6章 マスカレード・カーニバル
第25話 もう一人の記憶喪失者
この町は朝方になるとよく霧に包まれる。
今だってそうだ。オレンジ色をしたレンガ造りの建物も、バルコニーを彩る可愛らしい花々も、建物の間を巡る水路も、まるで雲が覆いかぶさってしまったように真っ白だった。
小さな橋をくぐり抜けて一隻の小舟が現れた。少女はオールを灰緑色の水面に突き刺すと、ぐうっと水をかき、手慣れた手つきですいすいと水路を進んだ。やがて路地に続く石造りの階段の元までやって来ると、路地に突き出た一本の棒に縄をかけ、小舟が水路に流されてしまわないようにしっかりと固定した。
うっすらと消えはじめた霧の中、少女はきょろきょろと辺りを見渡しながら、慎重な足取りで大きな屋敷へと続く裏口へ急いだ。
「ドロシー!」
男の声が屋敷にとどろいたのは、昼食の仕度を終えた給仕係が廊下に顔を覗かせた時だった。
「また屋敷を抜け出して小舟でどこかに行っていたな。待ちなさい、ドロシー!」
シーツを抱えた召使いや、仕度を終えた給仕係の間をすり抜けながら、少女はちらりと後ろを振り返った。顔を真っ赤にして走る男は随分と後ろにいる。きっと脂肪のつまった腹がつっかえて走りにくいのだ。このまま町へと抜け出してやろう――少女がほくそ笑んだ時、どすんと何かにぶつかった。
「まぁ、ドロシーったら。またお父様に怒られているの?」
「お姉さま! そこをどいてよ、お父様に捕まっちゃう――」
「もう逃げられんぞ、ドロシー! はぁ、はぁ……すばしっこさだけは――町一番だな、はぁ」
姉と父に挟まれたドロシーは、脱走ができないと悟って頬をむくれさせた。父は立派な無精ひげを怒りにわななかせ、姉はそんな二人をどこか楽しげに見守る。ワズワース家の日常風景だ。そんな光景をすっかり見慣れてしまっている給仕係の一人が「とりあえずお食事にいたしましょう」と促したので、親子はしぶしぶと食堂へ向かった。
「本当よ。今朝は部屋にいたわ。小舟なんか使ってない」
大理石でできた長方形のテーブルには、ランチといえど豪勢な料理が並べられていた。向かい合うように父と母が座り、二人を挟むようにして四人の姉妹が席についている。ドロシーはワズワース家の末娘で、三人の姉とはけっこう年が離れている。落ち着き払った娘たちと比べてしまうからか、単に危なっかしい行動が多いからか、父親が目くじらを立てるのは決まってドロシーにばかりなのだ。
「嘘をつくんじゃない。ロープの位置が変わればすぐ分かるようにマークを付けておいたからな」
ドロシーは噛みかけの肉を一思いに呑みこんで「ひきょう者!」と叫んだ。
「何も屋敷から出るなと言っている訳じゃない。一人で小舟に乗るのは危ないと言っているのだ」
「だってこの町は――ヴェネチアは、水路ばかりじゃない。小舟がないと行けない所だらけだわ」
「何を言っている。きちんと路地も整備されているのだから、散歩がしたいのなら足を使いなさい。一人で小舟を漕いで転倒でもしたらどうする? お前はまだ泳げないだろう」
「大丈夫よ。舟を漕ぐのは慣れてるもの」
「そういうことを言っているんじゃない!」
ドロシーは最後にぶどうを一粒もぎとって口に放り込むと「ごちそうさま!」と元気よくあいさつして椅子からぴょんと飛び降りた。父親の制する声などどこ吹く風と、少女はそのまま食堂を飛び出していった。
「なんとかならんのか、あのじゃじゃ馬娘は」
過保護になっているつもりはないが、と男はこめかみを押さえた。
「こんな調子じゃあ先が思いやられるわ」
「カーニバルのことね」
「あの子、お祭り騒ぎにかこつけて、いつかこの町を飛び出しちゃうんじゃないかしら」
姉妹は口々にそんなことを言いながら、優雅に食事を楽しんだ。母親も微笑みながら娘たちの話を聞いている。険しい顔をしているのは父親だけだ。
「やはり、私が過保護なのか……?」
いいや、そんなことはない。誰も返答をくれないので、男は心の中でそう呟いて、自分自身を鼓舞することに徹した。
*
「え?」
思わず聞き返したのはニノンだった。ヘッドシートの間に顔を突っ込む少女の隣で、ルカも耳をそば立てた。ニコラスは落ち着き払った様子で同じ言葉を繰り返す。
「五年前――ゾラさんに拾われた時、私も記憶を失くしていたんだ」
「それ、記憶喪失ってこと? 私と同じだね」
「いやいやいや。同じってお前ね……。記憶ってのはそんなにぽんぽん無くなるもんか?」
