第34話 クロエの恋

* ninon


 古びた木の軋む音が暗闇に響く。

 階段を登ると、そこには扉が三つ並んでいた。手前から順に父が寝込んでいる部屋と、弟ロクスの部屋を兼ねた作業部屋だ。二つの部屋に追いやられるように出来た隙間のスペースが、クロエに割り当てられた部屋だった。

 薄暗い空間にスポンジを置いただけのベッドと簡単な棚が一つ。天窓から射し込む月明かりは、狭い部屋を照らすには十分な灯りだった。

 年頃の女の子の部屋と呼ぶにはあまりにも殺風景な造りだ。


「ニノンちゃん、こっちにいらっしゃい」


 すすけた棚から何かを取り出しながら、クロエは優しく手招いた。


「それはなに?」

「ハンドクリームよ」


 紫色の花柄のシールが貼られた、円くて平べったい缶だった。

 クロエの人差し指がクリームをすくう。まるで奇妙な生物を目の当たりにしたかのようにじっと見つめていると、クロエはそれをニノンの手の甲になじり付けた。

 驚きに目を丸くするニノンに「手が乾燥しないようにね」と囁いて、優しくマッサージをした。ひんやりとしたクリームが肌に混じって、皮膚がどんどん薄くなっていくような気分になる。

 気持ちよさにまどろみかけたとき、ニノンの鼻孔を何かがかすめた。ニコラスの横を通った時に香るものとはまた違う、もっと優しい匂いだ。


「いい匂いでしょう。フリージアの香りなの」


 不思議がるニノンの顔を見てすぐに察知したらしい。クロエはどこか誇らしげに微笑んだ。


「クロエにぴったりな優しい香りだね」


 と頷いてみると、彼女はわずかに頬を紅潮させた。そのまま缶の蓋を閉じるのも忘れて、どこか遠いところを見つめている。憂える瞳に映る淡い色がなにを指すのか、この手の話に目がないニノンはすぐにピンときた。


「……誰かからの贈りもの?」

「えっ、お――贈りもの、なんて」


 そんないいものじゃないわ、と早口で言い終えて、クロエは開きっぱなしだった蓋を慌てて閉めた。

 誰が見ても焦っていると分かるほど慌ただしくハンドクリームを棚にしまい込んでいる姿に、ニノンは好奇心旺盛な笑顔を向けた。


「誰からもらったの? 恋人?」

「恋……ち、違います。もう、ニノンちゃんったら」


 観念したのか、クロエはため息を漏らしながらベッドに腰を下ろした。

 それにならってニノンも隣に腰かける。

 天窓から射し込む月の光が紅潮した頬と混ざり、それらを紫色に染める。ややあってクロエはぽつぽつと呟きはじめた。


「お店へ仮面を納品しに行ったときにね、市場の通りを歩いていたら……突然走ってきた男の人と思いきりぶつかっちゃったの」


 数か月前。まだ父親がかろうじて仮面職人をやれていた時のことを、クロエは訥々とつとつらと語った。


 その男はワズワース家のお嬢様を追っている最中だったという。ぶつかった衝撃で、紙袋に詰め込まれていた仮面は全て地面に吐き出されてしまった。

 散らばる仮面。通りすぎる人々の視線。恥ずかしさでクロエの顔からは火が噴き出そうだった。側を行き交う足からも目を背けて、クロエは一心不乱に仮面をかき集める。散らばったいくつもの薄ら笑いが、人々の顔を映し出す鏡のように見えて仕方なかった。


「申し訳ない!」


 男はすぐに駆け寄ってきて頭を下げた。続けざまに仮面を拾うのを手伝い、怪我はないかと尋ねた。


「大丈夫です。自分で片付けますから」


 だから私のことは放っておいてほしい、とクロエは心の中で叫んだ。目頭が燃えるように熱くなる。くぼみの奥がじわじわと湿り気を帯びた。

 クロエは、本当は胸をはって『仮面職人の一家』という看板を掲げたかった。この家系に生まれたことに誇りを持ちたかった。しかし、仮面が罪人の血筋を意味するシンボルなのだということを、通り過ぎる人々の視線はいやでも思い出させてくる。


