第41話 仮面舞踏会(1)

 カーニバル三日目。

 ニノン曰く、ドロシーには三日目の夕方に屋敷に来てほしいと言われているらしい。それまでゆっくり睡眠を貪ろうと思っていたルカだったが、早朝からニノンに引っ張り起こされ、町に出た。


 シンプルな黒のマントを羽織っただけの居出立ちで、四人は路地をそぞろ歩く。頭はフルフェイスの仮面に加えて帽子まで被ってしまうので、最早誰が誰だか分からない。


 カーニバルが開催されている間、その名に相応しく、ヴェニスの町は彩り豊かな仮面で溢れかえった。人々は皆気に入った仮面で顔を覆い隠し、手製のマントや豪勢な衣装に身を包んで、明るいうちから狭い路地を闊歩かっぽしていた。

 明るいと言ってもヴェネチアの町は小路地が多く、こまごました建物が四、五階分、ぎゅっと凝縮したように建ち並んでいるので、日中でもどこか薄暗い。町の中央を通る太い運河から毛細血管のように水路が分離しており、その水路に沿って町ができているからだ。

 見上げた空は切り取られたように小さい。さらに朝方は、そのわずかな空さえも濃い霧に阻まれて薄く霞んでしまう。

 まるで、朧げな夢の中にいるような心地だった。


 薄くかかる霧の向こう。路地の先にふいっと現れては消える仮面。

 小さな橋を渡った先にあるカフェでは、テラス席に座り優雅にお茶を楽しむマダム達の姿があった。かと思えば広場ではフェイクファーをたっぷりと使った仮面の男や女が、マントを翻して歌や踊りに興じている。図書館前のベンチでは、小太りの仮面の男が酒のボトルを抱えて、リズムに乗って体を揺らしていた。


 何十年ぶりかの祭りを、きっと誰もが楽しんでいるのだろう。仮面の穴の向こう側に広がる景色を眺めながら、ルカは幻想的な町の雰囲気を楽しむ。そうこうしているうちに、あっとうまに夕暮れ時になった。


「そろそろドロシーのところに行こっか」


 先陣を切ってずんずん進むニノンの背中を追いながら、一同は小路地を進む。倒壊しそうな建物の合間を縫って歩き続けると、やがて視界がひらけて、すっきりと晴れたオレンジ色の夕空が頭上に広がった。突如目の前に現れた豪邸は、ヴェネチア市長・ワズワースの住まう屋敷である。


「あら、これはまた……」

「デカさがえぐいな」


 巨人の家みたいだ、と胸中で呟くルカを含め、三人は初めて見る豪邸の大きさに気後れした。ニノンは何度かここに立ち寄ったことがあるからか、元来の性格か、まるで気の置けない友人の家に遊びにきたかのようなリラックス具合だ。

 四者四様の客人を、鉄格子製の正門の向こうに立つ召使いが数人、にこやかに出迎えた。





「俺たちが和紙を作ってる間、まさかニノンが俺たちの衣装の準備をしてくれてたなんてな。てっきり俺はよォ、またどっかふらふら遊びに行ってんのかと思ってたぜ」


 パーテーションの向こうからアダムが大きな声で話しかけてくる。試着室を出てからでもいいだろうに、彼は常に喋っていないと死んでしまうタイプなのかもしれない。

 ルカは相槌も返さず、手元のボタンに集中する。先ほど召使いから簡単に着用説明を受けたものの、正装なんてしたことがないから勝手がわからない。


「それにしても、まさかルカがナンパした子がお嬢様だったなんてな」


 ナンパじゃない、と言い返そうとしたとき、壁の向こう側から立て続けに扉の開く音がした。喋り続けていた男が、どうしてそんなにも素早く着替えられるのか。焦りながら着替えを済ませてルカが試着室から出ると、そこには既に正装したアダムとニコラス、ロクスの姿があった。


「ごめん、遅くなった」


 アダムとロクスは黒のタキシードに黒のタイ、ニコラスは黒の燕尾服に白のタイという井出立ちだ。対してルカは濃紺ミッドナイトブルーのタキシードだ。

 髪色のうるさい二人組は、高身長ということもあって正装が様になっている。ボサボサの前髪のせいなのか、ロクスはなんと言うか、全体的にもっさりしている。

 ニコラスの目が、品定めでもするようにルカの頭からつま先までを行き来する。かと思いきや、おもむろに目の前にやってきて、ポケットの中から丸い缶を取り出した。ニコラスが愛用している整髪剤だ。


「えっと、あの……ニコラス?」

「動かないでちょうだい」

「あ、はい」


 ニコラスは缶からこってりとしたクリームを指先ですくい取り、手で馴染ませてから、ルカの髪の毛を手早く整えた。「うん、いい感じ」と満足げに呟くニコラスが、どこから出したのか小さなミラーをルカに手渡した。普段くしで梳かしさえしないボサボサ頭の黒髪が、今はつややかさを伴って、後ろにきっちり撫でつけられている。額が全体的にあらわになっているので、なんだかスウスウとしてルカは落ち着かない気分になる。


「おー、いい感じじゃん」

「やっぱりね。ルカ、あんたアップバングスタイル似合うじゃない」

「でもちょっとスウスウして気になる」

「あっ、こら触るんじゃないよ」


 無意識に頭に伸びた手を、ニコラスに慌てて引っ張られる。


「せっかくだからロクスもやってもらえばいいのに。それ、前見えなくね?」

「ぼ、僕はいいよ。前髪上げるなんて、ぜ、絶対ムリ、ムリだから」


 ロクスがもさもさの前髪を揺らしながら全力で首を振って拒んでいると、「あの子らも来たよ」とニコラスが顎で廊下の先を指した。

 女性用の支度室の前で、コットンキャンディのような三つの塊がふわふわ動いている。淡い黄色とピンク、紫、濃い水色のドレスをそれぞれ揺らしながら、少女たちはなにやら囁きあってはくすくすと笑っている。


