気持ち

 楽屋裏の大道具の裏で、スザンナは隠れるようにして息をひそめていた。まだ心臓が早鐘を打っている。エドマンドのことが頭から離れてくれず、彼を思い出すたびに切なげな吐息が自分の喉から上がるのだ。

「エドマンド……」

 指先を自分の唇に這わせる。彼の柔らかな唇の感触を思い出して、スザンナは陶然と眼を細めていた。

 初めての口づけだった。作り物のお芝居の中で、まさか本当の口づけをすることになるなんて思いもしなかった。

 それに。

「エドマンド、優しかった……」

 ぎゅっと自身を抱きしめ、スザンナは眼を瞑る。

 ――俺だけ見てればいい。だから、大丈夫だ。

 優しく囁く彼の声が耳朶に轟いて、体を強く抱きしめてしまう。あんな風にエドマンドは父にも言葉をかけているのだろうか。

 自分の知らない、二人きりのときに。

「エドマンド……」

 甘い吐息を吐いて、スザンナは彼の名前を口にする。脳裏にジュリエットを演じるエドマンドの姿がちらついて、スザンナは眼を瞑っていた。

――見ることで好きになれるのなら、見て好きになりましょう。でも、この目が放つ視線の矢は、あまり深くは刺さりません。弓を引くのはお母さまだから、それより遠くには飛びません……。

 望まぬ結婚への想いを吐露したジュリエットの台詞。その台詞を紡ぐエドマンドの悲しげな眼からスザンナは視線を逸らすことができなかった。

 彼に捕らわれてもいいと思ってしまった。あの美しい少年を純粋に想えたら、どんなに幸福だろう。父のように彼を愛することが出来たら。

「駄目よ。そんなの……」

 ただ彼はジュリエットになりきって、スザンナと口づけをしたに過ぎない。そこにあるのは偽りの感情だけのはずだ。

 けれど、この体の火照りはなんだろう。まるで、ジュリエットに恋したロミオのようにスザンナの心の中はエドマンドで満たされていた。

 なんなのだろう。これは。彼への愛おしさを募らせるこの感情は。

「スザンナ」

 エドマンドの声がして、スザンナはびくりと体を震わせる。カートルの裾をなびかせながら、エドマンドが自分の側へと駆け寄ってきた。彼は膝をつき、スザンナの顔を覗き込む。

「その、大丈夫?」

 彼の言葉にスザンナは顔を逸らす。彼の顔が近いだけで呼吸が荒くなる。唇にエドマンドの感触が広がり、息が苦しくなってしまう。

「あっちに、いって……」

 切ない声が口から漏れてしまう。肩で息をしながら、スザンナは心臓が早鐘を打つのを感じていた。胸の高鳴りがまだ収まってくれない。

 芝居の稽古を手伝っただけでこんな風になってしまうのだ。舞台に上がるエドマンドを観たら、自分はどうなってしまうのだろうか。考えるだけでおかしくなってしまいそうだ。

「その、突然稽古中にいなくなっちゃうからびっくりして……。俺、へんなことしちゃった……?」

 エドマンドの言葉にスザンナは体を震わせていた。彼の吐息が頬にかかるだけで、体が反応してしまう。

 口づけをしてから、エドマンドの側にいると体がおかしくなる。それが嫌で、稽古中にもかかわらずエドマンドを突き放してこの楽屋に逃げ込んでしまった。彼に自分の異変を知られたくなかった。

「ごめん……。その、凄く……緊張しちゃって……。みんな、怒ってない……?」

「大丈夫だよ。俺こそ、無理させちゃってごめん……」

 エドマンドが優しく頭をなでてくれる。びくりとスザンナは体を震わせ、潤んだ眼を彼に向けていた。

「スザンナ……」

 エドマンドもまた自分を見つめてくる。彼の細い指がそっとスザンナに差し伸べられ、唇へと押しあてられていた。頬を赤らめながら、彼は言葉を紡ぐ。

「では私の唇には、あなたから受けた罪があるのね」

 紡がれるのはジュリエットの言葉。あの芝居の続きの台詞だ。エドマンドは甘い吐息を吐いて、そっとスザンナから視線を逸らす。そんな彼を見て、スザンナは心臓が高鳴るのを感じていた。

