マーメイド亭

 マーメイド亭。フライデー・ストリートにあるこの居酒屋には、今話題の劇作家や役者たちが集うことで有名だ。そんな居酒屋の一角でスザンナこと雑用係クロスの歓迎会がおこなわれていた。執筆に夢中になってる父はおらず、エールやグリーンワインを革製のゴブレットで飲む男たちが、スザンナの入団を祝って歓声をあげる。

 その中心にスザンナは、牛乳の入ったピューターのグラスを手に持ち、みんなに微笑みかけてみせた。

「いやー、紅一点のエドマンドとそっくりなのが来た時には驚いたよっ!」

「双子じゃないのか!? こいつら」

 和気あいあいと自分たちのテーブルにつき酒を飲みかわす男たち。誰もかれもがスザンナのことを話題に持ち上げ、お互いに笑ってみせる。

「畜生! ジャイルズの奴! 足元みやがって」

 そんな雰囲気をぶち壊すように、リチャードがエールの入ったピューター製のグラスをテーブルに叩きつける。驚いた面々はぎょっと眼を見開き、そんなリチャードを見た。

「リチャード坊ちゃん。飲みすぎですよ」

「ヘミングス……すまない」

「あれは、あなたのせいじゃありません」

 ぎゅっとリチャードの肩を抱き、ヘミングスが彼を慰める。リチャードは今にも泣きそうな顔を俯かせ、言葉を続けた。

「土地の契約を更新したければ家の少年俳優を一晩貸せ? そんなもん承知できるかよ。自分の家に少年劇団でも呼べばいいだろうがっ」

「それは丁重にお断りしたでしょう。もう、その話は辞めましょう」

「ヘミングス、でも……」

「少し飲みすぎですよ……。外に行きましょうか」

 ヘミングスがリチャードの肩を支え店の外へと出ていく。その様子を、スザンナは唖然と見つめていた。ジャイルズとの話し合いを終えた二人は、わざわざ父の下宿先まで出向いて自分とエドマンドをこのマーメイド亭まで連れてきてくれたのだ。

 いつもにこやかな彼が、感情を露わにして怒っている。その姿にスザンナは驚きを隠せなかった。

「あー、お酒弱いのに飲んじゃって……」

 スザンナの隣でエールを呑むエドマンドがぼやく。ほんのりと頬を赤らめた彼の眼は、外へと出ていく二人へと向けられていた。

「あのおっさんのセクハラ発言でも食らったかな……? ジャイルズのおっさんて本当に気持ち悪いしな。俺なんか、前に絡まれて誘拐されそうになったこともあるし……」

「誘拐っ!?」

「ウィルが助けてくれなかったら今頃あのおっさんの慰み者。それからは一人で出歩けなくなって本当に毎日が窮屈だよ」

 エールの入った木製の革製のジョッキをテーブルに置き、エドマンドはトレンチャーに乗ったミンスパイを頬張る。

「うーん、チーズ入りのミンスパイって上手い……」

 うっとりと顔を綻ばせながら、エドマンドは拳ほどの大きさのミンスパイを頬張っていく。幸せそうに細められた彼の眼が、ふっと寂しげに細められる。

「ケンプの旦那もね、本当は宮内大臣一座を辞めるはずだったんだ」

「ケンプさんが……」

 自分をここまで導いてくれたケンプが劇団を辞める。その話を聴いて、スザンナは心なしかショックを受けていた。

「もしかして、お父さんと上手くいってないとか?」

 ――けれど、少し回りを顧みなさすぎる……。

 ロンドンに着たその日、ケンプが自分に言った言葉を思い出してしまう。そっとスザンナはベルトに通した財布を優しくなでていた。先ほどの父の執筆の様子を見ていても明らかなように、父は周りを顧みない部分があるらしい。それがケンプとの確執に繋がっているのではないだろうか。

「いや、ウィルは関係ないあの人は――」

 エドマンドの声を遮るように、軽快な音楽がマーメイド亭に響き渡る。その音楽に応えるように店の奥から道化姿のケンプが姿を現した。

 衣服についた飾り鈴を軽快にならしながら、ケンプはリュートやバグパイプの軽妙な音楽に合わせ、店の中央に置かれたテーブルへと駆けのぼっていく。

 軽い身のこなしで彼はテンポのいいステップを振り、体を回して見せるのだ。

「これ、ジグ踊り?」

「うん、ケンプさんジグ踊りをしながら世界中回るのが夢なんだってさ。その資金稼ぎのために道化をやってたらしいんだ。でも、劇団がこんなありさまだろ。抜けるに、抜けられないって。スザンナのことといいさ、あの人の性分なんだろうな……」

 楽しげにジグを踊るケンプを眺めながら、エドマンドは憂鬱そうに言葉を吐き出す。

 スザンナはケンプに想いを馳せていた。地方巡業の劇団員を説得して、自分をここまで連れてきたケンプ。そんな彼が自分の夢すら我慢して劇団のために踏ん張っているのだ。

「私にも、何かできればいいのに……」

 思いを口にする。するとそっと自分の手を握りしめてくれる者がいた。驚いて、スザンナは隣にいるエドマンドを見つめる。

「スザンナは役に立ってるよ」

 小さくエドマンドが言葉を返してくれる。スザンナは大きく眼を見開いていた。

「だから、気を落とすことないから……」

 エドマンドがスザンナに振り返り微笑んでくれる。その優しげな微笑みから、スザンナは眼を逸らすことが出来なかった。


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