第42話 仮面舞踏会(6)
「げえ、あいつらなに目立ってんだよ」
仮面の意味ねえだろ、とぶつくさ文句を言いながら、アダムは人混みをかき分けて前に進む。
偶然そばに居合わせたドロシーも、アダムの背中を追って人混みをかき分ける。ダンスホールと中庭を隔てていたはずのガラスドアがまるまるなくなっている。その代わりに、イブニングドレスやタキシードを身に纏った群衆の群れが、文字どおり壁となって建物の内と外とを隔てていた。
「ちょっと……いったいなんの騒ぎなの?」
ドロシーは背伸びを繰り返し、人垣の向こうの景色を見ようと躍起になる。
「パフォーマンスだってさ。あ、終わった」
「ええっ! 私も見たかったわ!」
ドロシーは地団太を踏んで悔しがった。彼女を苛立たせる原因は、目の前に立ちはだかる長身の壁でもなく、パフォーマンスが見られなかったからでもない。この舞踏会で、まだ小花柄の仮面を身につけた少年に出会えていないのだ。
じきに夜が明ける。そうすれば舞踏会は幕を閉じ、少年と出会う機会はなくなってしまうだろう。これが最後のチャンスだったのに。
焦燥感と苛立ちが、ドロシーの目のふちをじわりと滲ませる。そのとき、ぽんぽんと後ろから誰かに肩を叩かれた。
「行かなきゃ、ドロシー」
「ニノン?」
振り返れば、桃色の髪の少女は肩を上下させながらすぐ後ろに立っていた。おそらく急いで駆けてきたのだろう。綺麗にセットしたはずの髪型は、もうほとんど崩れてしまっている。
「中庭のステージに行って、ドロシー」
「え、えっ? どういうこと?」
「王子様に会うんでしょ?」
ドロシーはハッと大きく目を見開き、友人の顔と群衆の向こう側を交互に振り返った。ニノンの口から出た“王子様”という言葉。だとしたら、パフォーマンスをしているのは……。
ドロシーはニノンの助言を正しく理解し、群がる人の壁を両手でぐっと割り開いた。
「ありがとう、ニノン。私、行ってくるわね!」
「うん、いってらっしゃい、ドロシー」
友人の言葉に背を押され、ドロシーは脱兎のごとく飛び出した。
「ごめんなさい、とおして!」
声がくぐもるのが鬱陶しくて、ドロシーは被っていた仮面をひっぺがした。過ぎゆく人々が何事かと振り返る。身体がぶつかるのも人々のざわめきも、格好さえも気にせずに、王子様が立つステージを目指す。
「ちょっと、待ってー!」
やがて最後のひと山を抜けると、視界がひらけて幻想的な霧の景色が目に飛び込んできた。
中庭に立ちすくむのは、ふたつの人影。
かすむ霧の向こうにドロシーは目を凝らす。
一方は、二股帽のピエロの仮面を被った長身の男性。そしてもう一方は、小花柄のシンプルな仮面を被った背の低い少年だった。
――王子様!
ドロシーがあっと息を飲んだ瞬間、群衆の右の方から突如、叫び声が上がった。小花柄の仮面の少年は、びくりと肩を揺らして声のした方を振り向く。だが、少年よりも先に驚いたのは、ドロシーだった。なにしろ、叫んだ声は彼女のよく知る人物のものだったのだから。
「遠慮する必要なんてないんだから!」
叫んでいるのは、クロエだった。
「クロエ……!? いったい全体、なにがどうなってるっていうの?」
状況が飲み込めず、ドロシーは思わず頭を抱えた。それは周囲の大人たちも同じだったらしい。なんだなんだ、と先ほどよりもざわめきが増す。
「行きたいんだったら、行っていいの! 私が――私は、あんたより先にやりたいことを見つけちゃったんだから!」
控えめな彼女の精一杯の叫び声は、慣れないせいかどこかぎこちない。
出て行くタイミングを見失ったドロシーがハラハラとした面持ちで二人のやり取りを見守っていると、うろたえるだけだった少年が、なにかを決心したように深く頷いたのが見えた。
あ、と思ったときにはもう、少年はくるりと群衆に背を向けて、走り出していた。
「あっ、ちょっと……!」
数年前、岸で溺れた自分を救ってくれたときと同じだ。
素顔も見せないまま、また少年は目の前から姿を消してしまう。
「待って――待ちなさいったら!」
