幕間

オンファロスの眠り姫

――絵画はなにも語らない。

――それを介して、心の奥底で忘れ去られていた想いが己に語りかけてくるのである。


 皮張りの分厚い本がパタンと音を立てて閉じられる。その振動に乗じて、細やかな埃が宙を舞う。

 細身のスーツを身にまとった男は、車椅子の背もたれに備え付けられたポケットに丁寧な手つきでその本をしまった。耳よりも下で前下がりに切り揃えられた、ベージュ色のボブヘアがさらりと揺れる。端正な顔立ちだが、その眼差しはまるで精巧に造られた人形のように冷たく、人間らしい表情はうかがえない。


「さて、そろそろ散歩に戻りましょうか」


 一転して、男は目元にやわらかな笑みをたたえ、車椅子に座る少女へと声をかけた。


「今日は『額縁の間』ですよ」


 少女からの返答はない。プラチナブロンドの髪は腰まで伸び、肌は陶器のように滑らかで白い。瞼は伏せられていて瞳の色こそ隠されているが、こちらもひと目見るだけで端正な顔立ちだと分かる。

 男は返事がないのを気にする素振りも見せず、少女を乗せた車椅子を押して、長い長い廊下を歩きはじめた。


 ここには男の足音と、タイヤが時おり軋む音以外なにも聞こえるものはない。

 天井を縁取る黄金のレリーフ。その中に広がる神話を模した天井画。灰白に金の混じった大理石の床。等間隔に並ぶ彫刻の脇を通り過ぎ、いくつめかの部屋の入り口が見えてきたところで、男はようやく廊下を曲がった。


 ボルドー色の壁の部屋は、廊下よりももっと重みのある静けさに沈んでいた。淀んだ空気は化石となり、まるで何万年も昔から変わらずにこの部屋に沈殿しているような重圧感を訪れる者に与える。

 それ以上に重厚な気配を漂わせているのは、壁一面に掛けられたたくさんの額縁だ。くすんだ金色の額縁はそれだけ・・・・で飾られており、本来そこにあるべきはずの絵画は見当たらない。額縁はただ、なにもない空間を携えて、ぽっかりと口を開けているのみである。

 そして、それが名誉であるかのごとく、額縁の佇まいはどこか誇らしげに見える。


「物言わぬ絵画……か」


 男はぽつりと漏らして、車椅子をある大きな額縁の前まで移動させた。

 横長の額縁は、他のものと同様にぽっかりと口を開けている。


「この大きな額縁にはかつて、かの有名な乙女の絵画が飾られていたんですよ――民衆を導く美しき女神が。それも過去のことですが」


 男はからっぽの額縁から少女に視線を移し、優しく微笑んだ。

 反応はやはり返ってこない。

 しかし男は満足げに笑みを深めると、額縁の部屋を出てもうひとつの通路へと進んだ。


 通路の片側には大きなガラス窓がはめこまれており、それが行き止まりまで続いていた。おかげでこちら側の通路は天候に関係なく、常に光で溢れている。

 この施設は大きく三つの棟からなる。ドゥノンよく、リシュリューよく、シュリーよくと呼ばれるそれぞれの棟は、コの字型に並び建っている。建物に囲まれた中央の敷地は大きな広場になっており、この通路のガラス窓からは、ちょうど広大な広場が見下ろせた。

 広場の中央にはガラスでできたピラミッドが鎮座している。内部が常にほんのりと発光しているのは、ピラミッドの中に巨大な無線送電装置――とある偉大な科学者が発明した、配線を使わずに世界中のあらゆる場所に電力を飛ばす装置――が設置されているからだ。


 いつしか人々はこのピラミッドを世界のへそ・・・・・――すなわちオンファロス・・・・・と呼び敬い、崇めるようになった。人類を滅亡の危機から救ったノアの箱船、あるいは太陽そのものであると、それ自体や創設者を信仰するものまで現われた。


「今日も素晴らしい晴天ですよ、お嬢様」


 男は車椅子の隣で片膝をつき、窓の外に広がる景色を眺めた。オンファロスの上空には、雲とも空ともつかない薄い灰色が一面に続いている。限りなくモノクロに近い風景の中、人工的なオレンジがぼんやりとオンファロスを浮き立たせている。


「コルシカ島にもまた夏がやってきましたね。綺麗な水色の空です」


 瞼を閉じたままの眠り姫に、男は今日も甘い嘘を吐く。



 ここはかつての芸術の要塞、そして文化の頂点だった場所――旧・ルーヴル美術館。


 五十年前に起こった未曾有みぞうの事態から数年、AEPが発明されるとすぐに目ぼしい絵画はエネルギーに変換されることとなった。当然学芸員や芸術家、あるいは芸術を愛する人々からの反発は確実にあったに違いない。しかしどの本を開いてみても、そのような記録は残っていない。

