第41話 仮面舞踏会(2)
* adam
ワルツの演奏が始まってすぐに、アダムは踊りに身を投じた。
ティンパニとシンバルが一斉に騒ぎ立て、何回目かのワルツが終わる。
アダムは去り際に、女性の手の甲にキスしてみせた。仮面の奥に覗く、女性の瞳に情欲の炎が灯る。名残惜しげに伸ばされた白い手を、しかしアダムは仮面の奥で笑みをたたえて見送った。
マスカレード・カーニバルについて、アダムは話だけは何度も聞いたことがあった。かつて、この町の模倣元である〈イタリアのヴェネチア〉で盛大に執り行われていた、愛と情熱の祭りの名である。
実際のカーニバルは話で聞くよりもずっと激しく、そして躍動的だ。
仮面で自分を偽るから、本性以上の欲が具現化する。
小さなふたつの穴の先に見える視界は狭い。きっと踊る相手が変わったことにさえ気付かない者もいるのだろう。アダムは新たにやってきた年若い女の指に己の指を絡め、再び始まったワルツに合わせてステップを踏む。
それからしばらく何人かの女とワルツを踊った。最後は赤いルージュの涙が印象的な、フルフェイスの仮面の女だった。
女の指先が例によって名残惜しげに離れていったそのとき、不意にアダムの二の腕を誰かが力強く掴んだ。その力強さで直感的に分かったが、相手はおそらく女性ではない。
「ちょっ……」
ぎょっとして振り返れば、同じくらいの背丈の男がアダムの腕を掴んでいた。男は太陽を模した仮面で顔を覆い隠しており、一般的なタキシードや
「なっ、なんだよ、いきなり……!?」
男は答えず、不気味なほどの力強さでアダムをどこかへと引きずっていく。
「――おい、いい加減放せよ!」
中庭に連れ出されたところで、アダムは腕を掴む男の手を振りほどいた。
「悪ィけど俺、男と踊る趣味ねーから」
中庭は驚くほど物静かで、アダムの声はいやに響いた。
目の前に佇む男は微動だにしない。素顔も太陽の仮面に隠されていて、その表情は窺い知れない。それが余計に不気味さを煽り立てる。
ぬるい夜風が吹いて、ホールの熱気で火照ったアダムの体を冷やしていく。
「なんか返事しろよ。なんなんだよお前、いったいなにが目的だよ」
だんだん気味が悪くなってきて、アダムは思わず声を荒げた。
すると、今までいっさい反応を示さなかった男の仮面の奥から、くつくつとくぐもった笑い声が漏れてきた。
「それはこっちの台詞だろ」
「…………!?」
アダムの顔から一気に血の気が失せた。
仮面の向こうから聞こえてきた声が、自分のよく知る少年のものだったからだ。
どくん、どくん、と耳元で心臓が脈打つ。
褐色の骨ばった手が太陽の仮面を引き剥がし、頭をすっぽりと覆っていた黒いフードもばさりと外した。
仮面の裏から現れたのは、手と同じ褐色の肌に、色素の抜け落ちた白い髪。そして、氷のように冷たい水色の瞳。
「
「――ア、シン、ドラ……」
途切れ途切れに呟いてから、アダムは随分とその名を口にしていなかったことを思い出した。
彼はアダムとともに
「どうして、ここに」
喉が内側で張りついて、うまく喋れない。
アダムは思わずごくりと唾を呑みこんだ。
「遊びでここに来ているとでも?」
「そういう、わけじゃ……」
アシンドラはふんと鼻で笑った。
「所用でこの町に立ち寄ったんだ。たまたまお前を見かけたから、ひとつ忠告してやろうと思って」
言うや否や、アシンドラは太陽の仮面をぞんざいに傍へと投げ捨てた。仮面は芝の上をころころと転がり、中庭に植えられた低木の隙間にいってしまう。闇間に消える軌跡をアダムが呆然と目で追っていると、いきなり視界ががくんと揺れた。
「ア……ッ」
いつの間にかアシンドラが眼前まで詰め寄り、アダムの襟首を掴んでいた。氷よりも冷たい視線を向けて、少年は耳元でそっと呟く。
「あまりフラフラしていると、本当に
アダムの肌がぞわりと粟立つ。
薄水色の瞳の中、開かれた瞳孔の向こう側に、怯えた自分自身の顔が映っている。その瞳と目があった瞬間、忌まわしい記憶がフラッシュバックした。
肉の焦げるいやなにおいを、顔じゅうに纏わせて泣きじゃくる少女。
覆いかぶさるようにして必死に少女を庇う、少年だった自分。
太い腕に襟首を掴まれ、容赦ない力でうずくまる少女から引き剥がされる。
――ちがう、ちがうの、アダムがやったんじゃないの……!
