第42話 仮面舞踏会(5)
一方その頃。ロクスはというと、ダンスホールの隅でぽつんと佇んだまま、ひとり虚しく女性の手をとる真似をしていた。
ステップ、ステップ、ターン――。
空を切る己の手を見つめ、ロクスは虚しさとともに溜め息を吐いた。
最後に別れた女の人はひどく不機嫌そうに手を振りほどいて、一瞬のうちに人混みの中へと消えてしまった。ひとりで踊るのと手を取り合いながら踊るのとでは、やはり勝手が違う。なにが不満だったのか、はっきりとした原因は定かではない。けれど、きっと自分が失礼なことでもしたのだろうと、ロクスは肩を落とす。
結局、手紙の主とは会えずじまいだ。
否、もしかしたらすれ違っていたかもしれない。さらに言えば、踊った相手の中に手紙の相手がいたのかもしれない。ならばせめて最後の女の人以外であってほしい……。考えても仕方のないことを、ロクスは頭の中で悶々と繰り広げた。
考えを巡らすのにも飽きて、中庭に面する窓の外へ目をやった。
白み始めた空に、霞んだ満月が浮かんでいる。
マスカレード・カーニバルは、夜明けと共に幕を閉じる。魔法はいつかは解けるものだ。夜が明ければ人々は何事もなかったように日常へと戻っていくのだろう。仮面を脱ぎ捨て、岸の向こう側へ。
それでもロクスは辛くなかった。ロダン家のやってきたことが無駄ではなかったと、今目の前に広がる光景が証明していたからだ。
誰も仮面を指差して下劣な笑い声をあげている者などいないし、むしろそれを身につけることで心踊らせ、様々な枷を外し、楽しんでいる。
薄暗い歴史によってまるで腫れ物にでも触るような扱いを受けてきた仮面職人でも、必要とされるときがくるということ。さらに言えば、自分の作った仮面が、誰かを楽しませている事実。
それを確かめることができて、ロクスは満足だった。
このままカーニバルの終わりを見届けようと、中庭へ続く扉に足を向けたときだった。
「ロクス!」
人混みの中でもよく通る声が、少年の足を引き止めた。振り返ると、背の高い男が人混みから抜け出して、こちらに向かってくるところだった。特徴的な黄緑色の前髪が、二股帽のピエロを模した仮面のすそからべろんとはみ出ている。
「ニ、ニコラスさん?」
ニコラスは慌てる少年の手を引っ掴み、ぐんぐんと群衆を掻き分けてどこかに向かう。
「ちょ、ちょっと待っ……どこに行くの……?」
「カーニバルのおしまいに、ちょいとパフォーマンスをぶちかましてやるのさ。あんたには特等席をあげようと思ってね」
「パ、パフォーマンス?」
驚いたせいで、ロクスの声が裏返る。
パフォーマンスというと、ニコラスが踊るのだろうか。それを特等席で見せてくれると言うのだから、願ってもない誘いだ。
だが、自分なんかが一番近くで観覧してもいいものかと、ロクスはおどおどしてしまう。
「そうさ。エンディングに相応しい、とっておきのね」
振り返ったニコラスの瞳が、仮面の奥でにやりと笑った気がした。
と、軽快だった足が、中庭とホールを仕切るガラスドアの前でぴたりと止まる。ニコラスは続け様にロックを外していき、次いでびょうぶ式にばたんばたんとドアを折り畳みはじめた。
踊りに酔いしれていた人々が、その異変に気付いて何事かと視線を寄越す。
「あの、ニコラスさん……なんだか、み、見られてる気がするけど……!」
「うふふ。大丈夫、大丈夫」
「うう、そうなのかな……」
群衆のうろんな目つきにロクスがあたふたしている間に、ニコラスはすべての窓を折りたたんでしまった。ぽっかり開いた横長の穴から、水で溶いたようなすみれ色の空が覗く。早朝の冴えた空気が霧とともに、まるでドライアイスのように室内に流れ込んでくる。
群衆のざわめきを背景に、ニコラスは霧の立ち込める中庭へと歩いていく。そうして中ほどまで進み、くるりと振り向いたかと思うと、ニコラスは左手を背中に、右手を腹の前に据えて、仰々しく一礼した。
ロクスはあっと息をのむ。その所作は、数年前にサーカステントで見た姿とそっくりだった。
「なんだなんだ?」
「なにか始まるのかしら?」