 スザンナの指がエドマンドの唇へと伸びる。小さく吐息を吐いて、はスザンナは言葉を紡いでいた。

「この唇から罪が? なんというやさしいおとがめ。その罪を返してください……」

 それは、言えなかったロミオの台詞。その言葉を聞いて、エドマンドは自分の唇からスザンナの指を離していた。スザンナの手の甲に唇を落として、彼は顔をあげる。

 エドマンドの顔がスザンナに迫る。スザンナが眼を瞑った瞬間、額に柔らかなあ感触が広がる。眼を開けると、エドマンドの顔が離れていくのが分かった。

「初めて、だったの……?」

 そっと頬に手を添え、エドマンドが訪ねてくる。その言葉にスザンナは頬が熱くなるのを感じていた。何も言えなくなってスザンナは俯く。

「無理しなくていいんだよ。その、キスなんてあいさつ代わりなんだしさ。気にすることない」

「違う……」

 エドマンドの言葉に、スザンナは小さく返す。

「え……」

「あれは、あのキスは……」

 エドマンドと交わしたキスは、挨拶なのではない。恋人同士の愛の証だ。ロミオとジュリエットの愛し合う心が生み出した行為。お芝居とはわかっていても、スザンナはエドマンドとのキスがあいさつ程度のものとは思えなかった。

 あの口づけを交わした瞬間、どこか深いところで彼と繋がっているような気がした。彼と、芝居を通じて心と心が通じ合ったような、そんな感覚をスザンナは覚えたのだ。

「あのキスは……なに?」

 エドマンドの潤んだ眼がスザンナを捉える。大きく眼を見開いて、スザンナは自分の唇に指を這わせていた。

「あのキスは……その」

「スザンナにとって俺とのキスは、なんなの……?」

 彼の両手がスザンナの頬に添えられる。エドマンドの吐息が顔にかかって、スザンナは小さく体を震わせていた。

「あのキスは……」

「おお、こんなところにいたのかスザンナ、エドマンド」

 スザンナが唇を開いたその瞬間、明るいケンプの声があたりに響き渡った。エドマンドが待の凄い速さでスザンナから距離をとる。

「あ、ケンプさん……スザンナ見つかったよ」

「その……急に跳びだしちゃってごめんなさい……」

 ケンプの顔を見つめ、二人はぎこちない笑みを浮かべてみせる。そんな二人にケンプは笑いかけ、言葉を続けた。

「大丈夫、稽古だったら、お前たちがいなくても中止になっていたよ」

「え」

「ウィリアムがな、また脚本を書き替えたいと言い出してな、その……」

 ケンプがぎこちなく顔を逸らす。

「またかよっ! あのおっさん」

 そんなケンプの言葉に、エドマンドは大声を張り上げていた。

「エドマンドっ?」

「饗宴局の検閲だってあるのに、何考えてるんだよ……。もう、俺たち終わり……。公演も間に合わない」

 両手で顔を覆い、エドマンドは唸り声をあげてみせる。

 ロンドンの劇場では日替わりで様々な演目が上演される。そんな中で、新作の芝居にかけられる準備時間はせいぜい三週間ほどだという。そんな中での台本の書き直し。エドマンドが苦悩するのもスザンナにはわかる気がした。

「その、お父さんなん、でそんな……」

 父は、自分の台本に不満な部分があったのだろうか。気になってスザンナはケンプに尋ねていた。ケンプは苦笑しながら言葉を紡ぐ。

「ウィリアムは今回のロミオとジュリエットをいたく気に入ってるんだがな、そのムラムラしてしまったらしい」

「ムラムラ……」

「その……初夜の場面をエドマンドの芝居を観て思いつき、興奮したそうだ。だから、台本を修正したいと」

「ひい……」

 エドマンドが自身の体を抱いて、悲鳴をあげる。スザンナはそんなエドマンドに顔を向けていた。

「俺の芝居観て欲情するのはいい加減やめろって、言ってるのに……」

 がっくりと項垂れながら、エドマンドは泣きそうな声を発してみせる。そんな彼に、スザンナは声をかけていた。

「欲情って……」

 たしかにエドマンドのジュリエットは魅力的だ。スザンナも思わずその色香に酔いそうになった。

「あの人、俺の芝居観てインスピレーションを思いつくんだ。だから俺はミューズなんだって……」

 泣きそうな顔をスザンナに向け、エドマンドは言葉を返す。彼は潤んだ眼を拭い、よろよろと立ちあがった。

「家に帰らなきゃ。ウィルが準備して待ってる……」

「え、もう帰るの?」

「台本がないんじゃ稽古もできないし、肝心のウィルがたぶん家に引きこもって台本を書き直す準備をしてるだろうから。ここのところの疫病騒ぎで、公演もしばらく休みだしな」

