第33話 ヴェニスの夜

 一行は半ば押し掛けるような形で〈仮面職人の島〉を訪れた。

 あたりはすっかり薄暗く、三角屋根の家はいよいよ魔女の住処すみかのように怪しげに佇んでいる。ヴェニスの町並みとはまるでかけ離れた光景。死んだような色彩が、景色いっぱいに塗り込められているのに、どこかに生き物の気配がする。不思議な絵画みたいな場所だ。わずかな光が、蛍のように三角屋根の窓から漏れていた。


「おばさん、私ブロッコリー大好きなの!」

「ニノンちゃんは野菜好きなのね。うちの息子とは大違いよ。さ、遠慮せずにたんと召し上がってね」


 ゴトンと音を立てて、サラダの乗った大皿が机に置かれた。朗らかに笑う女性はクロエによく似ている。無駄な肉を削ぎ落としたような細身の体も、サイドに束ねられたベージュの髪色も瓜二つだ。違うところと言えば、笑った時にできる目尻の皺くらいだろうか。


 急な押しかけだったにもかかわらず、一家は宿泊を快諾してくれた。そのときの母娘の瞳は、ニコラスを見つめる度にキラキラと輝いて見えた。おそらくクロエが事前に話をしていたのだろう。キッチンに引っ込む直前に、母親は「後でサインをいただけたら嬉しいんだけど」なんてこっそり耳打ちするほどだった。「まるで芸能人だな」と、アダムはおどけたように呟いた。


「カーニバルに参加するためにこの町に来たの?」


 小皿に取り分けられた野菜のソテーを回しながら、クロエの母が尋ねる。クロエが余った野菜をもらってくるからか、食卓に並ぶ料理はどれも野菜で作られたものばかりだ。


「ちょっと成り行きでね。でも、カーニバルをこの身で体験できるなんて光栄だわ」


 ニコラスが答えると、母親はふふっと笑った。


「あなたたち幸運よ。だってここ何十年もお祭は廃止されていたのだから。来年も開かれるとは限らないしねぇ」


 山盛りに積まれたブロッコリーから目を離して、ニノンは顔をあげた。


「お祭り、今年だけなの?」

「ええそうよ。あんまり騒いでいては政府に怒られちゃうものね」


 そう言って肩をすくめ、クロエの母は困ったように微笑む。それきり、空になった皿を数枚腕に乗せて、彼女はキッチンへと引っ込んでしまった。

 未だに疑問符を浮かべ続けているニノンの横で、トマトのスープをすすりながら、アダムは「ロロと同じってことだろ」と呟いた。


「どういうこと?」

「エンジニアとか天文学者が世間から嫌な顔されるのと一緒だよ。『やりたい』って気持ちだけじゃ駄目なんだよな。世の中が必要としてるものじゃないと」


 わずかに俯いたクロエを視界にとらえながら、ニコラスも口を挟む。


「サーカスも同じようなもんだよ。言ってみればただの娯楽だろ。でも、観に来てくれる人がたくさんいる。今日だってさ、広場で大道芸をやったんだ。無駄な行為だって言われつつも、足を止めて観てくれる人がたくさんいた。誰しも心のどこかできっと、その無駄なものを求めてるのさ」


 無駄なもの――その言葉に一括りにされてしまった数々のものについて、ルカは静かに想いを馳せた。


「だからアルカンシェルは、いつ肩叩かれるかなんてびくびくするのは止めることにしたんだ。必要とされてるのにみっともないからね」


 はっと息を呑んで、クロエは顔をあげた。その先には、ニコラスの清々しい笑顔がある。


「無駄じゃないと思う」


 ぼそっとルカは呟いた。


「え?」

「無駄じゃないよ。結果が目に見えないだけで、救われてる人はきっといる」


 口をついて出た言葉は、干からびた地面に雨粒が吸いこまれるようにルカ自身の心に浸透した。

 おそらく、半分は自分に言い聞かせたかったのだ。世界から排除される無駄の定義。自分が持ち合わせているものさしは、いつもどこか世界の水準とずれている気がしていた。今まで別段それに対して不満があった訳ではない。考え方は人それぞれだし、どうでもいいと思っていた。