 彼らの糾弾きゅうだんはせいぜい大衆の毛先をなびかせた程度で、世の流れを留めることはできなかった。なぜなら、人類が生き残るためには、絵画を犠牲にするより他に方法がなかったからだ。


 エネルギーショックの勃発により、いとも容易く陥落してしまった美術館の面影を残し、この地は発電所として生まれ変わった。絵画エネルギーを作り出す発電所として。

 またの名を、ルーヴル発電所といった。



 男は外の景色を眺めつつ、時おり少女に話しかけながら、ゆったりと車椅子を押して歩く。

 廊下をずっと行った先にはひらけた部屋があった。壁は今日の空によく似た灰色に近いオフホワイト一色で、やはり絵画の抜け落ちた額縁が星のように点々と飾られている。

 男はその中のひとつを見つめた。

 腕に収まるほどのこぢんまりとした額縁には、しかし他のものとは違い、絵画がはめ込まれていた。

 キィ、と小さな音を上げて車椅子の車輪が止まる。


 キャンバスには、一人の女性が描かれていた。黒いドレスを身に纏い、肘掛けの上で両手を重ね合わせる淑女の姿だ。

 彼女はキャンバスの向こう側からもの言わぬ瞳をもって、男と車椅子の少女を見据えている。その顔に、微笑みとも憐れみともとれる表情を浮かべながら。

 を待つ女のそれは、喪服であろうか。ならば周りに浮かぶ幾千もの額縁は、もはや名も忘れ去られた絵画の墓標ではあるまいか。


「まるで絵画の墓場・・だな」


 思わずといったふうに、男の口からぽろりと言葉が溢れる。その瞬間、廊下に誰かの失笑が響いた。男は顔を上げて廊下の先に目を向ける。


「随分と悲観的じゃあないか。私は揺りかご・・・・だと思っているがね。彼らが真の姿に生まれ変わる、神聖な場所だ」

「サンジェルマン伯爵」


 シルクハットを目深に被り、腰まで届くであろう白髪をなびかせながら、ひとりの男がひょうひょうとした足取りでこちらに向かってくる。


「少し本を読んでいたんです。芸術について記された昔の本を」

「ほう。そういった類の書籍は発禁扱いになっているはずだが」

「我々が回収したものです。シュリー翼の書庫に溜め込んでいるのをお忘れですか?」


 そうだったろうか、と伯爵は楽しそうに笑う。


「読み耽っているうちに、少しばかり感化されてしまったのかもしれません。ここが墓場などと戯言を……。AEPの還元率について、なにか法則性が掴めるかもしれないと思ったのですが」


 男は本に目を通していた理由を淡々と述べた。


「なるほど。それで、どうだったかね」

「さっぱりです」


 男は無表情のまま、肩をすくめてみせた。伯爵が声をあげて笑う。


「お疲れのようだな、シュリー翼長よくちょう。いや――ダニエラ・・・・ダリ・・


 サンジェルマン伯爵はシルクハットのつばの下で、瞳を三日月の形に曲げた。男は――ダニエラは微笑みを浮かべて軽く会釈する。


 リシュリュー、ドゥノン、シュリー。

 ルーヴル発電所内には、棟名にちなんで、そう呼ばれる三つの部門が存在する。


 リシュリューは、AEPに関するあらゆる研究を行う部門で、三つの中でも抱える人員は桁違いに多い。

 したがって、AEP科学者たちがルーヴル館内で研究を行うことはない。彼らは旧・オルセー美術館の建物を所有し、そこで日夜実験に勤しんでいる。そういう事情もあり、ルーヴル発電所は常に閑散とした静けさを保っていられるのだった。


 ドゥノンは修復部門の名称である。

 絵画をエネルギーに還元する前に修復を施し、その価値を高める仕事が大部分を占めている。数年前にドゥノン傘下に入った〈修復家協会エデン〉においては、並行して世界に散らばる価値ある絵画の収集も行なっている。


 ただ、これらの詳細を世間が知ることはない。というのも、ルーヴル発電所長であるサンジェルマン伯爵が、多くを語らない人物だったからだ。それどころか彼は従業員の前にすら姿を現さない。彼の姿を知り、言葉を交わす相手はほぼないに等しい。その数少ないうちの一人が、ダニエラである。

 サンジェルマン伯爵曰く、人類の安定した生活の基盤にはAEPが必要不可欠で、それらは幾度となく人類を裏切ってきた自然とは違うのだと。それだけを知っていればいいという。

