サザック聖堂にて

 クロスが生まれたのは、ロンドンでも貧しいものが集まるホワイトフライヤーズ地区だった。ホワイトフライヤーズは、犯罪者たちが隠れ住むことからアルセイシャとも呼ばれる貧困の蔓延する場所だ。エドマンドの母は物乞いをして生計をたてていたこともある。父親は誰かわからない。ただ一つはっきりと覚えているのは、母の右耳には浮浪者であることを罰せられた大きな穴が開いていたことだ。その耳を見つめながら、母の腕に抱かれたクロスは育っていった。

 母は昼間は酒場の給仕係として働き、夜は男の相手をしてクロスを育てた。住んでいる部屋の寝台枠で寝ることが出来ず、クロスはいつも酒場の馬小屋で一夜を明かしたものだ。

 そして、疫病が流行る。不衛生なアルセイシャでは瞬く間に死者が増大し、多くの家が感染者をださないために封鎖された。その封鎖された建物の一つに、クロスの暮らした酒屋があった。感染者たちと共にクロスは何ヵ月ものあいだ酒場の建物に閉じ込められていたのだ。

 封鎖が解かれたときに生き残っていたのは、クロスだけ。どうしてこの子だけが無事なのかと人々は訝しみ、クロスを悪魔の子だと噂するものさえいた。

 誰もクロスを引き取りたがらない。孤児になったクロスは、生きるために何でもした。そして彼は、盗みに入った旗小屋でそれを見たのだ。

 演劇。

 冬の寒い日に、彼はその奇跡を目撃する。見た瞬間、衝撃を受けた。ただ着飾った人々が舞台にあがっているだけなのに、そこにあたかも別の世界が広がっている感覚をクロスは覚えたのだ。

 役者の流す偽りの涙が、クロスの中で本物の涙になり、役者の話す虚構の台詞に胸を抉られる。パンを盗むことも忘れて、クロスは観客たちと共に夢中になって演劇を鑑賞していた。そのあとで、旗小屋の主人に鞭打たれることになるとも知らずに。

 判事に突き出されそうになったクロスを助けてくれたのは、黒い眼を持つ紳士だった。

 彼はクロスを自分の客だといい、あの芝居を書いたのは自分だといった。

そしてクロスに言ったのだ。

「君もこの世界に来ないか」と。




 夜のロンドン橋の入り口に、一組の少年たちがいた。外套を羽織った彼らは、ロンドン橋を渡っていく。ロンドン橋の上に建てられた商店は静まり返り、月光だけが少年たちの長い影を橋の石畳に落とし込んでいた。

「ねえ、あれ、みんな喜んで見てるの?」

「表向きはそうでもしないと、カトリックだと思われるかもしれないからな」

 少年の一人であるスザンナが口を開く。彼女の手を握っていたエドマンドは、淡々とした口調でスザンナに返していた。

 スザンナは橋の入り口に掲げられていた生首を思い出す。女王を侮辱したカトリックたちのなれの果てだというその生首を見て、スザンナはショックを受けていた。

 下手をすると、カトリックへの信仰を捨てていない父もああなる可能性があるのだ。考えるだけで、暗澹とした気持ちになる。

 橋を渡り切り、海軍一座が拠点とするローズ座が見える場所へとやって来た二人は、この地区にある大聖堂へと向かっていた。

 そのサザック大聖堂に本物のエドマンド・シェイクスピアはいると彼はいうのだ。聖堂に辿り着いたエドマンドは、壁に囲まれた墓所へとスザンナを誘っていく。大きな墓所の一角に小さな墓石が建てられていた。

 エドマンドはそっとその墓石をなぞり、微笑んでみせる。驚くスザンナに顔を向け、彼は弱々しく微笑んでみせた。

「彼が本物のエドマンド・シェイクスピア。俺とウィルが出会う前に、疫病で死んだんだって」

「それって……」

「俺はエドマンドの代わり。あの人は、俺をミューズだって言ってくれる。君は創作の女神だって。俺はウィルの妻にそっくりなんだって。スザンナを見たときは、本当に俺そっくりでびっくりしたよ」

 彼の言葉にスザンナは何も言い返すことが出来なかった。それが本当なら、父はエドマンドを愛する母の身代わりにしているということになる。

「父さんは……その」

「ウィルとは何もないよ。何もない。俺にとって彼は、ただの恩人だ。それ以上でも以下でもない。そうでなきゃいけない」

 ぎゅっと服の胸元を握りしめ、エドマンドは顔を俯かせる。

「でも、俺はウィルの側を離れられない……。俺にはウィルが、ウィリアム・シェイクスピアが必要なんだ……」

 彼の眼がかすかに潤んでいる。彼は顔をあげ、スザンナに言葉をはっしていた。

「だからお願いだ。俺から、ウィルをとらないで……」

「お父さんを連れ帰るなってこと?」

 スザンナの言葉に、エドマンドの顔が歪む。彼はスザンナを抱きしめ、泣きそうな声をはっしてみせる。

「帰ってもいいっ! ここに戻ってきてくれるなら、どこに行ってもいい! ただ、ウィルが君に、家族にとられそうで……。そんなことないのに、不安で……。お願い、ウィルを連れて行かないで。俺の側に、あの人をずっと側に……」