いよいよざわつきはじめた群衆のまん前で、ロクスは彼が一体なにを始めるのかと固唾をのんで見守り続ける。
ニコラスは仮面を付けたまま下げていた頭を持ち上げ、両手を左右に広げた。
「私は名もなきパフォーマー。今回、このような歴史あるカーニバルの復活にお目にかかれて大変光栄に存じます。みなさま、一夜の魔法を存分にお楽しみになったことでしょう。――そこで、閉幕に際しまして、僅かな時間ではございますが、みなさまにエンディングパフォーマンスをお送りしたいと存じます」
たんたんと述べた後、ニコラスはパチンと指を鳴らした。
その瞬間、背後で管弦楽団の楽器がジャアンとわなないた。次いで、濁流のような躍動感溢れる激しい音楽が、ホールいっぱいに響き渡る。群衆のざわめきが一層大きくなる。
その真っ只中で、ピエロの仮面の男は、一人激しく踊りはじめた。
「この、踊りって……」
ニコラスの踊りを目の当たりにして、ロクスは息をのんだ。
それは、ロクスとニコラスが二人でこっそり家を抜け出し、マキの森で練習を重ねた踊りだったのだ。
カポエイラという既存の踊りの存在をロクスは知らない。その踊りが自由を欲する解放の踊りだということも。そして、少年の創り出した踊りがカポエイラによく似ていることも。
知らなくても、身体は自然と求めてしまう。ニコラスの鍛え上げられたしなやかな四肢が空を切り、宙を蹴り上げるたび、ロクスの身体は知らずリズムを刻もうと小さく揺れた。
そのとき不意に、激しい踊りの中で、しなやかな右腕がこちらへと差し伸べられた。
ごくりと、咽頭を上下させる。
――踊りたい。ニコラスさんと、踊りたい!
ロクスの中でなにかが爆ぜた。
気がつけば、躍動の渦への誘いに自ら手を伸ばしていた。
内からもの凄い勢いでせり上がってくる力に引っ張られ、ロクスは嵐のように霧のステージに舞い上がる。ダンっと足を踏み鳴らせば、霧がふわっと四方に飛散した。
それを合図に、二人はまるでなにかに取り憑かれたように体を捻り、魂が昇華されそうなほど激しくリズムを刻んだ。
拳を突き上げ空を割く。己の中に閉じ篭っていた気持ちが、四肢の末端から大気に抜けていく。
左手を地について倒立し、左右の足で宙を蹴る。何度も何度も蹴り上げる。二人の足が時おり交差する。
肘を曲げ、肩を大地につけたら、そこを軸にして逆さのまま勢いよく身体を回転させる。バネのように空中を飛び、足から着地。右足で後ろ蹴り。回転方向を変えて、左後ろ蹴り。今度は右手を地について倒立し、両足で走るように宙を蹴り上げる――。
激しさを引き連れたまま、ロクスは最後に拳をひと振りし、地面に叩きつける。同時に、ダンスホールから星が燃え尽きる瞬間のような音の爆発が起こった。
一瞬の静寂――。
やがて、わっと群衆から盛大な拍手が沸き起こった。
ロクスはゼイゼイと肩で息をしながら、多大なる祝福を全身に浴びた。
ドクドクと耳元で聞こえる心臓のうるさい音も、身体中を滝のように流れる汗さえも、今は心地よかった。
観客がはけはじめた後も瞼を閉じて余韻に浸っていると、ニコラスに背中を盛大にぱしんと叩かれた。
「……!?」
「あっはっは。たいしたもんだよ、あんた」
「ニコラスさん、僕……僕、すごく楽しかった」
本当にありがとう。そう続けようとしたロクスを遮って、ニコラスは懐から白い封筒を取り出した。差し出されたそれを、ロクスはおそるおそる受け取る。
「これは?」
ペラペラと封筒を何度も裏返し、裏表を確認する。宛名も宛先もなにも書かれていない、真っ白な封筒だった。
「もしもあんたに夢を追いかけてみたいって気があるんなら、ぜひ行ってほしいところがあってね」
ニコラスは頬を掻きながら、珍しく歯切れの悪い物言いをする。視線をぐるりと空へ巡らせ、彼はしばらく逡巡した後、決心したようにロクスを見た。
「あんた、
「…………え?」
一瞬、言葉の意味を捉えきれなくて、ロクスは間抜けな顔で目をぱちくりさせた。しかしすぐに電流でも流されたように飛び上がり、声のない叫びをあげた。
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