第五節

 明け方近く、僕は発作を起こした。数時間に渡る激痛にのたうち回り、喉が潰れて声を出せなかった。

 痛い、助けて、もう死なせて。そればかりが言葉にならず渦巻いていた。

 ようやく痛みが遠のいた頃、駆けつけた母と医師が部屋を出ていった。母の泣く声が聞こえてくる。

 時計のない部屋で幾つかの機械に繋がれながら、昨日のことを思い出していた。

 あの時、僕はおみくじを何度も引き直したのだ。大凶だった僕の運命を、ほんの少しでも変えるために。

 そんなことで何が変わるわけでもないと分かっている。

 それでも、あの瞬間が頭から離れなかった。

 明日の今、僕は目の前の機械たちと同じ温度になっていないだろうか。

 頭に浮かぶのは、母や友達、幼い頃飼っていた猫、空気が抜けたサッカーボール、亡き父の形見の一眼レフ、破り捨てたノート。

 そして、毎日のように僕の傍にいた少女。

 笑った顔。悲しげな顔。窓の外を見つめる姿。病室を去る背中。

「屋上で言ったこと、謝ってなかったなぁ」

 嗄れた喉の痛みが僕を責め立てているようで、少しだけ心地よかった。

 病室の扉が開き、母と医師が僕の顔を覗き込んだ。

 母の目が赤く腫れ、何故か晴れやかな表情をしている。

「日向くん、よく頑張ったね。もう大丈夫だ」

 とりあえずは、ということだろう。

「明日からまた、病院の中を歩けますか?やりたいことがあって」

「いや、明日はゆっくり休んでいた方がいいよ。それより話があるんだ」

 医師は興奮を抑えきれない様子で僕の言葉を遮った。

 一週間後、市内の大学病院で僕と似た症状の少女の手術が行われる予定だったこと。

 その少女が昨日亡くなって手術のスケジュールに空きができ、代わりに受けられるということ。

 亡くなった少女は心臓移植を受ける予定だったこと。

 検査入院のために明後日転院する必要があること。

 するすると医師の口から飛び出す言葉の羅列は、僕にとって光明そのものだった。

 心臓移植なら助かるかもしれないという。

 あと半年も生きられないと告げられていたのに、何年でも生きられるかもしれないのだ。

 僕の心は浮ついていた。震えが身の内から湧き上がってくる。

 そうだ。嬉しくてたまらない。ただそれだけのはずだ。

 それだけのはずだったのに。

 どうしてこんなにも寂しいのだろうか。

「ねぇ、先生。明後日、転院する前に屋上へ行ってもいいですか?」

「屋上?あんまり時間はないけど、少しだけならいいよ」

 医師はほとんど聞き流すような答え方をした。

 もう既に関心は僕より手術の方に向けられているのだろう。

 何にせよ、これで屋上へ行くことができる。これまでのこと全てを朱季に謝ろう。

 母は仕事を早退してきたようで、今日は昼過ぎからの仕事までここに居ると言った。

 久々に母の顔をじっくりと見た。片親になってからは昼夜を問わず働き、この1年で随分と老け込んだ気がする。

 もう大丈夫だから休んだ方がいいと促したものの、母は僕から離れようとしなかった。

 思い返せば母には心配をかけ続けてきた。

 これからは僕が助けにならなければと、そう心に誓った。


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