「お父さんが愛してるのはアン・シェイクスピアよ。父は神にそう誓ったもの」

 母の名を口にする。弾かれた様にスザンナを離し、動揺に揺れる眼を彼女に向けた。そんな彼の眼を見つめながら、スザンナは言葉を続ける。

「あなたは、父を愛してるの?」

「分からない。でも、きっと俺はソドミー同性愛者なんだ……。昼間のガキが言ってたみたいに、ウィルを汚したくてたまらないのかもしれない……。こんな気持ち、抱いちゃいけないのに……」

 彼の黒真珠のような眼から、涙が零れ落ちる。そっとその涙をスザンナは指先で拭っていた。

「愛してるのね。お父さんのことを」

 スザンナの言葉に涙するエドマンドは静かに頷く。そんなエドマンドをスザンナは優しく抱きしめていた。

「一緒に帰ろう。エドマンド叔父さん。あなたはウィリアム・シェイクスピアの弟なんだから。故郷にはいつだって帰れるわ」

「スザンナ……」

「それにあなたは、ハムネットの遺髪を取り戻してくれた。私にとっても恩人よ。私に、父とあなたを引き裂く権利はない」

 そっとベルトにとめた財布をなで、スザンナは言葉を紡ぐ。

「だから、お父さんと一緒に帰ってきてくれるよね。エドマンド」

 強くエドマンドを抱きしめ、スザンナは優しく彼に囁いていた。たしかに彼が父に抱く感情はいけないものなのかもしれない。けれど、彼は心の底から父を愛しているのだ。

 もしかしたら、自分たち家族よりもずっと。

「お父さんの側にいてくれてありがとう」

 彼はずっと家族である自分たちに代わって、父を支えていてくれたのかもしれない。その感謝の気持ちをスザンナはエドマンドに伝えていた。

「ねえ、父さんの劇ってどんなものなの?」

「観てみたい?」

「うん」

 エドマンドの言葉にスザンナは頷いてみせる。彼はスザンナから放れ、静かに目を閉じてみせた。

「ああ、ロミオ、ロミオ、どうしてあなたはロミオなの。お父様と縁を切り、その名を捨てて。それが無理なら、せめて私を愛すると誓って。そうすれば、私はキャピュレットの名を捨てましょう」

 薄く眼を開いたエドマンドの口から、しとやかなる声がはっせられる。艶やかな響きの声はスザンナの耳朶に心地よく響き渡り、彼女の心に一つのイメージを浮かばせた。

 バルコニーに立つ恋人を想う一人の乙女の姿。その乙女の姿が目の前のエドマンドと重なるのだ。

「それは?」

「ロミオとジュリエット。ウィルが今書いてる新作だよ」

 エドマンドが微笑み、言葉を返してくれる。

「舞台はイタリアの都市ヴェローナ。憎み合うキャピュレットとモンタギューっていう二つの一族のあいだに生まれたロミオとジュリエットが恋に落ちるお話。まだ、台本が最後までできてないから、この先の台詞はどうなるのか分からないんだけど」

「憎み合う、二つの一族……」

「うん、カトリックと国教会みたいだろ。ウィルらしい皮肉だなって俺も思うよ」

 エドマンドの言葉に、スザンナは数十年にも及ぶ国教会とカトリックの争いに想いを馳せていた。

 もともと国教会はカトリックに意を唱えるヘンリー八世が打ち立てたものだった。子を成さない王妃との結婚を無効にすることを教皇から反対された彼は、自身が頂点に立つ国教会を立ち上げる。それは、長きにわたる宗教問題をこの国にもたらした。

 だが、ヘンリー八世の後を継いだアン王妃はカトリックを手厚く保護し、プロテスタントを厳しく弾圧する政策をとる。そんな国の宗教問題を解決するため、エリザベス女王は父の国教会を強く推し、旧教とは異なる統一された礼拝や取り決めを定めていったのだ。

 これはローマ教皇を大いに激怒させ、彼女はカトリックから何度も命を狙われる羽目になる。それは国内にいるカトリックへの弾圧をより厳しいものにしていった。

 そんな二つの宗派の争いをもとに、父はキャピュレットとモンタギューという対立する二つの一族を思いついたのかもしれない。

 すっと眼を伏せて、エドマンドが言葉を紡ぐ。

「でもその争いがなければ、ウィルはこのロンドンに来なかった。凄い皮肉だよな。人の争いが、ウィリアム・シェイクスピアという劇作家を生んだんだ。そのお陰で俺はウィルに会えた……。神が俺にウィルを遣わせたんだ」