ドロシーは水色のドレスをたくし上げ、うさぎの如く人垣からぴょんと中庭に飛び出した。あまりの剣幕に恐れをなしたのか、仮面の少年はぎくりとして動きを止め、中庭の遠くからこちらを振り返る。
「お嬢様!?」
そのとき、騒然としたダンスホールを、まるでこの世の終わりを垣間見たかのような男の声が駆け抜けた。人混みをかき分けて駆けつけたのは、少女の従者・ジルベールだ。
「なんてはしたないことをなさっているのですか……!」
ドロシーはドレスを膝上までたくしあげたまま、従者に勝気な笑みを向けた。
「ジル、私はこの町を出るわ!」
「はっ? いや、なにワケのわからないことを仰っているのです!?」
霧に霞む中庭で、少年も必死に首を横に振っている。想定外の出来事に、ピエロの仮面を被った長身の男も目を丸くしてただ立ち尽くすばかりだ。
ドロシーはパンプスを脱ぎ捨てると、裸足で中庭を駆け抜けた。「あっ!」とジルベールが声をあげるのも気にせずに少年の元へ一目散に走っていき、コルセットに挟んでいた手紙を引っ張り出した。仮面の少年がびくりと肩を強張らせ、逃げの体勢をとる。「ちょっと待ちなさいってば」と口で制し、ドロシーはくしゃくしゃの手紙を少年へと突き出した。
「あなたに手紙を出したの、私よ」
「……! ぇ……!?」
「私も行くわ。一緒に連れてって!」
ドロシーの宣言が中庭に響き渡った瞬間、群衆がどよめいた。同時に、ジルベールの大人気ない抗議の叫び声が響く。
「ドロシー!」
さらにたたみかけるように、新たな怒号が少女を襲う。
「勝手な真似は許さんぞ!」
「うげ、お父様っ」
恰幅のいい男が髭をわななかせて、さらに何事かを叫んだ。ドロシーは思いきり顔をしかめた後、少年の手を引っ掴んで一目散に逃げ出した。
「待ちなさい、ドロシー! ジルベール、とっ捕まえてくれ!」
「か、かしこまりました。お待ちくださいお嬢様!」
仮面の紳士淑女はジルベールのためにさっと道を開けた。「今度こそ勝負のつけどきですか」とか「頑張ってくださいね」などと歓声まであがる始末。
ここは市場だっただろうか、と楽しくもない追いかけっこをした日々を思い出しながら、男は徹夜明けの重たい体を鞭打ち必死に走る。
片やドロシーとロクスはというと、若く身体能力も高い。中庭を軽々飛び出して、豪邸の前の小水路にまでやってくると、一隻の小舟にぴょんと飛び乗った。
「お待ちください、お嬢様……」
「最後の勝負は私の勝ちね、ジル!」
「ハァ、ハァ、なりません……ハァ、そんなことをしては……お父様が、ハァ……心配なさりますよ……!」
息も絶え絶えに訴えながら、ジルベールが水路沿いの石畳を必死に走って追いかけてくる。
小舟が小水路を抜け、運河に出るころには、ダンスホールからたくさんの人々が駆け付けていた。群衆のずいぶんと後ろの方に、腹を揺らしながら苦しそうに走る父親の姿も見える。
小舟は水の流れに乗って、ぐんぐんとスピードを上げていく。オールを仮面の少年に任せて、ドロシーは小舟の船尾に仁王立ちして、今にも崩れてしまいそうな従者を見据えた。
「鬼ごっこもこれでおしまいね」
腰に手を当て、ドロシーは満面の笑みで言い放つ。
「うう、お嬢様……」
ついに川べりでへたり込んでしまった情けない従者に、ドロシーは「めそめそしないの!」と一喝する。
「大丈夫よ、また戻ってくるわ。たっくさん外を楽しんだらね。それまでに彼女の一人や二人、作っておきなさいよね」
「そっ、それは余計なお世話でございます!」
嘆き吠える従者から視線を外し、運河沿いに手を振ったり騒いだりしている町の住人に向けて、ドロシーは目いっぱい声を張り上げた。
「みなさーん、さようならー! 今まで楽しかったわー! お父様たちをよろしくねー!」
「ま、ち……なさ……ッドロシー!」
父親の必死の咆哮も掻き消えてしまうほどの激励が、対岸からわーっと飛んだ。
ひとり憤慨する男を除いて、みな盛大なカーニバルの余韻が続いているようだった。
*
「……君、戻った方がいいんじゃないの?」
ロクスはオールをぐうっとかきながら、水色のドレスをはためかせる少女の背中におずおずと話しかけた。