 けれど最近、グラスの氷が溶けていくように、少しずつ自分の気持ちが変化してきていることを感じていた。

 生まれ育った村を出て新しい世界を目にしたからだろうか。それとも、この三人と出会ったからだろうか。


「どうしたんだよ、修復のこと以外で熱くなって。俺はちょっとうれしいぞ!」

「なんでアダムがうれしいんだよ」


 ルカは頭をぐしゃぐしゃにかき混ぜてくるアダムの手を払いのけた。

 と、はずみで上を向いたとき、壁に掛かったたくさんの仮面が視界に飛び込んできた。

 日に焼けて黄ばんだものから、まだ作られて新しいものまで様々だ。一枚一枚異なった模様が描かれていて、どれだけ眺めていても飽きないような精巧なつくりをしている。


「なんだよ……仮面?」


 一点を見つめるルカの視線を追って、アダムも顔をあげた。


「代々続く仮面職人の作品よ。カーニバルが終わったら用済みになる仮面を、こうして壁に貼り付けているの。ふふ。未練ったらしいわよね」


 クロエの眼差しは言葉とは正反対に優しくて、愛おしむように色とりどりの作品に注がれている。


「そんなことないよ」


 ニノンの真摯な声に、クロエはそっと顔をあげた。


「だってちゃんと感じるもん。この仮面から、カーニバルの熱気とか、楽しい気持ちを……」


 この瞬間も、ニノンは仮面に染みこんだ思い出に寄り添っているのだろう、とルカは思った。

 彼女はどんな記憶を見ているのだろうか。

 たった三日間。なんの変哲もない日常が、魔法の国に変わるその瞬間を待ち望む――そんな人々の、喜びの感情なのかもしれない。


「ありがとう、ニノンちゃん。不思議ななぐさめ方をしてくれるのね」


 まるでカーニバルを見てきたかのような物言いにクロエは瞳を瞬かせた。


「あっ、う、うん。私たちもとっても楽しみだから」

「ありがとう。……頑張らなくちゃね」


 さざなみの立たない水面のような呟きは、静かに団らんの中へ消えていく。クロエは膝の上で赤ぎれだらけの指をそっと擦りあわせた。


 *


「部屋がせまくってごめんなさい。お客様なんて来たことないからベッドの数も足りなくて」


 暖炉の前に散らばっていた本の山をどかしながら、クロエは心苦しげに言った。


「ううん、こっちがいきなりお願いしたんだもん。それに、私たちどこでだって眠れるよ」

「おい、『私たち』に俺らを含めんじゃねえよ」


 丁度シャワーを浴びて戻ってきたところに、アダムの荒げた突っ込みが飛び出したので、ルカは思わず肩をびくりと揺らした。

 ふと視線を落とすと、綺麗に片付いた暖炉前にはカラフルな布が何重にも敷かれていた。日本では床に布団を敷いて眠る習慣がある、と祖父から聞いたことがある。コルシカ人はもちろんベッドで眠る。クロエが工夫を凝らして、眠るスペースを削り出してくれたのだ。



「――そりゃ結構筋金入りの引きこもりだな。俺たちまだ顔も見てないぜ」


 即席布団の上で円になり、ニコラスが諸々の事情を説明し終えた頃だった。アダムは片肘をついて渋い顔をする。


「それを何とかしたいんだよ。あの子がやる気になってくれなきゃ、カーニバルは中止になっちゃうかもしれないんだ」

「何とかっつってもなぁ……」


 家族でさえ引っ張り出すのが難しいのに、他人がどうこうできる話でもないというのは、ニコラスも承知の上だった。

 どこかに落ちている閃きのタネでも探すように、アダムは視線をさまよわせた。埃をかぶった暖炉、壁に張り付けられたたくさんの仮面、裁縫店のワゴンに積まれているような布切れの山――の上で、あぐらをかきながら黙々と修復作業に勤しむ黒髪の少年。


「『白金の乙女』か?」

「うん」

 布の上に横たえられた絵画を覗きこむアダムに、ルカはこっくりと頷いた。


 虹のサーカス団・アルカンシェルの新団長、ウィグルから譲り受けた絵画の一ピースだ。上端と右端に切断面があるので、おそらく左下部分に位置する絵画なのだろう。

 一枚目と同じようにシルクのローブが画面の大半を占めている。腰まで伸びた艶やかなプラチナベージュの髪。その周りをふわふわと漂う白い羽。少女の手には何かが握られているが、キャンバスは丁度そこでちぎれている。