ピンク色にただれた頬を晒しながら、少女は泣いて懇願する。
男はちらりとも一瞥せずに少女を突き飛ばし、なにか喚き散らしながらアダムを蹴りつけた。
背中に重たい衝撃が走るたび、骨が軋んで悲鳴を上げた。
耳をつんざく怒号、罵声。止まない痛み。
肉の焦げる、いやな臭い――。
「言われなくてもわかってる。今日のこれだって、別に楽しんでるわけじゃねえよ。人付き合いってのがあるだろ」
「ふん。どうだかな。俺は心配してやってるんだ。一応、
言葉とは真逆の少年の声色が、アダムの心を深く
幼いころからともに育ったふたりの男児は、一方が絵を描くことに、もう一方は物語ることに夢中になった。大きくなったら絵本を作ろうと約束を交わしたこともあった。かつて本当の兄弟のように仲睦まじく過ごした日々が、走馬灯のように頭をよぎってはあっけなく消えていく。
現実に目を向ければ、いっさい親しみの篭っていない眼差しを鋭くこちらに向けてくる白髪の少年だけがそこにいる。
「なあ、アシンドラ。孤児院のみんなは……ミモザは元気か?」
それでもなんとか昔の面影を引っ張り出したくて、アダムは気さくさを装って尋ねてみる。だが、かえってそれが相手の神経を逆撫でた。く、と胸ぐらを掴む手に力が籠ったのがわかった。
「そんなに気になるなら、自分で確かめればいい。それとも、孤児院に戻るのが怖いか?」
「アシンドラ、」
「言い訳なんて聞きたくない」
「違う、俺はっ!」
「だったら帰れよ。絵を描くことを選んでお前が捨てた、あの孤児院に――今すぐ帰れよッ!」
胸ぐらを掴んでいた拳に強く胸を押され、アダムは体勢を崩す。そのまま地面に腰を打ちつけた。息を吸い込むまもなく、視界が
立ち上がることができなかったのは、見上げた先にあった瞳がひどく冷たかったからだ。ダンスホールから漏れ出た明かりが、少年の輪郭を背後からオレンジ色にふち取っている。くぐもったワルツの音色がこの場にそぐわなくて、ひどく奇妙だ。
「アシンドラ……。お前、変わっちまったよ」
「俺が変わっただって?」
アシンドラは声を上げて笑う。それから表情を消して「馬鹿言え」と吐き捨てた。
「逆だろ。お前が変わってないだけだろうが」
アダムは咄嗟に口を開いたが、答えるべき言葉が見つからず、ただ唇をきつく噛み締めることしかできなかった。
「いつまで子どもじみた夢を追いかける気だ? 夢見ていい時代なんて、とっくの昔に終わってるんだよ。お前がやってることはただの
「俺は……」
その先に言葉が続くことはなかった。
去りゆく少年を追うこともできず、アダムは抜け殻のようにその場に座り込んだまま、ただただ彼が消えた先の暗闇を見つめることしかできなかった。
ふと見上げた夜空には、雲間から覗いた満月がやけに大きく輝いていた。けれど星は、群青色の分厚い雲に覆い隠されていて、ひとつも見当たらない。
オレンジ色の明かりが漏れるダンスホールのガラスドアから、一組の男女がするりと抜け出てきた。二人は一夜の逢瀬を楽しむために、ぼんやりと漏れ聞こえるBGMを背に、手を引き合いながら闇の中に消えていく。
こんなに楽しい夜はないはずなのに、アダムはどうしようもなく孤独だった。
そのとき、物陰からパキッと枝の折れる音がした。
びくりと肩を揺らして、アダムは暗闇に目を凝らす。
遠慮がちに姿を現したのは、クラウンを模した仮面の男だった。
「ニコラス……!? どうしたんだよこんなとこで。ダンスホールはあっちだぞ?」
動揺を隠そうと、アダムはいつにも増して明るい声を出した。ニコラスは仮面を外しながら、座り込むアダムを引っ張り起こす。
どっどっと心臓が早鐘を打っていた。
彼はいつからいたのだろう、話は聞かれてしまっただろうか――アダムの頭の中はそんな疑問でいっぱいになる。
