第36話 バードケージ

「よかったら聞かせてくれないかい? あんたの夢ってやつを」


 ニコラスが尋ねると、ロクスは再びうつむいて、膝の上で指先をこねはじめた。


「いや、あの、夢……というか、た、ただの憧れというか」


 煮え切らない様子の少年を催促することもなく、ニコラスはん、と首をかしげてみせる。少年はしばらく両目を泳がせていたが、やがて観念したのか、熱のこもった息をひと思いに吐きだした。


「僕、ニコラスさんみたいに、あの……踊れるように、なりたくて……」

「え? 私?」


 思いもよらない答えだった。

 ニコラスが間の抜けた声を出したのを、ロクスは呆れと取ったらしい。即座に「ちがっ、違うんです!」とかぶりを振った。


「ニコラスさんみたいになれるとか、そんなことはちっとも思ってなくて。舞台に立って活躍したい、とか、そんな大それた夢でもなくて。あの……心の支え、ってだけ、です。僕には継ぐべき仕事があるし……」


 うまく弁明しようと必死になりすぎて、ロクスの言葉はこぼれ落ちるパンくずのようにボロボロだった。唖然としていたニコラスは、あまりの必死さに思わずふっと吹き出してしまった。


「ご、ごめんなさい……っ! 僕ってば調子に乗って――」


 ロクスが今にも海に飛び込んでしまいそうな悲壮な顔をしたので、ニコラスは慌てて「違う違う」と首を振った。


「悩めるってのは、子どもの特権だなぁと思ったのさ」


 キョトンとするロクスに、ニコラスは続ける。


「最初は誰だって手探りになるもんだ。自分がなにに向いてるかもわからないし、なにがやりたいかだってわからない。だけど生きていくうちに、だんだん経験や知識が増えていって、自分がどんな人間で、どういうものが好きかわかるようになる。大人になるにつれて『知らないこと』が減ってくるとね、悩むことも少なくなるんだよ」


 ニコラスはひと呼吸置いて、ロクスの無垢な瞳を見据えた。


「だから、今はたくさん悩めばいいんだよ。あんたが自分を真剣に探してるって証拠なんだから」

「……ニコラスさんも、悩んだの?」


 聞いてもいいのか悩むように眉をひそめ、それからロクスは控えめなトーンで尋ねた。


「そりゃあたくさん。みんなそうやって大人になるんだよ。私の場合、もう随分と昔のことだから、おおかた忘れちゃったけどね」


 霞んだ記憶の向こう。ニコラスの眼裏まなうらに、世界のありとあらゆる屑をかき集めたような場所から救い出してくれた、神様のような男の笑顔が浮かんだ。

 双子のダリに、初めてぬくもりを与えてくれた男のことを、ニコラスは生涯忘れない。

 悩むことは自分を探すということだ、と教えてくれたのが彼であれば、夢を追う背中を押してくれたのもまた彼だった。

 そんな彼の『最期の言葉』を受け取ってから、ニコラスの中の刻は止まったままだ。自分探しの旅も終わった。

 生涯をかけて成し遂げる目的・・を見つけたからだった。


「ニコラスさん、あのっ!」

「あっ――え、はい?」


 懐かしい面影に思いを馳せていると、急にロクスが大きな声を出した。ロクスはぐっと拳を握りこみ、驚くニコラスへと詰め寄る。


「見てもらえますか。ぼ、僕の、踊りを」


 鬼気迫る表情に一瞬目をしばたかせ、しかしニコラスはすぐににこりと笑った。


「ええ。ぜひ」


 かっと頬を染めたロクスは、孕んだ熱を吹き飛ばすようにぶんぶんと首を振り、それからおもむろに仮面の山に手を伸ばした。一番上に積まれていた真っ白な仮面を掴み取ると、ふうーっと深く息を吐く。

 そして彼は、意を決したように仮面を被った。真っ赤に染まる自信なさげな表情も、心に負った深い傷も、仮面で隠してしまえばすべて見えなくなる。

 そこにいるのはもう、内気な仮面職人などではなかった。


 仮面の少年は両手を大きく伸ばし、体をしなやかに躍動させた。かと思えば道化師のようにおどけ、片手を床について逆さまになり、空中をくるりと回転する。音もなく片足から順に床に降り立つと、今度は上体を低く沈ませ、そのまま右肩を床に強く押し付けて、左足、右足と順に蹴り上げた。両足は空を掻っ切り、弧を描き、音もないのに激しくリズムを刻む。


――カポエイラ・・・・・だわ。


 ニコラスは息をするのも忘れて、少年の舞を見つめた。脳裏によぎるのは、虹のサーカス団アルカンシェルが北コルシカ最大の港町・カルヴィで公演を行ったときのことだ。

 新しいプログラムに『カポエイラ』を組み込もうと提案したのは、今は亡きゾラ団長だった。


 カポエイラとは、かつてブラジルで奴隷たちが踊っていたダンスのことである。床に手をつき、逆さになって足を動かしたり、格闘技のような動きを織り交ぜたりする激しい踊りだ。当時カポエイラを知らなかったニコラスにそう教えてくれたのは、ヴィヴィアンだった。