アダムは呆れた口調で呟くと、緩やかなカーブに沿ってハンドルを切った。平坦な道の左右には、風が吹けば倒れるんじゃないかと心配になるぐらいボロボロの柵が続いている。子どもでもまたげそうな低い高さの柵にはたして意味があるのかは分からないが、その向こう側に、こぢんまりとした小麦畑が広がっている。
普段なら景色が変わる度にニノンがそれを見てはしゃぐのだが、今は誰ものどかに広がる小麦畑の風景を見てなどいなかった。
「目を覚ました時に私が覚えていたことは三つだけだった」
まるで当時を思い出すように、ニコラスは目を細めた。
「自分の名前と、弟の存在。それと、ベルナールの指輪。それだけさ」
「弟って、ダニエラさんのこと?」
「ベルナールの指輪について聞きたいんですが」
ニノンとルカはお互い顔を見合わせると、目を瞬かせた。ほぼ同時に飛び出た質問は、音が混ざり合ってよく分からなくなった。
「順番に話すよ。それと、敬語は使わなくて良いからね。呼び名もニコラスで良いし――で、なんだっけ」
「ダニエラさんと」
「ベルナールの指輪」
今度は交互に声を出した。ニコラスはふむ、とひとつ頷いて一つめの話をはじめた。
「まず私には双子の弟がいたってことを思い出したんだ。それはもう、意識がはっきりしてからすぐにね。名前はダニエラ・ダリ。私の唯一の肉親だったんだ」
「唯一の?」
「ああ。両親はいない。捨て子だったからね」
そうなんだ、とニノンは曖昧に返事をした。ニコラスは空気が湿っぽくならないように努めて、明るい口調で続ける。
「ゾラさんに拾われたことは不幸中の幸いだったよ。なんせ、島内を点々と旅するサーカス団だったからね。私はありがたくもその一員として迎えられた。そこで、旅をしながら弟を探すことにしたんだ」
「じゃあダニエラさんにはまだ会えてないのね?」
ニコラスは頷いた。
「それどころか、有益な情報さえ掴んでない。生きてるのか、死んでるのかさえ……」
「生きてるよ、ダニエラさんは」
「え?」
「だって『便りの無いのはいい便り』って言うじゃない!」
ふん、と鼻息を荒くしてニノンは自信たっぷりに言ってのけた。
きっとまたどこかで覚えてきた言葉なんだろう、とルカは思ったが口に出さなかった。こういう時、突っ込みを入れるのは決まってアダムなのだ。案の定「またどっかから覚えてきたな」と呟く声が運転席から聞こえた。
「それで、ベルナールの指輪は」
「ああ――ルカ、あんたが持ってる指輪と同じものだけど。これについては誰かに話を聞いたんだろう?」
「父さんからなら……でも最低限のことしか聞いてない。父さんも、おじいちゃんから受け継いだものらしくて。詳しいことは良く知らないみたいなんだ」
ニコラスは「ふぅん」と頷くと、首に下げたネックレスを手繰り寄せて指輪を掲げた。日の光に照らされた指輪はやっぱりくすんだ鈍色をしていて、表面にはしずくのような形をした紋章が掘られている。ベルナールの家紋だ。
「この指輪が、ベルナール家への絶対忠誠を誓う印だって話は聞いたのかしら」
「あ、……うん」
頷きながら、ルカはちらりと横目でニノンを見た。ベルナールの末裔を命に代えても護る――その話をニノンの前でするのは妙にはばかられた。その言葉がどんなニュアンスで伝えられたのかは分からない。しかし『命に代えても』だなんて壮大な話を、ましてや自分に関する話を聞くのは誰だって気まずいだろうとルカは考えたのだ。だから、レヴィを出る時に光太郎と交わした話を、アダムとニノンに詳しく説明することはしなかった。
だけどそんな心配は杞憂だったのかもしれない。ニノンは相変わらず興味津々にニコラスを覗きこんでいる。ルカは少しだけ安堵した。
「私はこの指輪を大切な人から貰ったんだ」
「え! 大切な人って、まさか恋人?」
いつになく瞳を輝かせてニノンが食いついた。こと恋愛の話になると、池に放り投げられたエサをついばむコイのように話題に群がる女は多い。勢い余って前席のヘッドシートをがくがくと揺らしたので、アダムが「危ねェだろ!」と怒鳴った。
その隣で口元を押さえながら、ニコラスは「違う違う」と笑った。
「私に生きることを教えてくれた人さ。その人に頼まれたんだ――ベルナールの紋章をもった子を護ってほしいって」
そう言って、ニコラスは本当に愛おしそうに指輪を見つめた。バックミラーに映るその瞳を見てルカは彼がどこか遠いところを見つめているのだと悟った。光太郎やロロが、何かを引き金にして大切な人を思い出したように、ニコラスもきっと指輪を通して大切な人に会いに行っているのだ。ずっと遠くに行ってしまった、もう会えない人の元へ。
