思いつき
「ただいま、ウィル」
そっと下宿先の扉を開けると、部屋の奥にテーブルに突っ伏して眠っているウィリアムの姿が認められる。彼は羽ペンを持つ手を机の上で伸ばし、無数の紙を下敷きにしながら寝息をたてている。
その姿がなんだか微笑ましくて、エドマンドはウィルアムのもとへと赴いていた。そっと彼の背中にふれると、ウィリアムは小さく唸る。
「こんなところで寝てたら、風邪ひいちゃうよ……。ウィル」
話しかけても彼は応えない。ただ寝言でスザンナと彼は娘の名前を唱える。その言葉にエドマンドは固まっていた。
「やっぱり俺は、あなたの家族の代わり?」
問いただしても彼は応えてはくれない。エドマンドはため息をついて、そんな彼が風邪をひかないようにと寝台枠へ毛布を取りに行く。そっと毛布をウィリアムにかける。すると、眠っているはずの彼が、腕を握りしめてきた。
「どこに行っていた? エドマンド……」
開かれた彼の眼が剣呑な色を帯びる。エドマンドは身を固くしながらも、口を開いていていた。
「リチャード兄ちゃんが家に来たの分からなかった? スザンナの歓迎会のためにみんなでマーメイド亭に行ってただけだよ」
「ああ、そういえばリチャード来てたよな」
「やっぱり無視してた」
「すまない。一人になりたかったんだ」
そっとエドマンドの腕を放し、ウィリアムは髪をがしがしと掻く。その様子が何だか微笑ましくてエドマンドは小さく笑っていた。
「で、書けたの? 最高傑作は」
「ああ、書けたよ」
エドマンドの言葉に、ウィリアムは得意げに微笑んでみせる。彼はテーブルに乗っている蝋燭の炎を灯し、不敵に微笑んでみせた。
「どうぞお読みになって下さい。私のミューズ」
テーブルに散らばった紙の束をかき集め、ウィリアムはエドマンドにそれを渡す。エドマンドはその紙を蝋燭に近づけ、眼を通した。
「もういらっしゃるの? まだ夜明けには間がありますわ。あれはナイチンゲール、雲雀ではありませんわ……」
紙に書かれた台詞を、エドマンドは読む。そこに綴られたのは、愛しいロミオと一夜を共にしたジュリエットの気持ちだ。ジュリエットの従兄であるティボルトを殺してしまったロミオは、ヴェローナの街を追放されてしまう。従兄を殺されロミオを憎むジュリエットだが、その気持ちによって彼への愛が消えることはなかった。
「朝が来ても、ずっと側にいたいんだね」
「早く行けば助かるが、とどまれば命がない」
そっと紙をなで言葉を紡ぐエドマンドに、ウィリアムが応える。彼はそっと立ちあがり、エドマンドをその腕に抱いた。
「捕えられて殺されてもかまわない。僕は満足だ、あなたの望みなら」
「ジュリエットがそう望むのなら、ずっと側にいたいってロミオは思うんだ」
ウィリアムが紡いだのは、ロミオの気持ちを綴った台詞だ。そっと紙を胸に抱き、エドマンドは言葉を紡ぐ。
「あなたの気持ちは、ロミオと一緒? ウィリアム」
「君の気持はジュリエットと一緒かい? エドマンド」
彼の眼がエドマンドを捉える。蝋燭の明かりを受けて輝くその眼から、エドマンドは視線を逸らすことが出来なかった。
「俺の気持ちは、ジュリエットと共に」
「では、私も同じだよ」
彼の額がエドマンドのそれと重ねられる。エドマンドはそっと眼を瞑り、ウィリアムを抱きしめていた。
「俺たちこのままどうなっちゃうのかな? 恐いよ、ウィル」
「大丈夫だ。私は、何があってもお前を放さない……。放してなるものか……。それにね、とても素敵なお客さんがうカーテン座の公演には来てくれることになった。きっと何とかなる」
「旗小屋の公演もできなくなって、バーべリッチさんが買ったブラックフライヤーズの屋内劇場は住民の反対のせいで使えない。そのせいで、バーべリッチさんと劇団は借金までしたのに……。シアター座まで盗られたら俺たち……」
「大丈夫、きっと神は私たちを救ってくださる。これは、神が私たちに与えた試練なんだよ、エドマンド」