 公演場所であるカルヴィには、巨大な孤児院〈セントフローラ〉がある。今回の公演を、聖フローラの幼いシスター達が楽しみにしていると聞いていた。だからニコラスは、もう少し穏やかな演舞に変更した方がいいのではないかとハラハラしたものだ。

 しかし結局、プログラムはそのままカポエイラをメインとして組まれ、サーカスは大盛況のうちに幕を閉じたのだった。



 目の前の少年はまさに今、カポエイラを踊っている。正しくは、それによく似た踊り・・・・・・を。


 そうこうしている内に演舞を終えたらしいロクスは、仮面を着けたままの顔でぺこりとお辞儀をした。

 ニコラスの手からは自然と拍手が溢れた。思わず立ち上がり、照れたように頭を掻く少年へと歩み寄る。


「すごかったよ。うん、本当にすごかった。それはどこかで習ったの?」

「う、ううん……僕、踊りはニコラスさんの舞台でしか見たことないから。あの踊りを何回も頭の中で思い出して、それで……」


 仮面の中で声がくぐもって、またしても最後の方がよく聞こえない。

 ただ、もしもこの少年が言っていることが正しいのなら、ロクスには間違いなく『踊りの才』がある。胸の昂りが、風船のように膨らんで肺を圧迫していくのを感じる。ニコラスは柄にもなく、興奮していた。たとえばそれは、せせらぐ川の流れの中に、一粒の砂金を見つけたときのような心地であった。


 正確なリズム、テンポ。地道な努力によって身につくものもある。だけど努力だけでは得られないものがある。踊りの流れや、それらを作品として――芸術として相手に魅せる能力だ。

 ロクスの内に秘められた輝きは、そういったセンスからくるものに違いない。


「あの、あ、ありがとうございました。まさか憧れの人に、こうやって踊りを見てもらえる日がくるなんて……」


 おずおずと仮面を外した少年の顔は真っ赤に染まっている。瞳は長い前髪によって隠されていて、途端になよなよしい雰囲気に戻ってしまった。先ほど力強い踊りを踊った少年と同一人物だなんて、とてもじゃないが信じられない。

 彼を包み込む外殻がいかくは、相当強固そうだ。内から滲み出る自信の無さ、過去のトラウマ、世間が築いた価値観と偏見。なにが原因なのか、ニコラスには分かりかねるけれど、ただひとつ言えるのは、人目に触れずに守り抜かれてきた思いは、心に降る雨を吸い込んでぶくぶく膨れ上がっていくということだ。

 それらがやがて莫大なエネルギーを生み出す核になることを、ニコラスは知っている。


「広場で踊ってみりゃいいのに」


 しれっと言ってみると、ロクスはちぎれんばかりに首を振って「む、むりむり、絶対ムリ!」と叫んだ。


「今みたいに仮面を被ってさ、名前を明かさずに踊るってのはどう?」


「む、無理だよ……人前で、しかもこの町でなんて」


 無理だよ、むり、むり、ともごもご言いながら、ロクスは再びうつむいてしまった。どうしたもんかな、と思いながら、ニコラスはあてもなくぐるりと部屋の中を見渡した。

 簡素なベッド。真っ白な仮面の山。大きく幅を取る作業台。壁に貼り付けられた、色褪せたサーカスのパンフレット。その隣に置かれた本棚――の一番下に、隠れるようにして仕舞われていた仮面に目が留まる。

 ニコラスはゆっくりとその仮面を手に取り、くるりと表を向けた。


「なんだ。色つきの仮面があるじゃないか」

「あ、それは――」


 仮面にはシンプルな花の模様が彩色されていた。栗の渋皮のような素朴な色合いの茶色い小花。頬の下から目元にかけて花の波が渦を巻いて描かれている。一階の壁に貼り付けられた仮面と比べると、ずいぶん控えめなデザインだ。


「ずいぶん傷んでいるわね」


 小花はところどころ滲み、表面は固まった砂のようにざらざらしている。仮面自体もどこか歪んでいるように見えた。


「水の中に落としちゃって、もう被れる状態じゃないんだ。僕が小さいとき、ある人がせっかく描いてくれたのに――」

「ある人?」

「名前は忘れちゃったんだけど。おじいさんだった。絵の修復をしてて」


 え、と短く声をあげて、ニコラスは再び仮面を裏返した。裏地を目で追う。するとやはり、顎のあたりに申し訳なさげに小さく〈K.M〉とサインが施されていた。


「K.M――もしかして……」


 ぽつりと呟いたニコラスの言葉は、一階から響いてきた少女の声にかき消された。

 びくりと肩を揺らして、ロクスは身を縮こまらせた。続けざまにまたしても騒がしい音が聞こえてきたので、二人は床下にじいっと耳をそば立てた。


「誰か来たみたいだね」


 それも随分と騒がしい輩が――ニコラスはロクスに目配せしたが、彼はすっかり萎縮していた。見知らぬ人間相手には、ふだんからきっとこんな感じなのだろう。

 そうだとすれば、やはりこうして部屋に入れたのは幸運だったのだ。ニコラスは改めてアダムに感謝した。





「その取り引きは……お受けできません」


 なんとか絞り出したクロエの声には、不安と疑問が入り混じっていた。ガラクタ同然の仮面を買い取って、一体どうしようというのか――疑うような彼女の眼差しは、男たちの真意を図りかねてのものだろう。


