第37話 ニノンとドロシー(1)
「……く、はは」
狼が森の中で獲物を見定めるように目を細めていたクロードは、ややあって笑い声をあげた。
「修復家だからねぇ。やっぱり血だな」
「え?」
困惑するルカを見て、クロードはお得意の意地悪そうな笑みを浮かべた。
「その心意気をかってやる」
そこでルカは、彼との交渉が成立したことを悟った。新しい技術が学べる。それも、幼い頃からこっそり尊敬していた師匠のような男から。だが、彼の相棒である少女は納得がいかなかったようだ。露骨に眉を吊り上げて、カナコはクロードに詰め寄った。
「心意気をかうですって? なにを血迷ったことを言ってますの?」
「技術の伝授ってやつだな。いいじゃねぇか。それで作業の頭数が増えるんだし」
「そんなこといって、結局は楽しそうだと思ったらでしょう? 興味あるところにばっかりふらふらふらふらと……まるで堪え性がない、あなたの悪い癖でしてよ! 油を売るのも大概に――」
「すまん、すまん。カナちゃんにはいつも世話になってるよ」
クロードは余裕
「とにかく! お話はこの契約書にサインしてからにしてくださるかしら?」
二人のやり取りをあ然とした表情で見つめていたクロエの面前に、カナコはばしんと紙切れを突きつけた。修復家協会〈エデン〉がヴェネチアンマスクを買い取る、といった内容が書かれた契約書だ。小難しい文章がつらつらと羅列されており、最後に大きな空欄が用意されている。
突然突きつけられた紙切れを前に、クロエはたじろぐ。と、カナコの頭上から腕がにゅっと伸びてきて、契約書を奪い取った。
「なにするの、クロード!」
「もっと穏やかにいこう、カナちゃん。どのみち修復するところまでの目的は同じなんだ。俺たちが回収するのが先か、修復が先か。ちょっとばかし順序が逆になるだけで、大した問題じゃない」
「大した問題ですわよ! 修復したって回収できないんじゃあ元も子もないじゃない! わたくしたちは慈善団体じゃありませんのよ!?」
慈善団体という言葉が飛び出たところで、アダムが「それは俺も同意する」とどっちの味方なのか分からない発言を漏らす。
「えっと……善哉さん」
ルカが遠慮がちに名を呼ぶと、カナコはぴくりと片眉を動かした。
「俺は、ただクロードおじさんに和紙の作り方を教わりたいだけなんだ。一介の、弟子として。それに、二人には修復を手伝ってもらおうなんて厚かましいことは考えてない。修復作業は道野修復工房が全部請け負う。そうすればそっちの負担も減るし、悪い話じゃないと思う」
「その子の言ってる話に、条件を付け足すわ」
話を聞いていたニコラスが、一歩前に出てそう告げた。
「修復後、その仮面をどうするかはあんたたちが改めてこの家と交渉してちょうだい。交渉するのはカーニバルが終わった翌日以降――で、いいわね? クロエ」
ちらりとニコラスが隣を振り返る。真剣な顔で肩を強張らせていた少女は、はっとニコラスを見上げ、それから玄関を塞ぐように立つ訪問者に向けて、しっかりと頷いた。
「それで、よろしくお願いします」
カナコは不機嫌そうに眉をひそめたまま、「仕方ないわね」と条件をのんだ。
「いいですわ。この男を好きに使ってくださいませ。ただし、カーニバルが終わったらしっかりお伺いに参りますわ。――行きますわよ、クロード!」
ふんっ、とカナコは鼻息荒く踵を返す。後頭部をぽりぽり搔きながら後を追いかけたクロードだが、ふとなにかを思い出したようにこちらを振り返った。
「ルカ。ひとつ勘違いしてるようだから言っておくが」
砂埃に汚れたブーツが踏みしめた床から、木の軋む音がした。
「俺はただのお人好しじゃないぞ。これは
クロードは意味深に口角を持ち上げると、口を噤んだままのルカに背を向け、そのまま家から出ていった。
*Ninon
約一時間後。ルカは準備を終えたクロードと落ち合い、さっそく和紙作りに取り掛かりはじめた。
