ハイゲイトヒルより

 教会の鐘がいっせいに鳴り、正午の訪れをロンドンに告げる。ハイゲイトヒルの頂からロンドンを見つめるスザンナは、その壮大な光景に眼を奪われていた。

 どこまでも続く巨大な街並みに、天を貫くほどに高い教会の尖塔の数々。その壮大なる都を太陽がまぶしく照らしている。

 花の都ロンドン。イングランドのあらゆるものが集い、あらゆる人々が行き来するこの国の首都。

 スザンナは宮内大臣一座と共にこのロンドンにやってきた。

 地方巡業を終えた彼らは、スザンナを伴ってシアター座に帰ろうとしている。そんなスザンナはというと、大道具が詰め込まれた荷馬車に乗り、このロンドンの景色を見つめていた。

 纏っているウェイトコートを正しながら、スザンナはブリーチとストッキングに覆われた足を組んで見せた。長い黒髪を帽子の中にしまい込んだ彼女の姿は、まるで少年のようだ。

 女が男装をするのははしたないことだ。聖書の申命記には、男は女の格好をするな。女は男の格好をするなという一節がある。その一節にあやかって、とくに女性が男の格好をすることははしたないことだとされているのだ。下手をすると逮捕される恐れもある。

 そんなスザンナが男装をしている訳はそれなりにある。

「いやあ、君が襲われなくて本当に良かった。君になにかあったらウィリアムに申し訳がたたないからね」

 荷馬車に腰かけるスザンナに声をかけるものがある。低くふっくらとした体形の男性は、ピューターのカップに入った牛乳を差し出していた。

 宮内大臣一座の名物道化トマス・ケンプだ。故郷のストラットフォード・アポン・エイヴォンから父を連れ出したのも、彼が率いるレクター伯一座だった。その縁により、彼はスザンナをロンドンにまで連れてきてくれたのだ。

「前の村で旗小屋の女将さんから貰った牛乳だよ。腐らないうちに飲んじまいな」

「いいんですか?」

「スザンナに何かあっちゃ、こっちが困るからな」

 ケンプの台詞を聴いて、スザンナは牛乳の入ったカップを手に取っていた。

 甘い牛乳の香りが鼻を突き抜けてスザンナの舌を潤す。はあと、スザンナは一息つき、口からカップを離していた。

 スザンナが男装をしている理由は、強盗から身を守るためだ。ここ数年の不作により、ロンドンを中心に浮浪者が増えているという。中には犯罪に手を染めるものも多く、旅の一座を狙う強盗もいるそうだ。

 旅の一座は男の役者だけで構成されるのが普通だ。そこに若い女性が混じっていたら、嫌でも目立つ。そんなスザンナを犯罪者の手から守るためにケンプはスザンナに男装をすることを勧めたのだ。

「やっと、父に会えるんですね」

「すまなかったな。君のお父さんを取ってしまって……」

「ケンプさんは父の命の恩人です。レクター伯一座が父を連れて行ってくれなかったら、今頃父は首吊りの上、四つ裂きにされていたかもしれません……」

 白い牛乳を見つめながら、スザンナは暗い調子で言葉を紡ぐ。父が故郷を離れた理由をスザンナは知っている。

 国教会にたてつくカトリックへの弾圧が、父を故郷から追い出したのだ。町の参議会員まで務めた祖父のジョンはカトリックであることを理由に多額の賠償金を支払わされ、財産のほとんどを失って失脚した。

 母の遠縁にあたるエドワード・アーデンもカトリックであることを理由に極刑に処された。父が通っていたグラマースクールの教授たちも、イエズス会のメンバーだったことにより処刑されたものが何人もいるという。

 そのような理不尽な弾圧に父は声をあげたことがある。それをきっかけに、父は故郷から姿を消した。

「正直、父のことはおぼろげにしか覚えていません。でも、覚えていることが一つだけある」

 そっと眼を瞑り、スザンナは幼い頃の記憶を手繰り寄せる。あれはまだ、スザンナが三歳だった頃の出来事だ。

 父に連れられて、地方を巡回していたレクター伯一座の芝居を見たことがある。そこで父は異教徒であることを理由に弾圧される聖職者を演じたのだ。父の迫真の演技にスザンナは夢中になり、壇上にあがって父に跳びついていた。

 その芝居が原因で父が故郷を追われるなんて、誰が思っただろうか。

「まさかあの芝居がエリザベス女王を風刺していたものとはね。上演した俺たちも驚いたのなんのって……」 

 ケンプが笑いながらピューターに入った牛乳を飲む。牛乳で白くなった口を拭いながら、彼は言葉を続けた。

「我らがエリザベス女王のカトリック弾圧を非難する芝居を、俺たちはまんまと駆け出しのウィリアムに演じさせられたって訳だ。ハンドレッドの治安官がよくもまあ、俺たちを見逃してくれたと今でも驚いてるよ」

 父が女王陛下を侮辱する芝居をおこなった。

 父は、前女王のメアリががプロテスタントを弾圧する様を描いた芝居を披露してみせた。だが、その芝居はプロテスタントたちを弾圧しなければならない苦しみに懊悩するメアリ女王を見事に描き切っていたのだ。

 カトリック信者であった彼女の真摯な信仰心を浮き彫りにすることで、彼女に理解のないプロテスタントたちの愚かさが明るみに出るその巧みな構成にケンプは心打たれたという。

 旅の途中ケンプはこの芝居の話を何度も語ってくれた。

「君の父さんは本当に天才だよ。私なんかが考えも及ばないほどにね……」

「ケンプさん……」

「けれど、少し回りを顧みなさすぎる……」

 ケンプの視線がスザンナのベルトに向けられる。そこに吊るした革製の財布を見つめながら、スザンナは顔を曇らせていた。

 スザンナの財布の中には、今年の夏に死んだ弟ハムネットの遺髪が入っている。ハムネットの訃報を手紙で伝えても、父シェイクスピアがロンドンから帰ってくることはなかった。

 手紙の返事もない。そんな状態に辟易したスザンナは、地方巡業に来ていた宮内大臣一座に会いに行き、自分もロンドンに連れて行ってほしいと懇願したのだ。

 初めは断られたがケンプが一座のみんなを説得して、こうやってロンドンまでくることができた。

「どうして父は、ハムネットに会いに来てくれないんでしょうか……」

 囁くようにスザンナは口を開く。ハムネットの墓の前で泣いていた母の姿が脳裏から離れてくれない。

 そんな母を慰めるために、父が戻ってくることはなかった。何が彼をロンドンに引き留めるのだろうか。

「後悔がウィリアムを苛んでいるのかもしれないな……。家族を捨てたと、彼はいつもそんなことを口にする。離れたくて、離れた訳じゃないだろうに……」

 ケンプの分厚い手が、そっとスザンナの頭に乗せられる。彼は少しばかりずれたスザンナの帽子を直す。そんな彼にスザンナは弱々しく微笑んでいた。

「私と会えば、帰ってきてくれるかな?」

「帰るさ。スザンナはウィリアムの大切な家族だ」

「うん、そうだね」

 眼下に広がるロンドンの街を見つめながら、スザンナはまだ会えぬ父に想いを馳せる。父はまだ、ハムネットの死を受け入れられていないのだろうか。だとしても、帰ってきてほしい。

 他ならぬハムネットのために。



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