第42話 仮面舞踏会(4)

「どこに行っちゃったの、ルカ……」


 ひとり中庭のベンチで項垂れながら、ニノンは弱々しく独り言を漏らした。

 空にはあいかわらずべったりとした厚い雲がかかっていて、夜空に星明かりはない。時おり、夜明けに向けて傾きはじめた満月が雲間から顔を覗かせるくらいだ。


 あれから、ニノンは必死になってルカの姿を探した。だが彼はおろか、見知った顔に一度も会うことはなかった。

 こうまで人数が多いと探すのも一苦労だ。おまけにタキシードに身を包んだ名も知らぬ男に次々と手を差し伸べられ、今の今まで休む暇なくワルツを踊っていたので、ニノンは心身ともにくたくたになっていた。


 頭を垂れたまま視線を自身の足に移すと、赤く染まったかかとが目に入った。ああやっぱり、とニノンはため息をついた。両足とも靴擦れを起こしている。慣れないヒールを履いて踊ったせいだ。

 途中からじくじくと痛みを感じていたけれど、認めてしまえば余計に痛みが増してくる。


「はぁ……こんなにおめかしするんじゃなかった。ルカはドレスにしか興味ないし。たしかにドレスは綺麗だけどっ」


 支度室から出てきたときのことを思い出して、ニノンは悲しいやら悔しいやらで泣きたくなった。


「ニノンちゃん?」


 ぐずぐずとやっていたら、不意に暗闇から声をかけられた。ニノンは顔を上げて、明かりの漏れるホールの出入り口へと目をやる。


「クロエっ、……と……え?」


 立ち上がりかけて、ニノンはぱちぱちと目を瞬いた。夜の始まりのような色のドレスに身を包んだ彼女の隣に、背の高いスラッとした男が立っていたからだ。


「クロエ、その隣の人って……!」


 ニノンは足の痛さも忘れて駆け寄った。その勢いに気圧されたのか、クロエが僅かにたじろぐ。


「ほら、あの、ハンドクリームの人・・・・・・・・・よ」


 りんご色に頬を染めながらしおらしくぼそぼそ言うクロエを気にせず、ニノンは「ジルさん!」と遠慮なく叫んだ。二人は同時に肩を跳ねさせ、周囲を窺うようにそわそわと体を揺らす。

 実を言うと、初対面の印象が非友好的だったこともあり、ニノンはこの男が少し苦手だった。だからクロエの事も勝手に心配していたのだが、そんなものは杞憂だったらしい。


「会えてよかったね!」


 ニノンがにっかり笑えば、クロエも恥じらいながら小さく頷いた。友人の幸せそうな笑みを見ていたら、心があたたかくなってくる。


「ところで、ニノンちゃんは休憩中?」

「ああ、うん。それがね……」


 ニノンは曖昧な相槌を打つ。幸せな気分が一転、ニノンの心は再び暗がりへと転がり落ちていった。


「ルカとまだ踊れてなくて。人が多くて、見失っちゃったの」


 言葉にすると余計に虚しくなった。

 自分はこんなところでひとり、一体なにをしているのだろう、と。だけど、クロエが幸せそうだしまぁいいか、とも思った。そこからニノンの思考が「ドロシーは無事王子様を見つけられたのかな」とまた他人に移りはじめたとき、クロエが思い出したように両手を合わせた。


「ルカ君ならさっき見かけたわ」

「えっ! 本当!?」


 勢いよく一歩踏み出すと、右足のかかとがずきりと痛んだ。けれどそれよりも、ニノンの胸は興奮でいっぱいになる。


「ええ。たしか、弟が作った仮面を被ってたわよね。見間違いじゃないなら、管弦楽団のすぐそばあたりで――誰かを探してるように見えたのだけれど。もしかしてルカ君、今もニノンちゃんを探してるんじゃないかしら?」

「ルカが私を……?」


 がばっと顔を上げ、ニノンは光の漏れるガラスドアへと目を向けた。

 あの中にまだ、自分を探している少年がいる――。

 とく、とく、と心音が緩やかにスピードを増していく。


「私、行ってくるね!」


 ニノンはたまらず走り出した。足の痛みなんて気にしていられない。ヒールやドレスの走りづらさも関係ない。セットが崩れてもいい。今すぐ会いに行かなくちゃ――ニノンの頭の中はただひとりの少年と踊ることでいっぱいだった。

