第35話 対立する修復家系
「あの、ちょっと……意味がよくわからないんだけど」
次なる言葉の弾丸をセットし終えた少女を前に、ルカは気おくれしつつなんとかそう口にする。
確かにルカの苗字は道野だが、目と鼻の先まで迫っている少女に出会ったのは今日が初めてだ。間違っても恨みを買った覚えなどない。
少女はふん、と鼻をならして「あくまでシラを切り通すおつもりなのね」と吐き捨てた。
「
「陥れる? だから、なにが――」
「日本を捨てたあなたたちにはわからないでしょう。残された善哉家がどれだけ自尊心を傷つけられたかなんて!」
一方的な言い掛かりに、さすがのルカも怪訝な表情を浮かべる。
――日本を捨てた?
聞き捨てならない言葉だった。体内を四分の一しか流れていない血だけれど、むしろ誇りさえ抱く少年だ。それだけじゃない。道野家はいつだって、代々受け継がれてきた
ルカが僅かに眉をひそめたことに誰も気付かなかったのは、隣にいたニノンが本人よりも露骨にムッとしたからだった。
「まあまあ、ちょっと落ち着こうぜ」
見兼ねたアダムが二人の間に割り込む。そして、いまだ肩を怒らせるおかっぱの少女へと営業スマイルを向けた。
「カナちゃん、多分こいつ本当にわかってねえよ。いちから説明してやれば?」
「……一体どなたですの?」
馴れ馴れしく声を掛けてくる少年が胡散臭かったのか、それとも『カナちゃん』と呼ばれたことが気に食わなかったのか。カナコは眉間にしわを寄せて、遠くにある看板の字でも確かめるかのように、不機嫌そうに目を細めた。
「俺? 俺はこいつの友だちのアダム・ルソー。アダムって呼んでくれよ。こいつがどんな失礼なことをしたのか、俺も気になるなー。カナちゃん、教えてくれねえ?」
「俺、本当に知らないって」
子どものように口先を尖らせるルカの肩をがっしりと掴んだアダムは、カナコに背を向けるように自身とルカ体を反転させ、笑顔のまま「いいこと教えてやる」と耳打ちした。
「女は怒らせたら負けだぞ」
な、と今一度肩を強く叩かれ、ルカは釈然としないまま押し黙る。
「あなた、
「さっきからそう言ってる」
「哀れなことですわ……自身の家系についての、過去の歴史を知らないなんて」
道端のドブネズミでも見るような視線がルカに注がれる。ひどい態度だと思うが、一方でルカは確かに彼女の言うとおりだとも思った。ルカは、道野家がなぜコルシカ島で修復家を営んできたのかを知らない。そしておそらく、問いの答えを目の前の少女は持っているのだろう。
「両家はそれぞれ〈攻めの善哉〉、〈守りの道野〉と呼ばれる、日本を代表する秀逸な修復家系でしたのよ」
演説じみた語りが始まってすぐに、クロードはくたびれた上着のポケットから煙草を一本取り出した。
「両家の実力は甲乙つけ難く、互いを
しんと静まり返った室内に、足音だけが響く。佳。カナコは軋む木床を踏み鳴らし、ルカの元へ歩み寄った。
「そのまま日本へ帰ることはなかった」
「……どうして?」
ルカの口から思わず漏れた疑問を、カナコは鼻で笑った。
「『どうして』ですって? そんなことは大した問題ではありませんわ。大変だったのはその後! わたくしたちほどの名家ともなれば、お抱えの固定客なんてごまんといるでしょう。もし、急に日本から馴染みの修復家が消えてしまったら?」
「善哉家に――依頼が殺到する?」
「違いますわっ!」
カナコが金切り声を上げる。
「どうして両家に相反する二つ名が付いているか、おわかりになって?」
「『攻め』と『守り』……?」
先ほど少女が自信たっぷりに口にした単語を、ニノンがぽつぽつと反芻した。
「そう。わたくしたちは修復に対する基本スタンスが違いますの。確かにあなたが言うように、あなた方の固定客は善哉家に流れてきましたわ。その結果、おじいさまも、ひいおじいさまも……」
勢いのある凛とした声が突如水辺にたゆたうように震えた。うつむいた顔を、艶めく黒髪が覆い隠す。紫紺の袴を握りしめていた拳にひときわ力が込められて、カナコは真っ赤になった顔を勢いよく上げた。