「――やっぱり怪我をしている」

「こ、これは」


 指に触れた男の手を、クロエはとっさに振り払った。男も「しまった」という顔をしてまたしても頭を下げた。

 指の腹に走るいくつもの赤い線は、ぶつかった時にできた傷ではない。水の使いすぎで荒れてしまった皮膚が、赤ぎれを起こしているだけなのだ。


「少し立て込んでいて、今は時間がないことを許してほしい」


 なにが、と問おうとしたクロエに、男は上着のポケットから取り出した円い缶を押しつけた。


「えっ、え?」

「使い古していて申し訳ないが、肌荒れによく効く『薬』だ」

「え、あの……!」

「いつかきちんと礼をします!」


 言うや否や、男はすぐさま市場の通りへ飛び込んで、なにやらわめきながら少女を追いかけていった。

 手渡されたものを返そうと突き出した腕は、行き場をなくしてよれよれと空を落ちる。


――ハンドクリームを『薬』だなんて言う人、初めて。


 クロエはぽっかりと口を開けたまま、手のひらに残された缶を見つめ続けた。



「だから、プレゼントとかじゃないのよ。うん、そう。お見舞い品よ」


 上ずった声でまくし立てるクロエに、ニノンは夢見るような眼差しを向けた。


「素敵なおはなしだね」


 クロエは答えなかった。ただ、月明かりでも隠しきれないほど真っ赤に染まった耳が、彼女の気持ちを代弁していた。


「さ、もう夜も遅いわ。寝ましょう」


 ニノンはもう少し話を聞こうと座り直したが、クロエがベッドの奥へ行くようはっぱをかけてきたので、大人しく寝転がることにした。

 くすんだ窓越しに見える月は、真珠のように丸く輝いていた。こんな綺麗な夜に舞踏会へ参加でもできたらきっと気持ちいいのだろう。そこで好きな人と踊れたら、もっと素敵な夜になる。


「会えるといいね、舞踏会で」

「え?」

「うんん、なんでもない。おやすみなさい!」


 タオルケットの中に潜り込めば、あっさりと眠気が這い寄ってきた。隣にじんわりとぬくもりを感じる。ひどく懐かしいぬくもりだ、とニノンは頭の片隅でぼんやり考えた。昔見たきりで忘れていた夢をもう一度見たような、そんな懐かしさだった。

 まどろむ意識の中で、ぬくもりを目指して無意識に体を寄せる。クロエは柔らかく微笑んで、本当の妹にするように優しく少女の髪を撫でた。


 その夜、ニノンは夢を見た。


 姉のベッドに潜り込み、夜更かしがバレないようにひそひそ声でお喋りをした、いつかの日の夜の記憶。

 部屋の電気を消して、二人で一枚の布団を頭から被り、くすくす笑いをもらす。

 時折笑い声が大きくなりすぎて、慌てて口を噤んだりした。


 どんな話題に興じているのか、夢の中ではぼんやりとしていて上手く聞き取れない。仕方なく、ランプの頼りない明かりに照らされた姉の顔を覗き込んだ。ベージュの髪からのぞく耳が、心なしか淡い桃色に染まっている。


 クロエと同じような、姉の夢見る眼差しの意味が、今のニノンにならわかる気がした。

 姉の秘めた想いが誰に向けられていたのかは、思い出せないけれど――。



 *



 早朝にたなびく静けさは、聞き馴染みのない少年の叫び声によって掻き消された。

 次いで何かがドシンと床に落ちる音が、そして家が壊れそうなほどの振動とドアの閉まる音が立て続けに響いた。


「えっ、なに?」


 あまりのけたたましさにベッドから飛び起きたニノンは、思わずあたりを見渡した。隣で眠っていたはずのクロエの姿は既になく、代わりに棚の上にきちんとパジャマが折りたたまれているのが見えた。

