汚物輪舞
丘を下り一行はロンドンの郊外にあるシティ座に向かう。野原に教会や住宅が点在する景色はやがて漆喰やレンガで覆われた建造物の群れに変わっていき、四輪馬車が泥の跳ねる大通りを行き交うようになる。建物の高さと密集率も増し、陽光に輝く窓硝子を持つ建物すらある。はるか遠い故郷のストラトフォードにも、レンガの煙突を持つ窓硝子付きの家が建ち始めているが、これほど高い建物が密集している様をスザンナは生まれてこの方見たことがなかった。
荷馬車から降り、スザンナは一行と共に歩きながらその様を見つめている。そんなスザンナの横では、公演中の演劇のビラを配る少年や、パンを売る売り子の女性。乾燥した林檎のハードフルーツを売る女の姿もあった。
田舎でおなじみのハードフルーツがこんなところでも売られているなんて驚きだ。そっとその売り子へと眼を向けた瞬間、スザンナの体に大きな衝撃が走った。
「あっ!」
一人の少年がスザンナの横をものすごい勢いで走り去っていく。
「もう、なんなのよ」
ため息をついて痛む腰へと手をやったスザンナは、ある事に気がついた。ベルトに吊るしてあるはずの財布がない。あの中には、大切なハムネットの遺髪が入っているのに。
先ほどの少年のことが頭を過る。大切な財布をスザンナは彼に盗られたのだ。
「まってっ!!」
気がついた瞬間、スザンナは駆けだしていた。人ごみを駆ける少年は、大きく見開いた眼をスザンナへと向けてくる。少年が走る速度をあげる。スザンナも後を追おうとするが、四輪馬車がそんなスザンナの行く手を阻む。
「危ないだろ、小僧っ!」
御者がスザンナを怒鳴りつけるが、スザンナは頭をさげることなく馬車の横を駆け抜けていた。
「へえ、面白いことになってるじゃん」
そんなスザンナの耳朶に、甲高い声が響き渡る。声のした上方へと、スザンナは思わず顔をあげていた。建物の二階から一人の少女が降ってくる。カートルの裾を優美に翻しながら、彼女はスザンナの前に降り立って見せた。
細い両脚には編み上げのブーツを履き、カートルの上に赤いガウンを羽織った彼女は、波打つ黒髪を翻しながらスザンナへと顔を向けた。
黒真珠のように輝く二粒の眼がスザンナを捉える。彼女の面差しを見て、スザンナは大きく眼を見開いていた。
美しい少女は、どこか自分に似た容貌をしている。まるで姉妹であるかのように、彼女はスザンナにそっくりな外見をしていたのだ。
「エドマンドっ! 空から降ってくるやつがあるかっ!」
「ごめーんケンプさん! でもさ、ちょっと大変なことになってるから、この子、預かるねっ」
後方からケンプの声が聞こえてくる。どうやら、走ってきたスザンナを追いかけてきたみたいだ。そんなケンプに少女は弾んだ声をかけていた。
「あの……」
「じゃ、行こうかお嬢さん」
狼狽するスザンナに少女は微笑んでみせる。彼女にお嬢さんと呼ばれ、スザンナは身を固くしていた。自分は男装をしているのに、彼女は自分が『女』だということに気がついている。ぎょっと眼を見開くスザンナを素早く横抱きにし、彼は駆けだしていた。
「いいぞー!! エドマンド! やっちまえ!!」
「大見世物がはじまったわよっ!!」
彼女が走り出した途端、わっと通りが騒がしくなる。人々は鎧戸や硝子窓を開け、大通りを走る彼女に声援を送っていた。
「なんでエドマンドが追っかけてくるんだよ!!」
財布を奪った少年も、こちらに振り返りながら大声をはりあげる。駆ける彼女の邪魔にならないようにだろうか。ひっきりなしに道を行き交っていた四輪馬車すらも止まり、御者たちが彼女に声援を送っているではないか。
「ひい、こっち来るなっ!」
追いかける少年が速度をあげる。そんな彼の行く手を妨害すべく、建物の中にいる人々は彼めがけ糞尿の溜まった樽やバケツをぶちまけてみせた。
「うわあ!!」
少年は巧みに上から落ちてくる糞尿の嵐を掻い潜り、通りを駆ける。
「うわ、くっせ!」
そんな汚物に塗れた通りを、スザンナを抱えた少女は駆けるのだ。彼が走るたびに、スザンナの服に泥がかかっていく。
「ひい……」
スザンナも少年と同じく喉から小さな悲鳴をあげていた。ロンドンの通りは糞尿だらけだと故郷で聴いたことがあったが、これは予想以上だ。父はこんな場所でどうやって暮らしているのだろうか。
「やばい、第二波くるぞっ!」
少女が弾んだ声をあげる。前方へと顔を向けると、駆ける少年めがけ新たな糞尿がぶちまけられていた。少年は悲鳴をあげながら巧みに糞尿の嵐を掻い潜る。だが、先ほどまでとはその嵐の規模が違う。
避けても、避けても少年の頭上には、大量の汚物が迫りくるのだ。
「うあ、強烈……」
