第二節
翌日は雲ひとつない晴天となった。
昼食を終えて退屈な病室を抜け出し屋上へと向かう。
以前は階段を昇っていたが、胸につけた機械が心電図の乱れを感知すると看護師が駆けつけてくる。屋上へ行くのを邪魔されたくない僕は、仕方なくエレベーターを使っていた。
広い屋上はベンチや花壇で区切られており、人気の少ない西側が僕のお気に入りの場所だ。
柵に身体を預けて呼吸を整え、緑の混じる街並みを眺めた。
市内では比較的高い建物で、高台の上に建っている。市内全域を一望できるうえに遠くには海まで見えるのだ。
半月超の入院生活で病院の中は飽き飽きしている。だが、屋上から見える景色だけは不思議といつまでも見ていられた。
後ろからエレベーターの停止音が聞こえ、続けて女性の感嘆の声が響いた。
振り返ると、車椅子に乗った少女がいた。見覚えのない顔だ。別の病棟に入院しているのだろう。すぐに興味を失い街並みに視線を戻す。
少女は目に入ったものひとつひとつに感動していた。
山の上の風車、ゴルフ場の丘、一際高い鉄塔。まるで言葉で絵を描くかのように風景をなぞっていく。
僕は不快感に顔を歪めた。この屋上から見える景色について、誰の意見も聞きたくなかった。
ここは僕だけの世界にしておきたかったのだ。誰かの定めたものではなく、僕が自分自身で見つけるから意味があった。
そんな僕の心情を知る由もない少女は、楽しげに僕に話しかけてきた。
「こんにちは。屋上の王様って君のこと?」
「はぁ?なにそれ」
僕は少女を一瞥した。屈託のない笑顔を浮かべた、色白の少女だ。
「噂になってるよ?雨でも屋上にいる男の子の話」
そんなものは初耳だ。もっとも聞きたいとも思わなかったが。
少女は何度も声をかけてきた。次第に苛立ちが募っていく。
「あのさ、静かにしてくれないかな」
限界に達した僕は少女の言葉を遮った。途端に少女の顔から笑みが消える。
「そうやって明るく話せるような心境じゃないんだよ僕は。君がなんで入院してるのかは知らないけど、随分とお気楽みたいだね。羨ましいよ」
そう言って少女に目を向ける。少女は両足に金具のようなものをつけていた。
「その足は何?病気とか?」
「あ、えっと、階段から落ちちゃって両足を骨折したの」
少女は目を伏せながら恥ずかしそうに笑って答えた。
「へぇ。災難だね」
僕は鼻を鳴らして柵の外へ向き直った。
「治るものなら幸せでしょ。難病を患った人間の気持ちなんて君にはわからないかもしれないけどさ」
少女の反応を待たずエレベーターに向かう。
すれ違ったとき俯いた少女は何か呟いていたが、僕は気にも留めなかった。
廊下を歩きながら、先程の少女の言動を思い返す。
少女がどんな生き方をしてきたのか。どんな夢を持っているのか。そんなことには興味もない。
きっと半月前の僕と同じように、努力次第でどんな夢でも叶えられると信じているのだろう。
僕にも夢があった。写真家になりたかった。どのカメラにしようか、どんな風景を撮ろうかと想像を膨らませるのがどれだけ楽しかったか。
次第に早足になり、呼吸が乱れる。
病室に着き、棚から一冊のノートを取り出した。
一眼レフの機能や写真の撮り方について細かく纏めた、僕の宝物。
写真家になりたいと思ったきっかけは父の影響だ。
外出する時には必ず一眼レフを車に積み、暇さえあれば写真を撮る人だった。
去年の3月、父は突然死んだ。
橋の上から川に入水自殺しようとしていた男が怖気づいて車道に飛び出したそうだ。
父は男を避けて車ごと橋から転落し、車内から遺体となって発見された。
形見の一眼レフに誓ったのだ。代わりに写真を撮り続けると。なのに、僕はもう永くは生きられない。
やるせなかった。情けなかった。どれだけ固く誓ったところで、死んでしまえば意味など持たない。
開いたノートを両手で持ち、真ん中から引き裂いた。
やり場のない怒りに任せ、不規則な紙片へと変えていく。
引き出しの中に残ったカメラのパンフレットも引っ張り出し、ひとつ残らず破り捨てた。
こんなものがなければ。最初から存在を知りもしなければ。夢が叶わない苦しさなど味わうこともなかったのだ。
荒い呼吸が落ち着いた頃には、ベッドと床に宝物の残骸が散乱していた。
呆然と立ち尽くす。不思議と涙は出てこなかった。
どのくらいの間そうしていただろうか。震える手で欠片を集め、小さなごみ箱に詰め込む。
指先に鋭い痛みを感じた。血が滲んでいる。紙で切れたのだろう。
この痛みはいつまで感じられるのだろうか。疎ましかっただけの感覚を、こんなにも失いたくないと願う日が来るとは夢にも思わなかった。
自嘲気味な笑みを浮かべ、ベッドに潜り込む。
酷く疲れた僕は、深い眠りの底へと落ちていった。
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