「なるほど。……言葉を変えるか」


 クロードは気怠げに鼻から息を吐いた。


「ヴェネチアンマスクがAEPの原料になる可能性が出てきた。古いものはこちらですべて修復する。もちろん費用は俺たちエデンが持つ。それだけじゃない。AEPに変換できた暁には、その金額の半分を分け前としてこの家に入れる。悪い話じゃないだろう?」


 そう言って、クロードはぐるりと室内を見渡した。まるで品定めでもするかのように、古びた家具や擦り切れたじゅうたんに次々と視線を移していく。そのとき、二階からひどく苦しそうに咳き込む声が聞こえた。クロエの父親の部屋からだ。


「うまくいけば、大量の金が手に入る」


 クロード・ゴーギャンはニヤリと口元を歪め、すべてを見透かしたような眼差しをクロエに向ける。クロエは羞恥に頬を赤らめ、傷だらけの指でスカートの裾をぎゅっと掴んだ。


「これはチャンスだと思いませんこと?」


 押し黙るクロエにゆっくり近付いて、カナコがさらに追い打ちをかける。


「あなた方の作り続けてきた物に、定量的な価値がつくのよ。ヴェネチアンマスクには真価があると、世間に知らしめる絶好の機会なのですわよ?」

「――そんな急な話はおことわりだよ」


 カナコの演説めいた言葉を遮るように、艶のある低い声が階段から聞こえてきた。一同の顔が声のした方を向く。階段を軋ませながら降りてきたのは、ニコラスだ。


「あなた、いきなりなんですの?」

「いきなりなのはそっちだろう?」


 話の腰を折られたことが面白くなかったのか、カナコは棘のある視線をニコラスへと向けた。


「そんな大それた話いきなり決めろったってね。せめてカーニバル開催まではここにある仮面は手放せない――って、私は思うけど」


 ニコラスは優雅にクロエの元まで歩み寄ると、くるりとカナコの方へ振り向いて、クロエの肩にぽんと手を置いた。その手から勇気をもらったというように、クロエは握りしめていた拳をほどき、顔を上げた。


「数日後のカーニバルに必要な仮面ばかりなんです。だからそれが終わるまでは、お話はお受けできません」


 静かに、けれどはっきりと彼女は言いきった。カナコは唇を噛みしめ、次に繰り出す言葉を必死で探しているようだった。一方クロードは、玄関の扉に寄りかかりつつ面白そうにニヤニヤしている。


「……じゃあ、みんなで協力して修復しちゃえばいいんじゃない?」


 あっけらかんとした調子で、ふいにニノンが声を発した。すぐさまアダムが「はあ?」と言って振り返る。カナコも同じように顔をしかめた。


「俺もそう言おうと思ってた」

「はぁ?」


 ルカが頷けば、再度アダムはぎょっとした。騒ぐ仲間の脇をすり抜け、ルカは髭の生えた顎をぽりぽりと掻いている男の目の前で立ち止まった。


「おじさん。昔、俺に知ってる技術を全部教えてくれるって約束したの、覚えてる?」

「さぁ……言ったっけな、そんなこと」

「俺の方が記憶力はいい。おじさんより」


 褪せたモスグリーンの瞳が、楽しげにルカを見下げた。


「ルカ少年はなにが知りたいって?」

「和紙の作り方」


「ほお?」と、クロードの目がさらに楽しそうに細められた。


「和紙ぐらいお前にも作れるだろ、ルカ」

「作れない。だから教えてほしいんだ。おじさんは、誰よりも和紙作りが上手いから」


 日本由来の素材である和紙は、修復過程にしばしば重要な役割を担って登場する。日本からの輸入品はかなり高価な代物だ。だからクロードは、道野修復工房に身を寄せていた頃、節約も兼ねて和紙を手作りしていた。その華麗な手捌きに、幼いルカは静かに感動を覚えた。いつか教えを乞いたいと願っていた。ついにその機会が訪れることはなく、彼は修復工房を立ち去ってしまったけれど――。


「教えんこともないが、時間は無駄にはできねぇな。和紙と仮面にいったいなんの関係がある?」


 クロードは試すような視線を向けた。返答次第では断ると、言外に言っているのだ。


「たしかに和紙がなくても修復はできる。でも、仮面を最善の方法で修復するには、和紙が必要なんだ」


 ルカは身じろぎひとつせず、真っ直ぐにモスグリーンの双眸を見つめ返した。


「やるなら最善の方法を選びたい――だって俺は、修復家だから」

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