「その試練は、いつ終わるの?」
エドマンドの不安げな眼差しがウィリアムへと向けられる。ウィリアムは優しく微笑み、言葉を続けた。
「実のところ、みんなで新しい土地を買ってシアター座を移動させようって話が出てるんだが、シアター座をどう分解して運び出すのかみんな頭を悩ませててね。ここがクリアできれば、私たちはあのジャイルズを出し抜けるんだが……」
「そんなお金、どこにあるのっ?」
「スザンナも私を呼び戻しに来たことだし、妻に頭を下げて実家の土地を売ってもらおうと――」
「ウィル、財産だったらあるじゃない!」
ウィリアムの言葉をエドマンドが遮る。エドマンドはウィリアムから離れ、いつも座っている椅子型のチェストから、煌びやかな女物の衣装を取り出していく。
絹の靴下に、硝子ビーズが散りばめられたサテンの前あて。絹で織られた白のガウン。
すべて、少年俳優エドマンドを崇拝する紳士や貴族たちからの贈り物だ。これらの衣装をエドマンドは劇で着たこともある。
衣服はその存在そのものが高い存在価値を持つ。子供たちへの財産として、持っている金を衣服に変える者もいるぐらいなのだ。
「その、劇団の衣装も何着か抵当に入れてみんなで金出し合えば何とかなるよ。ううん、何とかしよう!」
「エドマンド、お前はやっぱり私のミューズだっ!」
「ちょっとウィルっ!」
ウィリアムがエドマンドを横抱きに、体を回してみせる。エドマンドは驚きのあまり素っ頓狂な声をあげていた。
「凄いぞ、エドマンド。これで、シアター座を解体させて移動さえできれば私たちの勝ちだ。だが、はてさてどうしたものか……」
「なんかさ、動かすにしても途中で絶対に妨害とかされるし、私有地に入ったって裁判も起こされそうじゃん。地方でまだ祭りのときに使われてる山車とか使えたらいいよね。みんなで楽しくお芝居しながら新しい土地まで移動して……」
「移動……ケンプ……。そうか、その手があったかっ!!」
ウィリアムが笑いながら声をあげる。狂ったように笑う彼を見て、エドマンドは思わず声をあげていた。
「ちょ、ウィル。どうしたのっ!?」
「エドマンドっ! ケンプのお陰で引っ越しができるぞ! 道化役者ケンプの世界一周旅行の始まりだ!!」
藁の香りを嗅ぎながら、寝台枠の中でスザンナは考える。エドマンドの握ってくれた手が熱くて、スザンナは甘いため息を吐いていた。
ロミオとして舞台に立ってから、エドマンドのことが頭から離れない。自分とそっくりな少年にときめきを覚えるなんてどうかしていると思いつつも、スザンナはエドマンドの唇の感触を思い出していた。そっと唇に指を這わせて、スザンナはうっとりと眼を細める。
初めてのキスは、とても優しい感触がした。エドマンドの眼差しはじっと自分を捉えて離さず、ただスザンナだけに向けられていた。
けれど、その視線の先にいるのは自分ではなく、父であるウィリアム・シェイクスピアだ。彼が孤児であったエドマンドを救い、役者としてのエドマンド・シェイクスピアへと育てた。
エドマンドの視線の先にはいつも父の姿がある。それなのに、どうして彼は自分にこんなにも優しいのだろうか。
「ハムネット。私はここに来てよかったのかな」
腕に括り付けた弟の遺髪が入った財布に語りかけてみせる。思えば、この財布がエドマンドとの縁を築いてくれた。亡くなったハムネットが彼と自分を結びつけてくれたのだ。
「エドマンド……」
「呼んだっ!?」
スザンナの言葉をエドマンドの明るい声が遮る。スザンナは驚き顔をあげた。
にこやかな笑顔を浮かべるエドマンドが、寝台枠から自分のことを覗き込んでいる。
「エ……エドマンドっ!?」
「スザンナ、今すぐ起きて! みんなで作戦会議だ! ケンプさんのジグダンスが俺たちを救ってくれる」
驚くスザンナに、エドマンドは嬉しそうに言葉を弾ませ言った。
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