 彼の眼は墓地の側に聳える聖堂へと向けられていた。何を思って彼は、父とこの歳になるまで生きてきたのだろうか。

 神は、なぜこうも人を試すのであろうか。聖堂を仰いでも応えてくれる者はいない。そっとスザンナは眼をエドマンドへと向けていた。

 彼は、両手の指を組み、眼を瞑っている。神に祈りを捧げているのだ。

 その祈りがどうか届くようにと、スザンナは心の中で願っていた。





 エドマンドが死んだのは、このロンドンに来てしばらくたったころだ。ストレンジ一座に台本を書かないかと勧められ、ウィリアム・シェイクスピアは地方巡業に出ている彼らと別れて、ロンドンに滞在していた。

 こっそりと自分についてきたエドマンドの面倒を見ながら、ウィリアムは本屋を営む同郷のリチャード・フィールドのもとに通いつめ、本を読み漁る毎日を送っていたのだ。

 大学を出ていない自分は圧倒的に知識が足りない。その知識を補うために、懸命に本に目を通していたウィリアムにその不幸は襲い掛かった。

 疫病がロンドンの街を襲った。感染の拡大を防ぐためにロンドンの劇場はすべて閉鎖され、ウィリアムの下宿先での死者が出た。ウィリアムは狭い下宿先にエドマンドと共に軟禁され、数カ月もの期間を過ごさなければならなかった。

 そうして、たった一人自分について来てくれた家族をウィリアムは失うことになる。

 エドマンド・シェイクスピアが死んだその年の冬、彼はクロスと名乗る少年と出会うのだ。

 



 薄い毛布を掛けて寝台枠に眠る愛しい人の寝顔を、エドマンドはじっと見つめていた。彼の頬に手を添えても、彼が目覚めることはない。そのまま彼に顔を近づけ、エドマンドは彼に口づけをする。

 唇を離しても彼が起きることはなく、エドマンドは彼に話しかけていた。

「俺がこうしても、いつも起きてくれないね。ウィル」

 そっと愛しいウィリアムの頬をなでながら、エドマンドは寂しげな笑みを顔に浮かべる。整った彼の容貌を見ていると、彼が役者をやっているというもの納得できた。

「演技はてんで、俺に及ばないけどね」

「誰が大根役者だって……」

 険のある彼の声が耳朶を貫く。エドマンドは急いで彼の顔を見つめる。眼を開いたウィリアムは、眼を眇めエドマンドを睨みつけていた。

「スザンナと、どこに行っていたんだ?」

 彼に腕を掴まれ、問われる。

「お墓参り。スザンナに俺のことを話したよ、全部……。受け入れて、もらえたのかな?」

 エドマンドの中には不安しかない。こんな自分を彼女は受け入れてくれただろうか。彼は、自分のこの想いをどう捉えているのだろうか。

「エドマンド、来なさい」

 そんなエドマンドをウィリアムは優しく寝台枠の中へと誘っていた。藁の香りが鼻腔に広がって、大きな腕が自分の体を抱く。芝居の稽古が厳しくて泣いているときも、この思いに苦しんで涙を流しそうになったときも、彼はこうやって自分を抱きしめてくれた。

 そんなに優しくされたら、自分の中になるこの思いと折り合いをつけることができなくなってしまう。

「けっして放しはしないよ、私のミューズ。お前が側にいると、詩の女神が私の中に降りてきてくれるんだ」

 ウィリアムが優しく髪を梳いてくれる。女のように髪を伸ばすようになったのはいつからだったろうか。少しでも女性に近づきたい一心でエドマンドは髪を伸ばすようになった。

 そんなことをしても自分は女になんてなれないのに。

「ウィルは残酷だ……」

 そっと顔をあげ、エドマンドはウィリアムの顔を眺めていた。きょとんとする彼を見ていると、笑いが心の底から込み上げてしまう。

「お前の想いを利用しても、私はお前を側に置きたいんだ。私のかわいいエドマンド……」

 彼は、けっして自分を本当の名では呼ぼうとしない。それがなぜなのかエドマンドは知っている。自分が、かつての名前を捨てたからだ。

 彼と出会いエドマンドはクロスであることをやめた。彼はウィリアム・シェイクスピアのためにエドマンド・シェイクスピアとして生きることを決めたのだ。

「さあ、今日はもう寝よう、私のミューズ。明日からカーテン座で公演の準備が始まるんだ」

「うん、お休み、俺のウィル」

「お休み、私のエドマンド」

 そっと体を抱きしめ合い、二人は夢の世界へと旅立っていく。


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