和紙の原料に用いられる『コウゾ』という木が、マキの群生に混じって生息しているらしい。「切り出すのに男手が必要だ」という話が出たところで僅かに後ずさったアダムの肩を、ルカがすかさず掴み込む。「男手に数えるには頼りないと思う」だとか「俺は情報収集の方が得意だ」などとのたまうアダムだったが、ルカに半ば引きずられるようにして、マキの森へ連行されていった。
再びロクスの部屋へ戻ることにしたニコラスに別れを告げて、ニノンは単身岸の向こう側へとやってきていた。
手の空いたニノンには、現在町の店にどれくらい仮面が残っているかという調査が任された。使える仮面の数を差し引けば、ロクスが新たに作らなければならない仮面の数も、修復しなければならない仮面の数も、大幅に減らすことができる。
「まずは〈ルボワ〉ってお店か……。えーっと、噴水広場に、面する――」
午前一〇時。市場の連なる通りが一番賑わう時間帯だ。
ニノンは手元のメモ用紙に羅列された店の名前と、目の前に広がる町並みを交互に見比べる。真っ赤なフードを目深に被って桃色の髪を隠し、ニノンは自らに課された役割を果たすべく、仮面を扱う店々を渡り歩いた。
「――協力してくれてどうもありがとう」
「お安い御用よ。お嬢ちゃんも、カーニバルの準備がんばれよ」
仮面の在庫調査は案外順調に進み、午後二時をまわる頃にはほぼすべての店のチェックが終了した。
ニノンは調査リストの最後に記されたショップの店主に頭を下げて、店を出た。
ドアに括りつけられたベルが、カラカランと乾いた音を響かせる。涼しげな音色に、ニノンは自身の肌がじんわりと汗ばんでいることに気づいた。
忙しなく行き交う人々の熱気なのか、それとももうコルシカ島に夏の風がやってきているのか。そのどちらもだろうか。
夏の訪れを感じて、ニノンはふと空を見上げた。
目が痛くなるほどの鮮やかな水色に、くっきりと白い雲が浮かんでいる。
幼いころ、画用紙に描いた空にそっくりだ。そう思ったとき、ニノンの脳裏に懐かしい光景が蘇った。
窓のないおもちゃ箱のような部屋。ニノンはずっとそこにいて、屋敷の外に出ることは許されなかった。隣には、似たような年頃の男の子がいつもいた。ニノンは、その男の子といつも一緒に遊んでいた。
『ニノンは水色が好きなの?』
クレヨンで画用紙に絵を描いていると、黒髪の男の子はその絵を覗き込んでぽつりと尋ねた。一面鮮やかな水色で塗りつぶされた画用紙。別に水色が好きだから塗りつぶしているわけではなく、単に空を描いているだけだった。幼い頃のニノンが描く空はいつだって快晴で、それは絵本や写真で見る景色がいつも晴れていたからだ。
『そんなことないよ? どうして?』
ニノンが首を傾げると、少年は苦笑しながら、ドングリのように丸まった水色のクレヨンをつまみ上げた。
『だって、水色のクレヨンだけこんなに減ってる』
『うわ、ほんとだ』
一本だけ減りの早かった綺麗な水色のクレヨン。
少年の苦笑する笑顔。つられてくすくす笑う、自分の楽し気な声……。
ニノンはヴェネチアの上空に広がる青い色を見上げた。
一色のクレヨンが水に溶け出したような鮮やかな青空が、ニノンに幼い頃の記憶を呼び戻してくれた。この島には、ニノンの記憶の扉をノックする存在が、そこかしこに散らばっている。
「――お嬢様! お待ちください!」
懐かしい記憶の霞に沈んでいたニノンの耳に、男の慌てた声が飛び込んできた。
その声とともに、市場の通りがわっとざわついた。店の軒先から雛鳥のようにいくつもの顔が覗く。
何事かと、ニノンも周囲が注目する先をじっと凝視した。こちらに向かって猛スピードで駆けてくる――小柄な青いワンピース姿の少女?
「ドロシー!?」
ニノンは思わず弾んだ声をあげた。
「ニノン!」
「どうしたの――って、ちょ、ちょっと!」
ドロシーはスピードを落とさずにニノンの手をがっしりと掴み、そのまま市場の通りを駆け抜けた。
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