「悪いね。立ち聞きするつもりじゃなかったんだけど。友だちかい?」
申し訳なさそうに肩をすくめる様子から、最初からすべて聞かれていたのだと理解する。いやな汗がアダムの背中を伝う。
「あいつ、孤児院で一緒に育った家族なんだ」
かろうじてそれだけを絞りだす。アダムは次の言葉を必死で手繰り寄せようとするが、うまく舌が回らなかった。どっどっどっ、と心臓が耳元で激しく鼓動を刻み、思考の邪魔をする。
聞かれていた。
自分が家族といざこざを起こしている場面もすべて、見られていた。
ここから飛び出して、地球の裏側にでも逃げ込んでしまいたかった。
「そうなの」
だがニコラスは、呆気なく相槌を打っただけだった。
「ところでアダムちゃん、ニノン見かけなかった?」
「……はあ?」
「ニ、ノ、ン。さっきから見当たらないんだよ」
中庭に人影がないことなどわかりきっているのに、ニコラスはそれでもきょろきょろとあたりを見渡すふりをしている。
口をぽかんと開けたまま、アダムは彼の動きを呆然と目で追う。
話題を逸らすにしては唐突すぎやしないだろうか。
おそらく、ニコラスは本当に立ち聞きするつもりなどなかったのだろう。たまたまアダムを見かけて近付いてみたら、込み入った話をしていたのだ。だからその場から動けなくなっただけで。
しかも彼は、アシンドラが立ち去った後、気まずい空気を承知でこうして話しかけてくれたのだ。黙って立ち去ることもできたのに。でも、落ち込んでいるであろう仲間を、放ってはおけなかったのだ。
気がつけば、アダムはふっと小さく笑っていた。
「ニノン、ニノンって、ボディーガードかよ。もっと自分で舞踏会楽しめばいいじゃねえか」
「ま、いいわ。見かけたら教えてちょうだい」
「おう」
何事もなかったかのようにダンスホールに戻っていく背中を、アダムは片手をあげて見送った。
しかし数歩行ったところで、ニコラスは思い出したように引き返してきた。そのままアダムの体を後ろに向かせ、尻をばしばしと叩きはじめる。
「いってえな、なにすんだよ!」
「ケツに草つけてダンスホールになんか戻るんじゃないよ、みっともない」
最後に盛大な一発をお見舞いして、今度こそニコラスは踵を返した。
「なぁ、ニコラス」
服装のせいか、ふだんよりもずいぶん大きく見える背中に、アダムは慌てて声をかける。
「さっきの事さ、ルカとニノンには言わないでくれよ」
みっともない姿を晒したくねんだよ、と拗ねたように付け足す。
新しく見つけた居場所の中ではせめて、頼れる兄貴分でいたい――言外の願いが伝わったのかどうか、ニコラスは小さくひとつ、頷いた。
「大丈夫。言わないよ」
背を向けたままニコラスは、「けどね」と続ける。
「我慢できなくなる前に頼るんだよ。少なくとも私は、あんたより何倍も生きてる。あんたなんか、私から見ればまだまだケツの青いガキなんだから」
何倍もというのは言い過ぎだし、わざわざそれを言うために引き返してきたのかと考えると、やっぱりニコラスは不器用だし、お人好しだった。
そんな不器用な優しさが、今のアダムにはうれしかった。
そわそわと体の中に広がるむず痒さを払拭しようと、アダムは意味もなく鼻先をこする。
「俺も、そろそろ戻ろっかな。まだ巡り合ってない美女がたくさんいるだろうし」
「アダムちゃんってほんと、喋らなきゃイケメンなのにね……」
「あ?」
「なんでもないわ」
綺麗になったはずの尻を自分で二、三度叩いたあと、ニコラスの背を追いかけるようにしてアダムはダンスホールへと駆け出した。
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