第42話 仮面舞踏会(3)

 すっかり夜が更けても、ダンスホールは魔法にかけられたように賑やかさを増す一方だった。

 オーケストラが奏でるワルツを背景に、相手を変えくるくると踊り続ける仮面の男女たち。むせかえる情熱とひしめく煌びやかな群衆を、クロエは少し離れたところからぼんやり眺めていた。



――市長から連絡があった。カーニバルは大盛況だと。喜んでおられたよ。


 しわがれた父の声が耳元に蘇る。

 カーニバル初日の朝の出来事を思い出す。父親に呼び出された姉弟は、ベッドの前に佇んでその声を聞いていた。しわだらけの横顔は、しかしずいぶんと血色がいいように見えた。


――お父さんは、祭りには行かないの?


 クロエが尋ねると、父親はゆったりと首を横に振った。


――若い頃にさんざん楽しんださ。お前たちも夢中になるだろう。カーニバルは良い。人に夢を見させてくれるよ。もうずっとずっと昔からそうだったようにね。


 隣でロクスがなにかを言いかけて、決まりが悪そうに俯いた。父親の口から、掠れた笑い声が漏れる。


――もしも夢を見つけたなら、手放さず、持ち帰りなさい。

――……?

――夜が明けても、お前たちの未来が醒めることはない。


 姉弟が揃って視線を上げると、父親は窓から差し込むやわらかな光に包まれて、目尻をほころばせていた。


――いえの外で、思う存分カーニバルを楽しんできなさい。




 人々のざわめきが耳に戻ってくる。

 クロエは自身の足元に目線を落とした。薄紫のシックなモアレ生地が波打ち、表面のラメがシャンデリアの輝きを受けて、細やかに輝いている。

 結局のところ、父親がなにを伝えたかったのか、クロエはそのことについてずっと考えている。もしも夢を見つけたなら、手放さず、持ち帰りなさい。そう告げたときの父親の口ぶりは、まるで子どもたちの胸の内に眠る願いを見透かしているようにも聞こえた。


「(私の夢……私がなりたいもの……)」


 頭の中にぱっと思い浮かんだのは、島向こうに暮らす自分の姿でも、夫や子どもと慎ましやかな家庭を築く自分の姿でもない。

 父親の部屋で、くる日もくる日も仮面の制作に勤しむ自分だった。

 仕事を終え、くたくたになって帰ってきた日も、休みの日も、毎日のように父親の部屋でこっそり仮面作りに勤しんだ。あかぎれだらけの指先に水がしみても、濡らした紙を無心で型に貼りつけた。乾いた真っ白の仮面に絵筆で色を付けるときは、人知れず心が弾んだ。次はどんな模様にしよう、どの色を組み合わせるのがいいだろう――心が父親の部屋に舞い戻りかけて、クロエは小さく首を振った。


 これではまるで、自分が仮面職人になりたいと思っているみたいではないか、とクロエは自身を叱咤する。

 父親の部屋に足しげく通い、仮面制作の手伝いをしていたのは、カーニバルが仮面不足によって中止になれば町に迷惑がかかるからだ。そうなるのが嫌で、必死になっていただけに過ぎないのだ。


「(それに、女性は仮面職人にはなれないんだもの……)」


 クロエはキラキラと光を反射するシャンデリアをぼんやり見上げ、小さくため息をついた。自分はいつだって脇役に過ぎない。ダンスホールで手を取り合い情熱的に踊っている男女は、きっといま、誰しもが主演を務めている。それを陰から佇んで見つめているのが自分だと、クロエは思う。彼らが身分も立場も関係なく手を取り合うための仮面マスクを提供する、小道具係。

 そんな人生を悪いとは思わない。

 思わないが、せめて胸を張って、その人生を誇れたら。


 そんなことを思うようになったのは、修復家として真っ直ぐ生きる少年の、揺るぎない信条を垣間見たからかもしれない。自分の信じた道を疑わないその眼差しを、クロエは少しだけ羨ましく思った。

 彼らの見つめる先にはきっと何かが見えているのだろう。例えば目的や目標、あるいは夢なんかが。

 ならば私の夢とはなんだろう?