「あなた方の修復に魅入られていた者たちに
カナコは息つく間もなくまくし立て、長い吐息を吐き出した。
「だからわたくしたちは、日本を捨てた道野家を生涯許すことなく、この悔しさを胸にいつも
ルカは憎しみが滲んだ
聞いたことのない道野家の過去。祖父の光介も、父の光太郎でさえ、日本にいた頃の道野家の話をルカに昔話として聞かせることはなかった。
「ちょーっと待った、カナちゃん!」
「なんですの!?」
思わずといったふうに口を挟んだアダムを、カナコは射るように睨みつけた。部外者は黙っていろとでも言わんばかりの鋭い眼差しに、さすがのアダムもたじろいでいる。
「それってさ、いわゆるご先祖同士の因縁ってやつだろ? 別にこいつとカナちゃんが喧嘩する理由にはならないんじゃねえの?」
「そんな簡単な問題ではありませんわ」
カナコはアダムの言葉をぴしゃりと跳ね除けた。
「白い絵の具にほんの少しでも違う色が混じれば、元の白に戻ることは不可能でしてよ。それと同じこと……わたくしたちの歴史から、雪辱の思いが消え去ることは永遠にありませんわ」
「そんなのまるで、ヴェ――」
ヴェンデッタと同じだ、とニノンは言おうとしたようだった。だが、途中で口を噤み、言いかけた言葉をごくりと呑み込んだ。『ヴェンデッタ』という言葉にアダムがひどく不快感を示していたことを思い出したからだろう。
「おーい。話は終わったかぁ?」
気まずい沈黙に場が支配されかけたとき、くわえ煙草の男が気怠げに声を上げた。
「ま、そうカッカしなさんな。カナちゃん、俺たち別にここへ文句垂れ流しにやってきたわけじゃないよな」
「う……そうでしたわ。わたくしったら、つい」
クロードはポケットから取り出したライターほどの大きさの
ルカはクロードの一挙一動から目が離せなかった。何も言わずにこつ然と姿を消したあの日から、共に作業することを諦めるには十分過ぎるほどの時間が流れていた。だから、再会できたことをいまだに疑ってしまうのも仕方のないことだ。
クロードはまるで初めて挑戦したかのような微妙な笑みを浮かべて、怯える仮面職人の娘に近付いた。
「俺たちは別に怪しいもんじゃない」
いや、十分怪しいか。などと独りごちながら、クロードは無精髭の生えた口元を歪めた。その表情は野生の狼を思わせる。クロエが僅かに肩を強張らせた。
少女を庇うようにアダムが一歩踏み込んだのを見て、クロードはく、と笑いを漏らした。
「クロード・ゴーギャン。絵画修復家協会〈エデン〉の者だ」
言いながら、クロードは小さな名刺を差し出した。ルカは思わず目を細めた。その名刺には見覚えがある。広場でクロードから貰った紙切れと同じものだ。
「ビジネスの話を持ってきた」
「……ビジネス?」
疑いの眼を払拭できないまま、クロエは聞き返す。
「そうだ。俺たちはこの家と取引がしたい」
勝算があるのだろうか。クロードはいま一度口の端をくっと引き上げた。そうして節の太い、染料でひどく汚れたままの人差し指を、部屋の奥へと差し向けた。
その指先にあったのは、壁を埋めつくすほどの仮面の数々。ロダン家の名誉の象徴、あるいは罪人の証――そして、この町のシンボル。
「この町にあるヴェネチアンマスクをすべて買い取りたい」
* Nicolas
クロエの弟・ロクスの部屋は、扉を開けて真向かいにある壁に、大小さまざまな大きさの丸い窓がはめこまれていた。
窓から射し込む光の中で、うぶ毛のような埃がゆらゆらと舞っている。それらをぼんやりと目で追いながら、ニコラスは人知れず安堵のため息を漏らした。
アダムの推測はあながち間違っていなかった。門前払いを覚悟の上で軽く扉を叩いてみると、ロクスは思いのほか早くに顔を出してニコラスを部屋へと招き入れてくれた。すんなりと部屋に入れたことに一番驚いたのは、部屋を訪ねたニコラス本人だろう。