「おまたせ。待った?」


 ヒールのある靴を履きなれていないせいか、ニノンの足取りはどことなくぎこちない。普段頬の横に垂れ下がっている髪の房はサイドに編みこまれ、後ろ髪もすっきりとまとめられている。いつもと違った印象を受けるのは、髪型のせいだろうか。それとも、うっすらと施された化粧のせいだろうか。どこか貴族の娘を思わせる気品が漂っているように感じる。

 じっと見つめていると、ニノンは恥ずかしげに身じろぎした。


「……似合ってない?」

「え? そんなことないよ」


 ルカは正直に答えて、改めて少女が身に纏うドレスを眺めた。

 淡いイエローとピンクのチュールが折り重なって、ドレスは裾に向かうにつれて柔らかいグラデーションを作り出している。明るい色合いがニノンにぴったりだとルカは思った。


「とくに裾の色の重なりが見事だと思う」

「裾の色の重なり」

「うん。こことか、こことか、ピンクとイエローが混じってオレンジっぽくなってるところがすごく綺麗だと思う。透明感があって」

「そっかそっか、ドレス綺麗だよねー」


 ニノンは仮面のような笑顔を貼りつけたまま、奇妙な空気を残して二人の少女の元へ駆けていってしまった。

 耐えかねたニコラスが、首をかしげるルカの背中をばしんと叩く。


「えっ、いたい」

「ほんっとに、あんたってやつはね」


「?」と顔を向けると、ニコラスは前髪を揺らして吹きだした。どうして笑われたのか、ルカにはわからない。そして、ニノンが醸し出した奇妙な空気の正体も。

 腑に落ちないままルカは壁掛け時計に目をやった。

 もうすぐ午後七時になろうとしている。

 仮面舞踏会の始まる時刻だ。



*Ninon



 豪邸の中でも一番の大きさを誇る多目的ホールが、今宵はこの町で唯一のダンスホールに姿を変える。

 時間ぎりぎりに到着したこともあって、ダンスホールはすでに着飾った貴婦人や紳士達でごった返していた。ニノンたちは群衆の後ろの方で舞踏会の開宴を待つ。

 前方のステージでは、恰幅のいい燕尾服姿の男がマイクを手になにやら挨拶をしている。


「ねぇねぇ、クロエの弟って前髪切らないの? もっさもさよねえ」

「ドロシー、声大きいよ!」


 人差し指を唇の前で立てながら、ニノンは小声で咎める。ドロシーは慌てて口を手で押さえながらも、くすくす笑いを漏らした。カーニバルの熱気にあてられて、いつも高い彼女のテンションはもはやメーターを振り切っている。


「だって、ふふふ。触ったら気持ちよさそう!」


 そのもさもさこそがあなたの夢見る王子様なんですよ、とはとても言えない。


「そういえば、クロエって踊りたい相手いたりするの?」

「え、私?」


 突如ドロシーに話を振られたクロエはまごつくばかりだ。

 もちろん、ドロシーはクロエが誰と踊りたいかを知っている。だからドロシーは、恋する乙女のお手本のように顔を赤らめるクロエに対して、必要以上の笑顔を滲ませている。そんなに露骨ににんまりしていたら怪しまれるのではないかと、ニノンはハラハラした。


「ね、ねぇドロシー。お父様の挨拶、聞かなくていいの?」


 するとドロシーは水を打ったように真顔になり、至極つまらなさそうに「あー、いいのいいの」と顔の前で手を振った。


「お父様ってば、ああ見えて緊張しいなの。だから私、朝から三回も挨拶のリハーサルを聞かされたのよ! これで四度目!」

「それは聞かなくていいね」

「でしょう? もう暗記しちゃうレベルよ! どうせ何度も聞くなら楽しいおとぎ話の方がいいと思わない?」


 ドロシーは一気にまくし立てて、「えー、本日はお日柄もよく……」などと頬を膨らませながら父親の真似事を始めた。いつものことなのか、周りの貴婦人達からは、見守るようなくすくす笑いが漏れる。


「ドロシーちゃんとお父様って、とっても仲がいいのね」

 一部始終を聞いていたクロエが、真面目な顔で微笑んだ。

「そんなことないわよ。毎日喧嘩ばっかりだもの!」

「喧嘩するほど仲がいいっていうじゃない? お父様、きっとロシーちゃんのことが可愛くて仕方ないのよ」

「う……。それはそれで複雑な気分ね――」


 ドロシーが思いっきり眉をしかめたとき、突如、わっという歓声と共に、音楽が鳴り響いた。ワズワース市長の挨拶が終わったのだ。

 低音楽器のワルツが、心臓に心地よく響く。オーケストラの音楽に乗って、人々が一斉に動き出した。


「あっ」


 迫り来る人波にのまれ、ニノンは短く声をあげた。

 先ほどまですぐそこにいた黒髪の後ろ姿がみるみるうちに遠のいていく。少年を見失わないようニノンは必死に目で追うが、たくさんの仮面に邪魔をされて、視界がブレる。

 手を伸ばしても、次々と流れてくる人々にのまれて、少年の背中に届かない。


「ルカ……!」


 ニノンの呼び声は、舞踏会の熱気とホールいっぱいに響き渡る盛大なワルツの中にかき消えた。

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