「なにかわかったのか?」


 アダムの問いにルカはゆるくかぶりを振って、先端に汚れがこびり付いた綿棒をティッシュで包んだ。


「まだクリーニングだけだから。本格的な修復は全部を繋ぎ合わせてからじゃないと難しいんだ」

「ふぅん。じゃ、結局どんな絵画かわかんねえのか」


 いや、と短く言葉を切って、ルカは絵画の一点をそっと指差した。描かれているのは、鋼色をしたなにかを持つ、いくつかの手だ。


「この絵画には人物が二人描かれてる。それから、周りに羽が舞ってて。まるで天使を描いたみたいに――」

「宗教画ってことか?」


 眉をひそめながらアダムは再び絵画に目を落とした。

 実際のモデルを参考に描かれる肖像画や風景画などとは異なり、宗教画では宗教上重要な人物や伝説、つまり救世主や弟子が描かれる。画上に天使が舞っている絵も少なくない。


「どうかな。それは全体像を見てみないとなんとも……」


 そのとき、アダムの隣でじっと絵画を見つめていたニノンが、ふいに口もとを抑えて「うっ」と呻いた。


「どうした、なにかイメージが見えたのか?」


 俯いた顔を覗きこんだ瞬間、アダムは思わずぎょっとした。少女の頬に血の気はなく、真っ青な顔をしている。ぼんやりと空中をさまよう両目は焦点が定まっていない。


「ニノン、大丈夫?」


 ルカはうつむき加減の少女の顔を覗き込んだ。ややあって、「大丈夫」と弱々しい声が絞り出された。


「この絵画に込められたイメージを、汲み取ってみようと思ったんだけど……」

「なにかよくないイメージが?」


 するとニノンはまるで体に纏わりつくモヤをかき消すように、ぶんぶんと首を横に振った。


「違うの。受け取れなかったんだ。汲み取るのが怖くて・・・。ルカの言うように『よくないイメージ』なのかも。それか、心が拒絶してるのかな……」


 こんなこと初めてだよ、とニノンは血の気のない顔でため息をついた。


「無理することじゃないよ。ニノン、あんたの心がこの絵の気持ちを受け取る準備が整うまで、待てばいいだけのことさ」

「待っても……いいのかな?」

「当たり前だろう。絵画の声を聞けるのなんてあんたぐらいしかいやしないんだから。いつまでも待つに決まってる」


 大きな手のひらが、ぽんぽんとリズムよくニノンの頭を撫でた。そして最後に、ニコラスはぺしんと音を立ててニノンのおでこを軽くはたいた。


「いい? 無理はしちゃ駄目だからね」

「はーい」


 厳しく諭す言葉の中にはきちんと優しさがまぎれている。


「ニノンちゃん、体調が悪いの?」


 途中から会話を聞きかじっていたらしいクロエが、たくさんの洗濯物を両手いっぱいに抱えてやって来た。


「ううん、もう大丈夫なの」

「ニコラスさんが言うように無理は禁物よ」


 アダムがニヤニヤしながらニコラスの顔を伺い見た。


「なにか言いたげね、アダムちゃん」

「いーや、別に?」


 こんなにも可愛い子が健気に自分のファンだと言ってくれるなら、苦労のひとつやふたつ、背負いたくなるものだ――口を噤んだつもりだろうが、アダムの顔にはべったりと言いたいことがへばりついているのであまり意味がない。「言いたいことがあるならはっきり言いな」と、ニコラスは珍しく顔を赤らめて口を尖らせた。


「とりあえず、ニノンちゃんは私と一緒に寝ましょう」

「え? そんな、いいよ。大丈夫。私この暖炉の前で平気――」

「駄目よ。男の子たちとは別で寝なきゃ」


 クロエは躊躇せずにぴしゃりと言ってのけた。そういうことかと一人合点したニノンは、大人しくクロエの後について行くことにした。

 壁に沿って湾曲した階段を上る背中に「あとはこっちで相談しといてやるよ」とアダムが声を掛ける。クロエの弟をどうやって部屋から引っ張り出すか。肝心の作戦はまだ立てきれていなかった。


「じゃあ、お言葉に甘えて。よろしくね、おやすみ」

「おやすみ」


 ニノンは首だけ捻って三人を見下ろし、肩越しに小さく手を振った。

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