 ニノンはごくりと唾を飲み込むと、そろそろとベッドから抜け出した。床が軋まないよう慎重に歩を踏む。ドアの隙間を数センチ開けて、廊下の様子を覗き見ると――。


「アダム! こんなところでなにやってるの?」

「おう。おはよう」


 廊下の真ん中で尻餅をつきながら、アダムは爽やかに挨拶をよこした。

「なにかあったんですか?」と、階段の下からクロエの慌てた声がする。アダムが適当に返事を返している間に、ルカとニコラスが渋い顔をしながら階段を登ってきた。


「ほら失敗しただろう」

「くっそ。やっぱニノンあたりがよかったか」

「そういう問題じゃないと思うけど……」


 ニノンは廊下で井戸端会議を始めた三人の元へ駆け寄った。


「なにしてたの?」

「いやー。扉が開かないなら開けちまえばいいかと思って」

「まさか、無理やり入ったの?」


 あっけらかんとしているアダムを見て、ニノンはわずかに眉根を寄せる。


「とりあえず喋ってみねえとさ、らちが明かないだろ? 朝ごはん一緒に食べようぜって誘いにいったんだけど」


 駄目でした、とでも言うようにアダムは両手を挙げて降参のポーズをとった。「やり方が雑なんだよ」と小言を漏らすニコラスに、ルカは苦笑いを浮かべる。


「鍵はどうしたの?」

「ああ、鍵? これでちょこちょこっとやったら開いた」


 手に握られた歪な形の針金を、まるで宝剣のように自慢げに掲げるアダムに、ニノンはいっそう睨みをきかせて軽蔑の視線を送った。


* luca


 それから四人は食卓で、やはり野菜だらけの朝食をとった。


「やっぱりさ、ニコラスが適任だと思うよ」


 口いっぱいに頬張ったサラダを呑み込んでから、ルカは唐突に提案した。


「アダムじゃ胡散臭い」

「ああ。それには俺も同意見だ」

「アダムちゃん……自分で言ってて悲しくないの?」


 いくつもの哀れみの目線を一掃するように、アダムは自慢げに鼻を鳴らした。


「俺は特攻隊長。言い方悪いが『かませ犬』だ」

「かませ犬?」

「俺みたいな奴が最初に突っ込んでいった方が、後のハードルが下がるんだよ。弟はニコラスのファンなんだろ? だったら尚更心を開きやすくなるかなって思ってさ」

「そういうもんかしらね」


 半信半疑に呟くニコラスの隣で、「トラウマにならなければいいけど」とルカは心の中で呟いた。


「そういうことだからさ、弟の説得は任せたぜ。こっちは昨日決めた作戦通りに動くからよ」


 アダムは勢いよくニコラスの背中をばしんと叩いた。その衝撃でむせ込みながらも、指で「OK」と輪っかを作る。食事を終えてすぐに、ニコラスは説得を試みようと二階へ上がっていった。

 その姿を見届けてから、ニノンがこそこそとアダムに尋ねた。


「昨日決めた作戦って?」

「そりゃ――なぁ、ルカ?」


 アダムはにやりと笑うと、ルカに目配せする。ルカは静かにスープをすすっているクロエへと顔を向けた。


「クロエさん、壁にかかってる仮面をもう一度使うことはできますか?」

「え、あれ? 比較的新しいものは大丈夫だと思うけど、古いものは劣化が進んでいて難しいんじゃないかしら」


 ヴェネチアンマスクはすべて紙から作られる。何重にも重ねられ圧縮された紙は硬質化し、まっさらなキャンバスを兼ね備えた滑らかなマスクへと姿を変える。それが古くから伝わる仮面の伝統製法なのだ。

 そんな頑丈な仮面でも『時間』という劣化の魔の手には抗えない。紙はむしばまれるスピードが早いため、人々は年をまたぐ毎に――カーニバルへ参加する毎に、新しい仮面を新調するのだ。


「クロエちゃん。心配しなくていいぜ」


 彼女が不安げな眼差しを仮面へと向けていることに気付いてか、アダムはルカの肩をぐいっ引き寄せ、「こいつ、修復家だから」と白い歯を見せた。


「修復家……あの、絵画の価値を上げるっていう……?」

「絵画の修復を専門にやってますが、それらのノウハウを活かせばすべての芸術品・・・・・・・を修復できます」

「げ……芸術品?」


 ルカは静かに頷いた。


「例えばこの一家が作ってきたヴェネチアンマスクだって――修復できます」


 言いきってから、ルカは壁一面の仮面をぐるりと見渡した。フルフェイスやバタフライなど形の違いもあれば、ペイントされた色や柄も一つひとつが異なっている。豪華に装飾されたそのどれもが、世界に一つしか存在しない芸術品なのだ。


 芸術品、と口の中で発したクロエの視線は、どこか不思議そうにふわふわと漂っていた。

 この世界から『芸術』という言葉が消え去ろうとしているのだと、ルカは思った。人類の希望と引き換えに、上塗りされて見えなくなってしまった芸術性のように。


「ルカ君……仮面の修復をするって、でもどうして?」


 ぼうっとしていた意識は、クロエの問いかけによって引き戻された。


「それが昨日俺たちの立てた作戦なんだけど」

 と、アダムが代わりに答える。

「カーニバルの日までに必要な画面の数が用意できなかった場合を想定して、この壁に掛かってる仮面を修復しておくんだ。でも、修復した仮面を使うのは最終手段。一番はやっぱり、クロエちゃんの弟がやる気を取り戻すことだからな」


 誰もが示し合わせたように二階へと続く階段を見上げたとき、ドンドンと玄関扉を叩く音がした。

 クロエはすぐには動かずに、怪訝な表情を浮かべながら扉を凝視した。この島に来客なんてあり得ない、とでも言いたげだ。事実、この島に上陸しようなどと考えるもの好きなんて、この町には存在しないのだろう。

 すると扉の向こうの来客は、催促するように再度ドンドンと扉を叩いた。


「はい、今行きます」


 クロエは警戒しながら、そっと扉を開く。そこに佇んでいた人物を目にして、ルカはぎょっとした。


「初めまして。こちらは仮面職人ロダンさんの家で――ってルカ、奇遇だな。なんでここにいる?」

「お……おじさんこそ、どうしてここに」


 そこにいたのは、かつて父・光太郎と共に道野修復店を切り盛りしていたクロード・ゴーギャンだった。隣には、矢絣柄の振袖に濃紺の袴という出立ちの小柄なおかっぱ少女、善哉カナコもいた。

 意地悪な笑みを浮かべる男を押しやって、おかっぱ頭の少女はルカにずいと詰め寄った。


「あなた、わたくしを騙したわね!」

「え――え?」


 身に覚えのない言い掛かりにルカはすっかり拍子抜けする。カナコはさらに距離を詰め「とぼけないでくださいまし!」と叫んだ。


「クロードから聞きましたのよ。あなたが憎っくき道野家の跡取りだってことを!」

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