シアター座

 ショアディッチにはシアター劇場とよばれる場所がある。シアター座と呼ばれるそこは、ロンドンにいくつもの演劇場を築いたジェイムス・バーべッチが二番目に建てた劇場だ。この劇場を皮切りに、ロンドンにはいくつもの演劇場が建てられることになる。

 円形に見える劇場は壁を漆喰で覆われ、藁ぶきの屋根が設けられている。中に入ると吹き抜けの空間が広がり、その中央に木で組み立てられた舞台が設けられているのだ。芝居の閲覧料は一回一ペニー。舞台の周囲を取り囲む平土間で見るのが嫌なら、二ペンス払って舞台を取り囲む桟敷席にいくのもいい。もう一ペニー支払いうと、その上の席。さらにもう一ペンス払うと、もう一段上の席を借りることができる。

 だが、スザンナが通されたシアター座に、芝居を観に来ている観客の姿はなかった。がらんとした平土間はどこか寒々しく、見るものに言いようのない虚しさを感じさせる。

「伝染病と土地の問題でご覧のありさまだよ」

 劇場を見渡るスザンナにエドマンドが声をかけてくる。彼に連れられシアター座にやってきたスザンナは、劇場の寂しい光景を唖然と見つめていた。

「ロンドンで伝染病が多いことは知ってるけど、土地の問題って?」

「地主のジャイルズ・アレンが、ジェイムズさんが死んだとたん、地代を引き上げて劇場の所有権まで主張してきたんだ。そのいざこざのせいで、シアター座はずっとこの状態。いまじゃ、側にある小さなカーテン座で俺たち宮内大臣一座はほそぼそと演劇を公開してるって訳だ」

「そんな……」

 彼の口から聴かされた言葉に、スザンナはショックを受けていた。それが本当ならば、父はそのせいでハムネットの墓参りにも来られないのかもしれない。

 エドマンドが舞台に上がり、その奥にある楽屋への扉を開けてみせる。

「あ、やっぱりいたいた……」

 嬉しそうに彼は声をはっし、優しい微笑みをスザンナに向けてみせる。どうやら楽屋に父がいるらしい。

「いつも締め切りが迫ると、楽屋に籠って仕事してるんだ。少しは休めばいいと思うんだけどさ」

 彼の眼が曇りを帯びる。手招きをするエドマンドの側まで行き、スザンナはそっと扉の隙間から楽屋を覗き見た。

 たくさんの大道具に囲まれた舞台のすみに小さな机と椅子型のチェストが置かれている。そこに座る一人の男性がいた。羽ペンを持ち、彼はじっと紙を見つめながら動かない。

 自分と同じ黒真珠めいた男性の眼を見て、スザンナは大きく眼を見開いていた。

 間違いない彼はウィリアム・シェイクスピア。スザンナの父親だ。

「お父さん……」

 扉を開け、スザンナは導かれるように楽屋へと足を踏み入れていた。椅子型のチェストに座っていた父は驚いた様子で顔をあげ、スザンナを見つめる。

「エドマンド、どうしたんだ?」

 自分とそっくりな少年の名を告げられ、スザンナは大きく眼を開いていた。無理もない。父とは十年以上も会っていないのだ。娘だと分かる方がおかしい。

「ウィル! 自分の娘の顔を分からないのかよ」

 エドマンドのいらだった声が聞こえる。彼は楽屋へと足を踏み入れ、ウィリアムのもとへと歩んでいた。机に両手を叩きつけ、エドマンドはウィリアムを睨みつけてみせる。

「スザンナだよ。ケンプの旦那が連れてきた」

 エドマンドの言葉を聞いて、彼は大きく眼を見開く。震える眼をスザンナに向け、父は言葉をはっしていた。

「大きくなったな。お母さんにそっくりだ……」

 父の言葉にエドマンドの顔が歪む。彼は俯き、そっと机から離れていった。

「親子二人でゆっくり話せよ」

 スザンナにぎこちない笑みを浮かべ、彼は楽屋を後にする。扉が閉じられ、スザンナは父と共に薄暗い楽屋に取り残された。父は視線を紙へと戻し、羽ペンを静かに走らせる。

「お父さん」

「お母さんとジューディスは元気か?」

「うん、ハムネットが亡くなってからお母さんは塞ぎこんでばっかりだったけど、最近またお針子の仕事を再開したの。ジューディスも母さんに刺繍を習って、一生懸命裁縫の勉強をしてる」

「そうか……」

 父の顔に笑みが広がる。彼は動かしていた羽ペンをとめ、スザンナへと顔を向けた。

「すまないが。家には帰れない。ハムネットのお墓にはちゃんと行きたいと思っているけれど、今は一座が大変な時期なんだ。ここを離れるわけにはいかない」

「シアター座が閉鎖されてるせい?」

「お前はみんなお見通しみたいだな」

 黒い眼を細め、父は寂しげに笑ってみせる。彼はそっと立ちあがり、スザンナを抱きしめていた。

「男の格好までして。判事に密告されたら、鞭打ちじゃすまされないぞ」

「ばれなかったよ。誰も私が女だなんて分からなかった」

「母さんに似て綺麗になった」

「そうかな?」

「だからお願いだ。スザンナ。女の子であることがみんなにばれないうちに、ストラトフォードに帰ってくれないか?」

 震える父の声が耳朶を叩く。覚悟していたとはいえ、スザンナはその言葉を聞いて胸が張裂けそうだった。父から演劇を奪うことは出ない。彼は今や、所属する一座にとって大切な存在なのだ。

 それは父が家族よりも演劇を選んだことを意味している。何がそこまで、父を駆り立てるのだろうか。

 その答えが知りたくて、スザンナは声をはっしていた。

「いや、帰らない」

「スザンナ」

「雑用でも何でもする。私、ここに残りたいわ。お父さん」


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