 あきらめたようにエドマンドは苦笑してみせる。彼は悲しげに顔を歪め、スザンナを抱きしめてきた。

「スザンナっ! 俺、ちゃんと男らしいよね。男にしか見えないよねっ!」

「ごめん、女の子にしか見えない」

 そっと顔を逸らし、スザンナは顔を赤らめてみせる。スザンナは女装したエドマンドの姿しか見たことがない。それに女形をやっているせいか、エドマンドの仕草は少年のそれというよりかは、女の子のそれに近いものがあるのだ。

 それに、悲しげなジュリエットの眼差しをスザンナは忘れることが出来ない。あんな眼差しをする人物が、少年だと思えるだろうか。

「えっ! 俺、男なのに……」

 スザンナの言葉にエドマンドは項垂れる。

「まあ、エドマンドはエドマンドだからなっ!」

 そんなエドマンドの肩に手を置き、ケンプは豪快に笑った。

「いいよね、ケンプさんは正真正銘道化にしか見えないからっ!」

 涙に濡れた眼でケンプを睨みつけ、エドマンドは吠えた。そんなエドマンドに笑い声を返しながら、ケンプは言葉を続ける。

「お前もでかくなれは、男になれるよ」

「俺は男だからっ!」

「エドマンドって本当に男の子なのっ?」

「裸見たでしょっ?」

 エドマンドの言葉に、スザンナは思わず反応してしまう。そんなスザンナにエドマンドは怒鳴り返していた。

「お前たち、何やってるんだ?」

 ケンプの声が低くなる。彼はぎゅっとエドマンドの肩に置いた手に力を籠め、言葉を続けた。

「ちょっとエドマンド。話を聴かせてもらえないか?」

「たしかにスザンナに裸は見せたけど、俺、何もしてないからっ」

「なんで見せる必要があるんだっ!?」

 ケンプの絶叫が楽屋に響き渡る。

「おい、どうしたんだっ!」

 何事かと、楽屋の扉から声をかけてくるのもがあった。びくりと三人は肩を震わせ、そちらへと顔を向ける。

 父のウィリアムが不思議そうにこちらを見つめていた。彼は楽屋に入るなり、スザンナのもとへと歩み寄ってくる。

「あ、お父さん……」

「急にいなくなって心配したぞ。ジャイルズに攫われたかと思った」

 ぎゅっと父が自分を抱きしめてくれる。なんだか申し訳なくなって、スザンナはごめんなさいと父を抱きしめ返していた。

「初めてのお芝居で、緊張しちゃって……」

 そう言いながらも、スザンナはエドマンドのことを考えていた。エドマンドの眼差しが、唇の柔らかさが脳裏をちらついて離れてくれない。ほうっと甘い息を吐いて、スザンナは父を放していた。

「ごめんなさい。大切なお仕事なのに邪魔ばっかりして」

 本当に自分は何をしにここに来たのだろう。残りたいとわがままを言ったのだから、最低限迷惑はかけないつもりだったのに。しゅんと項垂れるスザンナの頭を、父が優しくなでてくれる。スザンナは顔をあげ、じっとそんな父を見つめた。

 帰れと言われたらどうしよう。それとも、エドマンドの遺髪だけを託して、帰った方がいいのかもしれない。

「いや、スザンナいいんだよ……」

 父が自分の顔を覗き込んでくる。困惑するスザンナにウィリアムは微笑んでみせた。彼はスザンナの頭をなで、言葉を続ける。

「その、エドマンドと一緒に、私の創作を手伝ってくれないか?」

「えっ?」

「初夜を迎えたロミオとジュリエットの気持ちが、どうしてもわからないんだ」




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