しかし、そんなことよりももっと驚くことがあった。
窓と向かい合うようにして椅子に座り、背中を丸める少年の手元を、ニコラスは興味津々に覗き込む。
「へぇ。そうやって仮面の土台を作るの」
ちぎった紙を水で濡らし、顔をかたどった型の上にまんべんなく貼りつける。上から同じように紙を重ねる、濡らす、重ねる。
「ぬ、濡れた紙同士は、繊維が絡まりやすいんだ。乾ききったころには、えっと、すごく頑丈な仮面型ができあがるよ」
耳を真っ赤に染め上げながら、ロクスは口早に説明する。彼の指先は、姉の指先と同じくらいたくさんのあかぎれを抱えていた。
「仮面、ちゃんと作ってるじゃないか」
もっと堕落的な室内環境を想像していただけに、ロクスの熱心な姿はニコラスの口元をほころばせた。うつむきながらロクスがなにやらぶつぶつと呟いたけれど、声がくぐもっていてよく聞き取れなかった。
「これだけ仮面があればカーニバルも無事に開催できそうだし。心配して損しちゃったわ」
作業台の両脇には仮面が山積みになっている。水分が抜けてかちかちになったそれらをニコラスが手に取って眺めていると、今度ははっきりとした少年の声が耳に届いた。
「ほ、本当は、僕だって姉ちゃんに心配かけたくないんだ」
「あんたの姉ちゃんはさ、あんたが仮面作りを放っぽりだしてぐだぐだやってると思ってるんだよ。だったらその誤解を解かなきゃね。ま、この部屋を見りゃ一目瞭然でしょうけど」
仮面職人を継ぐ意志がなければ、これほどまでに沢山の仮面を作り続けられるはずがない。思ったよりも単純な話でよかったとニコラスが安堵していると、ロクスはか細い声で「違うんだよ」と呟いた。
「仮面を作るのは好きだよ。と、父さんの跡を継いで、仮面職人になりたいとも思う。でも……でも、自信がなくて」
ニコラスは自身のしな垂れる緑色の前髪越しに、うつむく少年をじっと見つめた。透明の壁に四方八方を塞がれているみたいに、ロクスはぎゅうっと身を縮こまらせている。
「昔、初めて作った仮面を、父さんの作った仮面に混ぎれこませて店に並べてもらったことがある。僕、僕、どんな人が買ってくれるのかすごく気になって」
道路の脇へ身を潜め、仮面を手にとる客を待った。男や女、老人から子どもまで、たくさんの人々が通り過ぎてゆくのをロクスは辛抱強く見つめ続けた。
そろそろ観察にも飽きてきたころ、同年代らしき少年たちがはたと店先で足を止めた。彼らは談笑しながらショーウィンドウに飾られている仮面のひとつを指さした。
「それは……僕の作った仮面だったんだ」
響き渡った下劣な笑い声。
両手で手を叩き、なにやら言いあい、おどけたように首をすくめてまたどっと笑った。
「それで僕はわかったんだ。センスがないって、はっきりとさ」
「ロクス……」
あかぎれだらけの指先にぎゅっと力が込められる。紙片に含まれた水分が絞り出され、机をぬらした。
山となった仮面は、よくよく見るとすべて真っ白だった。彩色や装飾が施されないまま抜け殻のように折り重なって、陽の目を見ることなく下を向いている。
まるで仮面の墓場のようだと、ニコラスは思った。
「でも、そのあと、元気のない僕を、両親がたまたまやってきていたサーカスに、連れていってくれた。そこでニコラスさんの踊りを見たとき、僕は――」
言い淀んで、唐突にロクスは立ち上がった。そうして瞳にかかる伸び放題の前髪を気にする風もなくニコラスに向き直る。
「ニコラスさんは、明けないはずだった夜に差し込んだ朝日だったんだ」
一瞬、窓から射し込む日の光が強まって、ロクスを背から突き刺した。透けるベージュの髪。あまりにも嬉しそうな微笑み。まるで天井画の天使のように見えて、ニコラスは息を呑んだ。
「夢ができたんだ、僕」
隔離された島、閉じられた部屋に生きる少年の言葉は、きっと誰よりも自由に空を飛んでいた。
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