「ロンドンって……」
スザンナが唖然とする中、少年の体は糞尿によって汚れていく。彼は足をもつれさせ、道路に溜まった糞尿の中へと顔を突っ込ませながら倒れていた。
「うそ……」
悲惨な少年の末路に、スザンナは声をはっしてしまう。スザンナを抱える少女は、笑いをこらえながらそんな彼のもとへと走り寄っていた。
「だっさ、俺こういうのだけはごめん被りたいわ……」
少年の頭をブーツの先で突きながら、少女は下品な笑い声をあげてみせる。そんな少女に引きながらも、スザンナは彼女に向かって口を開いていた。
「あの、ありがとう……」
「いいってことよ、君は大切なウィルの娘さんなんだから」
黒真珠の眼を細め、彼女はスザンナに微笑みかける。そっとスザンナを横に降ろすと、彼女は少年の頭を軽く蹴っていた。
「ほら起き上がれ、この浮浪児。さっさと盗ったもん返しやがれ……」
「う……」
汚物から顔を引き離し、少年がこちらを見つめてくる。彼はエドマンドを睨みつけ、口を開いてみせた。
「この
少年の叫びは、少女の放った蹴りによって遮られる。彼女の蹴りは少年の頭を叩き、彼を再び汚物の中へと押し倒していた。
「は、おっさんの下のもんなんて、しゃぶってねえよ。これだから浮浪児はっ!」
「があ!!」
少年の股間を少女は思いっきり蹴り上げてみせる。彼女は色のない眼で少年を見つめながら、淡々と言葉を発していた。
「今度俺の前でウィリアム・シェイクスピアを貶してみろ。ただじゃすまさねえぞ」
「あの……」
そんな彼女の服をスザンナは掴み、声をかける。少女ははじかれたようにスザンナへと顔を向け、苦笑してみせた。
「ごめん……。恐いところ見せちゃったかな?」
「ううん、ありがとう。もう、大丈夫だから」
恐くないと言えば嘘になる。自分と同じぐらいの年頃の少女が、人を蹴り飛ばすところなどスザンナは見たこともないのだから。
「ごめん。君が僕から盗ったものはとても大切なもなんだ。返してくれないかな?」
そっとスザンナはしゃがみこみ、少年に声をかける。
「ソドムとゴモラの男女野郎が……」
片手に握りしめていた財布をスザンナに投げつけ、少年は吐き捨てた。スザンナは器用にその財布を手に取り、ほっと胸をなでおろす。
少しばかり臭いのが気になるが、大切なエドマンドの遺髪を取り戻すことが出来た。ぎゅっと財布を握りしめ、スザンナは言葉を紡ぐ。
「返してくれて、ありがとう」
「なんで、お礼言われんの……?」
きょとんと少年が眼を見開く。そんな彼にスザンナは微笑みを向け、言葉を返してみせた。
「この財布の中には、死んだ弟の遺髪が入ってるんだ。戻ってきてくれて、本当に嬉しい」
「変な男女……」
そっと少年は立ちあがり、呟くように囁いてみせる。そんな少年の肩を、通りを歩いていた男の一人が掴んでいた。
「こい、クソガキ。判事に突き出してやる」
「うるさいな。わかってるって……」
やけに落ち着いた口調で少年は男に言葉を返していた。もしかしたら似たようなことが過去に何度かあったのかもしれない。
「もう二度とつっかかってくるんじゃねえぞ」
男と共に去っていく少年に、少女が声をかける。うるせーソドミー野郎と彼は口汚く少女を罵った。そんな彼に男の拳骨が跳ぶ。
「あの子、どうなっちゃうのかな?」
「判事に突き出されて、盗みの咎で鞭打ちかな? まあ、自業自得だよな」
男と共に去る少年を見つめながら、少女はぽつりと呟く。彼女の言葉が妙に気になって、スザンナは彼女へと顔を向けていた。
「俺も、昔はああだったから。今はちゃんと足洗ってるけどね」
少女が苦笑を浮かべる。なんだかそんな彼女の表情が悲しげに見えて、スザンナは言葉を失っていた。
「そういえば、自己紹介がまだだったよね。スザンナ」
仕切りなおすように彼女はスザンナに笑って、そっとお辞儀をしてみせる。
「ようこそロンドンへ。スザンナ・シェイクスピア。俺はエドマンド・シェイクスピア。宮内大臣一座で活躍する少年役者だ」
「エドマンド・シェイクスピア。エドマンド叔父さん?」
スザンナはその名を知っている。父と共にロンドンへと旅立った、年若い伯父の名だ。彼は役者として活躍していると聞いていたが。
「まさか、役者って……」
「役者って言っても、やってるのは女の役だよ。まだ見習の少年役者だからね。これでもかなり有名な方なんだけど。俺って美人でしょ」
眼の前にいる少女もといい叔父エドマンド・シェイクスピアはカートルを翻しながら体を回して見せる。驚くスザンナにあれは得意げに微笑んでみせた。
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