 浮かんだ疑問はクロエの頭の中をぐるぐる駆け巡る。

 自分らしく生きること、楽しいと思うこと――。


 ふと視線を感じて、思考にふけっていた頭を持ち上げた。

 目の前には、白黒のマスクを被った一人の男が立っていた。細長い腕が、こちらに向かって真っ直ぐに伸ばされている。


「あの……?」


 クロエは疑った表情のまま、男の仮面と手を交互に見た。シルクの手袋をはめた右手が「踊りましょう」と誘っている。戸惑うクロエに、男は背中を押すように深く頷いた。大丈夫です、手をとって、とやさしく語りかけられているようだった。

 少しだけ迷った後、クロエはその手を取ることにした。


「私、踊りがあんまり得意じゃなくて」


 マスクに阻まれて声がくぐもる。おまけに演奏は止め処なく続いているので、彼女なりに張った声も、目の前の人物にはおそらく届いていないのだろう。男は終始無言のまま、踊ることだけに徹している。

 かと思いきや、不意に男がぼそぼそと何事かを呟いた。


「え?」


 クロエが訊き返す。呼応するように、男は仮面の下で咳払いをした。


「クロエさん、ですか」

「えっ……どうして私の名前――」


 穴から覗く瞳が、弓なりに曲がった気がした。

 仮面の奥で、男が安堵したように笑ったのがわかった。


「香りがしたんです。あなたに渡したハンドクリームの、フリージアの香りが」

「あ……あなたは……っ」


 舞踏会に赴く直前、クロエは確かにあのハンドクリームを塗ったのだ。再び彼に会えるようにと、ささやかな祈りを込めて。


「ジルベールです。もう一度あなたに会って、きちんと謝りたかった」

「私――私もずっと、お会いしたかったんです。あなたにお礼が言いたくて」


 言葉が途切れ、互いに恥じらうように目を逸らす。握りあった手や腕を回された腰が、急に熱を帯びる。今更ながらに距離が近すぎやしないかと顔が赤くなる。ステップがぎくしゃくしてしまい、隣の貴婦人とぶつかった。

 二人は互いに顔を赤くしたまま、人波に揉まれ、必死にダンスを踊る。


「あなたに、伝えたいことが、あったんですっ」

「はっ……はいっ……」


 ジルベールが腕をあげ、クロエがその下をくぐる。


「もしよければの話なんですが」


 ワルツの演奏が、徐々にクライマックスへと近付いてゆく。

 腰に回された男の手に、くっと力が込もった。


「ワズワース家の従者として働いてはもらえませんか――専属の仮面職人・・・・として」

「……えっ?」


 クロエは思わず大声で聞き返していた。

 まさかそんな、と聞き間違いを疑わずにはいられなかった。

 仮面職人になる。それは、夢見ることも叶わない、自分でさえも認めようとしなかった、本当にやりたいことだったからだ。

 しかし、目の前の男の口調は真剣そのものだった。


「この三日間、町の様子を見ていて思ったんです。マスカレード・カーニバルはこの町に必要な存在だと」

「…………ジルベール、さん……」

「あ、いえっ、これは一個人の意見ですが、いやしかし、ワズワース様の要望でもありまして、つまりその――」


 突如うわっと響いたシンバルの音が、二人の言葉を呑みこんだ。

 クロエはハッと息を呑み、自分が今仮面舞踏会の真っただ中にいることを思い出した。

 止まることを知らないワルツの音色。見知らぬ男女がステップを踏む音。くるくると回るたびに揺れるドレスのスカート。シャンデリアの光を受けて輝く、ヴェネチアンマスクの装飾。

 周りに溢れる音が、色が、光が、こんなに鮮やかだったなんて、どうして今まで気がつかなかったのだろう、とクロエは思った。


 喧騒が二人を包む。口をひらいても、もう互いの言葉は届かない。

 クロエは声の代わりに、しっかりと一度だけ頷いた。


 慣れない胸の高鳴りに終わらないダンス。

 きっと夢中になるぞ、と言った父親の声がどこかで聞こえた気がした。

 仮面を身に着けている間だけは、人はみな身分や立場のしがらみから解放される。誰しもがただ一人の人間として、華やかなステージでスポットライトを浴びる主役となるために。


 そしてこの日、クロエは生まれて初めて主役になったのだ。

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