裸足で船尾に立つ少女の足はすらりと細く、そして白い。行動こそ破天荒だが、見た目はいかにもお嬢様らしく、華奢で繊細に見える。箱入りのお嬢様が、ほんの一瞬の思いつきで飛び出して生きていけるほど、外の世界は甘くないのではないか、とロクスは心配になる。
「私、ずっとあなたのこと探してたの。ここで逃げられたら悔しいじゃない?」
すっかり小さくなってしまった故郷の輪郭を、それでも彼女は船尾からじっと見つめている。
「……はい、それは……その、存じてます……」
「それにね、私、ずっとこの町じゃないどこかへ行きたかったの。夢が一気にふたつも叶うなんて、まさに夢みたい! 昨日まで退屈な気持ちでお腹がいっぱいだったのに、今はワクワクでお腹がはちきれそうよ!」
一気にまくし立てた後、ドロシーはぐるんと体ごとこちらに向き直り、右手をまっすぐ差し出した。
「ドロシーよ。これからよろしくね」
彼女がそう宣言した瞬間、まるではかったかのように朝日が町の輪郭から顔を出した。ひどく乱れた金色の髪は、彼女の背後からさす太陽の光を受けて飴細工のように輝いている。水の都を思わせる鮮やかな水色のドレスが小舟には妙に不釣り合いで、ロクスは思わずぷっと吹き出した。
「なによ? 私、なにか変なこと言った?」
ロクスはすぐさま首を横に振って、笑いを噛み殺した。
不釣り合いだけど、とても似合っていると思った。そして、この少女が自分に勇気をくれたのかと思うと妙に心がそわそわして、自然と笑いが漏れてしまったのだ。
「ねぇ。顔を見せてくれる?」
促されるままに、ロクスは仮面に手を掛けた。
もう仮面を被らなくても、新しい世界へ飛び出せる。その自信を、目の前の少女がくれたから。
「よろしく。僕の名前は――」
*Luca
興奮冷めやらぬ人々の熱気を背に受けながら、四人は並んで運河を見つめていた。
「……で、ニコラスはロクスになに渡してたわけ?」
アダムが腕を組んだまま疑問を口にした。群衆に揉まれながらも、ある程度背のある彼は、背伸びをしながら一部始終を見守っていたという。
「ああ。紹介状だよ。アルカンシェルの団長宛にね」
三人の上げた驚きの声が重なる。
ニコラスは、すでにこの地を去ってしまった少年の才能について話した。脱団している身で未練がましいとも思ったが、日の目を見ることなく消えていく才能が惜しかったと。ただの自分のわがままかもしれないが、とニコラスは苦笑いを浮かべる。
「ま、本人が決めたことだし、よかったんじゃねぇの?」
「だといいんだけど」
二人を乗せた小舟はついに運河から姿を消した。このまま南下していけば、現在サーカス団が駐屯しているオリヴズ村まで数時間もかからず流れ着くだろう。
穏やかさを取り戻した運河を見つめながら、ニノンがぽつりと呟いた。
「ドロシーもサーカス団に入るのかな?」
「さぁね……言っとくけど、私一枚しか紹介状書いてないからね」
「大丈夫かなぁ」
ドロシーの事だから、きっとなにも考えずに飛び出してしまったのだろう。そう言って、ニノンは心配そうに両頬に手を当てた。
「でも、ウィグルさんは優しいから」
「うん。ウィグルさんも、ほかのみんなも優しいもん。きっと大丈夫だよね」
ニノンはサーカス団にいた頃を思い出したのか、ふっと顔をほころばせた。
美しい町並みが、ぐるりと運河を囲んでいる。ニノンは今一度その景色を楽しんでから、ルカに「ありがとう」と呟いた。
「この町に立ち寄ってなかったら、カーニバルにも参加できなかったし、友だちだってできなかったから」
「うん。俺も、マスカレード・カーニバルに参加できてよかった」
朝日を浴びて、着飾っていた町の住民は、一人、二人と仮面を脱ぎ捨てはじめた。
徐々に日常に戻っていく模倣町・ヴェネチアを、運河を通って湿った風が吹き抜ける。バルコニーに飾られたミモザが揺れて、ぽとりと水面に落ちていった。
広がる波紋。流れゆく花びら。
春は終わり、やがてコルシカ島に夏がくる。
〈六章 マスカレード・カーニバル 完〉
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