 数少ない情報の開示のみでも、世界中の人間は彼の存在に心酔した。それはひとえに、彼こそがAEPを発明した偉大なる科学者その人だったからにほかならない。そして、「AEPによって元の生活が戻ってきた」という揺るぎない事実を目の当たりにしたことも大きいだろう。


「休暇でも取ればいい。どこか遠い、南の島にでも行って、足を伸ばしてきてはどうだ」


 伯爵は奇妙な長い白髪を揺らして笑い、ガラス窓の向こうに光るオンファロスへと目を向けた。


「非現実的な提案は止めてください、伯爵。肩を叩かなければ食事すら摂らない研究人間のあなたを置いてどこかへ行くなど、あり得ません」

「食事くらい摂らなくてもなんとかなる」

「…………それに」


 冗談めいた伯爵の言葉を無視して、ダニエラは続ける。


「お嬢様を一人にはできません」


 伯爵は右手でハットのつばを押し上げ、瞳だけをぎょろりと動かして少女に視線を向けた。


「ダニエラ、またお人形遊びをしていたのか? 今の今までお散歩にお喋りを?」

「人形ではありません」


 ダニエラは冷たい声で反論した。


「返事もないなら人形と同じことだろうに。…………ふふ、冗談だ。真に受けないでおくれ。君も春の木漏れ日のようにやさしい彼が好きだろう、眠り姫?」


 最後の言葉は車椅子の少女に対して放たれる。伯爵は、少女の金糸のような髪の毛を指で梳いた。雪のように真っ白な頬、閉じられた瞼から伸びる金色のまつ毛も、すべてが芸術のように美しい。

 ダニエラは角張った男の手が髪を梳く様を、ただひたすら無の瞳で見つめていた。


「それで、例の件はどうなった?」


 手を引っ込めながら伯爵が尋ねる。


「明日、エデンの者がルーヴルに帰還します。仮面収集についての最終的な結果報告はそこで上がってくるかと」

「うまくいったのかね」


 ダニエラは短く頷く。


「修復まで終えてしまったそうなので、こちらに到着すればすぐにでもAEPに還元できます。なんでも、偶然居合わせたコルシカ出身の修復家が作業を手伝ってくれたそうで」

「――コルシカの?」


 伯爵の眉がぴくりと動く。


「ええ。年若い少年だったとだけ聞いています。それがなにか……?」


 ダニエラは訝しげな表情で伯爵の様子をうかがった。伯爵はシルクハットを深く被り直してしまったので、はっきりとした表情はうかがい知れない。だが、その影から覗く口元は僅かに緩んでいた。


「その少年について詳しく話を聞いておいてくれ」

「少年について、ですか」


 ダニエラは曖昧に相槌を打った。普段は研究にしか興味を示さない男が、それ以外のことに食いつくなんて、極めて珍しいことなのだ。


「それでは、私はまたしばらく自室に篭るとしよう」


 踵を返して廊下を戻る背中に、ダニエラが慌てて声を掛ける。


「今夜のフランス大統領との会食、お忘れではありませんよね」

「……今日だったか?」


 やはり忘れていた、とダニエラは心の中で嘆息する。


「ダニエラ、新しいタキシードとシルクハットを用意しておいてくれ。準備が出来たら呼びにくるように。私は研究の続きに戻るよ」


 伯爵はシルクハットを頭からかぽっと外し、背を向けたままそれを旗のように振ってみせた。



 シュリー。それはルーヴル発電所の運用及び全てを統括する中心部門。そしてそのシュリーを統べる長の名は――ダニエラ・ダリ。

 彼はサンジェルマン伯爵の姿が見えなくなるまで、律儀にその背中を見送った。


 再び廊下に静寂が訪れる。

 ダニエラは車椅子に座ったままの少女を見下ろした。脳裏には、先ほどなんのためらいもなく美しい髪の毛をかした男の手が過ぎった。忌々しい映像を振り払うかのように、ダニエラの手が少女へと伸びる。

 しかし、まるで透明の壁にでも阻まれたように、伸ばされた手は途中でゆるゆると空を落ちていった。


 ダニエラはそのまま崩れ落ちるようにして床に両膝をついた。

 図らずも懺悔するような格好で、彼は少女を見上げる。その神々しい美しさを前に、ダニエラの胸は打ち震えた。


 オンファロスの前に固く瞼を閉ざしたままの眠り姫。


「どうか目をお開けください」


 ダニエラはきつく両手を組み、そこに額をぶつけて平伏した。

 伏せた額に親指の爪先が食い込む。

 絞り出された男の悲痛な呼び声は、しかし少女の耳に届くことはない。


「私は、私はここにおります――カノンお嬢様」


 誰もいない廊下に、男の声だけが虚しく木霊した。

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