


 普段客の前では感情を表に出さない花魁が、こんなにムキになっているのを主人は初めて見ました。そして信じられないものを見つけたのです。

 それは恋に焦がれる乙女の瞳でした。男に媚びぬはずの花魁が、この若旦那に恋をしていたのです。


 慌てた主人は傾城屋に使いをやりました。『おたくのところの幾代太夫が大変なことになっている、早くなんとかしてほしい』といった具合でありました。

 泡を食って飛び出しましたのは傾城屋の主人。自分のところの一番人気が大変なことになったなんて聞かされてはそれも仕方がありません。息を荒くして揚屋に辿り着きますと詳しい訳を聞いて二度びっくり。太夫は錯乱してしまったのかと座敷の中を覗きこみますと、果たして幾代は閨の中でさえ見せぬ女の顔をしておりました。


「ぬしさん、飲みなんし」

「は、はい……おいしいです」

「フフ……ぬしさんは楽しいお方でありんす」


 幾代が安酒場の酌婦のように客に酒を注いでおります。そのうえ目などとろんと溶かしております。傾城屋はもう殆ど卒倒しかけましたがなんとか自分を取り戻し、座敷で気まずそうに固まっている禿をそっと呼び寄せました。


「おやじさん、いくよ姐さんがあんなになったのははじめてでありんす。どうすればいいでありんすか?」

「とりあえず幾代を呼んで来ておくれ。ああ着物を替えるとかなんとか言って引っ張ってくればいいんだ」

「はーい」


 清蔵にべったりの花魁に禿が耳打ちをしますと幾分目が醒めたようでありましたが、今度はなかなか離れようとしません。まさか無理矢理に引き剥がすような真似をお客の前でするわけにもいかず、禿は困ってしまいました。

 それを見ていた老医者、助け舟を出します。


「清蔵や」

「へい……はい、なんでしょう」

「厠へ行かぬか」

「オイラ……じゃなくて私なんかはまだ催しませんが」

「少しは気を遣わんか。……女というものは装いが崩れたら直さねばならんのじゃ」

「そういうものなのでしょうか」

「そういうものじゃよ。なあ花魁」

「あい、仰る通りでありんす。ありんすが……」

「というわけじゃから、済まぬが四半刻ほどこの場を離れることにしようか」


 こうして医者先生は清蔵を連れて座敷を出て行ってしまいました。襖が閉まった途端、花魁以外の全員が安堵の溜息をつきますが、今度は入れ代わりに傾城屋が座敷へ飛び込んできます。


「どういうことだ花魁、お前何をしているのか分かっているのか!」

「あちきが分かっておりんせんと?」

「当たり前だ! さっきの様子はなんだ、生娘みたいに目ン玉輝かせて。お前は花魁だぞ、男を好いてどうするんだ。気まぐれで周りに迷惑をかけるんじゃねぇ!」


 傾城屋が一気にそこまでまくしたてますと、禿などは震え上がります。傾城屋は遊女にとっては親と変わらぬ存在です。それが激怒すれば誰だって恐ろしいものですが、幾代は静かに言い返します。


「あちきは花魁でありんす。男の表も裏も見てきんした。そのあちきが男に一目で惚れる、その意味を考えなんし」


 花魁の一言に傾城屋は反論出来なくなりました。傾城屋は幾代が花魁であることを忘れ、乱心したのかと思っていたのです。花魁を忘れた花魁にこの吉原で生きていく術はありません。それを案じての説得も幾代からこう切り返されては通じるはずもありませんでした。

 傾城屋、がっくりうなだれて膝をつきます。


「……花魁。花魁はウチの稼ぎ頭だ。私なんかも随分いい思いをさせてもらったし、ある程度の我儘は聞かないといけないと思っている。それなのにお前は無茶を言わない。本当に女衒想いのいい子だよ」

「あちきは、あちきを拾ってくれた親爺さんに本当に感謝していんす」

「その子が傾城屋を飛び越えて、廓の決め事に楯突いているんだ。……親代わりの私にはこんなことくらいしか出来ないよ」


 そう言いますと傾城屋、揚屋の主人に閨の準備を促します。そして、今日の出来事を一切口外せぬようにとその場にいた者全員に言い含めたのでした。

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