 光溢れるダンスホールへと飛び込む少女を、クロエとジルベールは微笑ましい気持ちで見送った。



 再びダンスホールに舞い戻ったニノンは、視界いっぱいに広がる雑踏をかき分けて、一心不乱に黒髪の少年の姿を探した。

 派手なドレスの女が振りまくきつい香水をくぐり抜け、差し伸べられる男の手に目もくれず、必死になって人混みの中に目を凝らす。


 通り過ぎる男、女、女、男、仮面、仮面。

 流れに逆らって進むニノンに、いくつもの穴の奥から苛立たしげな視線が向けられる。

 しかし、当の本人はそれどころではない。このダンスホールのどこかにルカがいると分かっていても、ニノンの心に焦りは積もるばかりだ。


――いいよ、踊ろうか。


 ダンスの誘いを受けてくれた少年の、控えめな笑みが頭に浮かぶ。

 そこに他意がなかったとしても、ニノンは幸せだった。少し先の未来を約束するということ自体が、どうしようもなくうれしかったから。


 だが、蒸せ返る熱気にあてられて、突如ニノンの視界がブレた。酸素が薄くて頭がぼうっとする。

 やがて、煌びやかなシャンデリアが、色とりどりのドレスが、ホールの天井画が、水滴を垂らした水彩画のように滲む。


――あ、なんだか、ヤバ……。


 人々のざわめきも壮大なオーケストラも、ふっとロウソクの火を吹き消すように遠のいた。


 瞼の裏、暗闇の中で、なにかが赤く爆ぜた。

 轟々と音を立てて燃え盛る、火の渦。身に浴びせられる熱の塊。息ができず、部屋の隅に丸まって、迫りくる炎をただ見つめることしかできなくて……。


「(あれ、これって、いつの記憶、だっけ……)」


――ニノン、やっと見つけた!


 朦朧とする意識の中、ニノンの手首を誰かがぐいっと掴んで引き起こす。顔を上げると、見知った黒髪の少年が、泣きそうな顔でこちらを覗き込んでいた――。


「ニノン、やっと見つけた!」


 背後からクリアな声が聞こえて、ニノンの意識は現実に引き戻された。バランスを崩してよろけた身体を、後ろからやんわりと抱きとめられる。


「ル……ッ」


 その名を口にしかけたニノンの言葉を遮って、ルカは真剣な顔で尋ねる。


「足、怪我してるの?」

「えっと、うん、あっでも大したことないから」

「あっちに行こう」


 ルカは有無を言わせない力強さでニノンの手を引き、ダンスホールの壁際まで移動した。

 ニノンの心臓は、ルカに再会できた喜びと、先ほど見た白昼夢の恐怖でいまだ激しくドキドキしていた。一刻も早く不快感を拭い去りたくて、ニノンは気付かれないように深呼吸を繰り返す。

 裾を持ち上げれば、先ほどよりも赤みを増した踵が顔を覗かせた。ルカは何を言うでもなくポケットから白いハンカチを取り出して、すばやくその場にしゃがみ込み、それをニノンの踵と靴の間にかませた。


「ハンカチが汚れちゃうよ!」

「大丈夫。どうせ汚れてるものだから」

「でも」


 ぐずぐずしている間にルカは立ち上がり、さっとニノンの手をとった。


「それよりほら、踊ろう。見つけるのが遅くなってごめん」


 ルカは律儀に謝って、そしてぎこちなく微笑んだ。途端に、ちくちくと胸を指す甘い痛みが広がる。それだけで、ニノンの心はたちまち真っさらになった。


「……うんっ」


 見計らったように、ワルツの始まりの音が二人の間を駆け抜けてゆく。

 コントラバスの低音がド、ド、と心臓を叩く。二人ともぎこちない足取りで、だけどしっかりと手を繋ぎ、音楽にのって踊り続けた。


 生まれて初めてダンスを踊ると公言していたとおり、ルカの動きは精度のいいロボットのようだった。だけど時おりニノンの様子を窺って、テンポを落としてくれたりする。さり気ない気遣いがうれしくて、ニノンは仮面の裏でこっそりと顔を緩めた。すると、青い瞳もそれに合わせて細まったように見えた。


「ルカ」


 踊りながら、ルカはん、と少しだけ首をかしげた。


「見つけてくれて、ありがとう」


 ルカは目を瞬き、それから当然だというように頷いた。

 ニノンはそれっきり喋るのをやめた。先ほど脳裏をよぎった悪夢でさえ、今は霧が晴れたように姿を消していた。


 たとえ明けない夜が世界を覆ってしまっても、ルカと一緒なら大丈夫な気がした。覚めない悪夢も幸せな夢に変わる。きっと暗闇だって怖くないと思えた。

 幸せにまどろみながら、ニノンは握った手にいっそう力を込めたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る