「そんな訳だから、ラピスラズリのペンダントを持ってるニノンを護るし、あんたが望むなら記憶探しも手伝う。もちろん、ルカの絵画探しもね」
「絵画が全て揃ったら、きっと何かが分かるんだ。絵画と指輪はベルナール家から受け継がれたものだから――そうすればニノンの記憶についても何か重要な手掛かりが掴めるはずなんだ。ちゃんと記憶を取り戻せるように、ニノンのことはしっかり守るよ」
「あ……ありがとう」
ニノンは尻すぼみになりながら礼を言って、ぱっと俯いた。そして、妙に気恥ずかしいのはルカが改まってそんなことを真顔で言ったからだろうと思うことにした。
「ところで気になってたんだけど」
いそいそとネックレスを服の中にしまって、ニコラスは唐突に話題をかえた。
「アダムちゃんはどうして一緒に旅をしてるの? 専属運転手?」
「ちっ――ちげーよ! あとちゃん付けすんなって!」
ブオン、とアクセルをふかしてビートルは木々が茂る森の道へと突入した。結局四人がのどかな田舎風景に目を配ることはなかった。
「だいたい合ってるかな」
「合ってねェだろ! お前の冗談は顔が真顔だから分かりづらいんだよ」
「冗談じゃないけど……」
「お、俺はただの運転手だったってのか?」
アダムはくちびるを尖らせて「心外だぜ」と吐き捨てた。
後部座席から手を伸ばして肩を突いてみるも、アダムはそ知らぬ振りでフロントガラスの向こう側を一心に睨んでいた。完全に拗ねている。
少しいじめ過ぎたかなぁと反省する一方で、ルカはそういえばどうしてアダムと旅をすることになったんだろうと記憶を巡らせた。ポルトヴェッキオからレヴィに戻る際、あの劣悪な環境のバスで帰るのが億劫だったから、アダムの車に乗り込んだのだ。あれ、やっぱりだいたい合ってるな、と首をかしげた。
「アダムは画家になりたいって夢があるんだよ」
「おいニノン、言うなって」
「私たちが初めて出会った時、アダムは一人でこの島を旅して回ってたの。でも何だかんだで一緒に行動するようになったんだよ。一人より三人の方が楽しいもんね?」
直接の出会いである『食い逃げ事件』を、さすがのニノンも『何だかんだ』と形容して濁した。
「へぇ、いいじゃない。そういう成り行きの出会い。旅って感じがするね」
相変わらずくちびるを尖がらせて、ついでに肩も怒らせて乱暴に運転しているアダムだったが、バックミラーに映る顔にはわずかに照れた表情が浮かんでいる。おそらくアダムはこの中で誰よりも分かりやすい性格をしている。俺は怒ってるんだぞ! という意気込みが持続できなくなったのか、眉間にしわを寄せつつも「俺はさあ」と普通に口を開いた。
「こいつらと一緒に旅したら、俺の世界が広がりそうだなって、思ったんですよー」
あくまで拗ねている風を押し出している。二つも年上なのに妙に子どもっぽい仕草をするアダムを見てルカはおかしくなった。
「楽しいよ。アダムと旅するの」
「この野郎、やっと認めたか」
アダムはくちびるを尖らせるのも忘れて笑った。
両脇に流れる木々の緑色は、ポルトヴェッキオを出た時よりも随分と深まっていた。コルシカ島には雨季が無い。だから、春から夏に変わる境目はいつも曖昧だ。夏の知らせはいつも葉の色や、朝晩の空気に交じる微妙なにおいの違いが運んでくる。
「お、ミモザが咲いてる」
アダムが呟いた。よく見ると緑の茂みに紛れて毛玉のような黄色い花がぽつぽつと咲いている。それらは次第に姿を増し、気がつけば両脇に溢れんばかりのミモザが咲き乱れる道に様変わりしていた。
「アダムちゃんが花の名前を知ってるなんてね。ちょっと意外だわ」
「カルヴィに俺の幼なじみがいてさ。その子の名前が『ミモザ』って言うんだ」
どうやら名前にちゃんを付ける行為について、咎めることを諦めたらしい。アダムはフロントガラスを流れていくミモザを眺めながら優しく微笑んだ。
「恋人?」
「お、さ、な、な、じ、み!」
吠えるアダムを無視してルカは窓の外に目を向けた。ミモザは春の花だ。本来なら春の早い時期に花をつけ、今の時期には実になってしまっていることが多い。だけど、ここの道に咲くミモザはまだずっと春を堪能しているようだった。レモンのような鮮やかな黄色に見とれていると、ふとその奥に白い何かが見えた。
「――アダム、ストップ、ストップ!」
「あ!?」
アダムは咄嗟にブレーキペダルを踏み込んだ。キュキュ、と摩擦の嫌な音を響かせてビートルは道のど真ん中で停車した。すかさず後ろを振り返り、後続車がいなくて良かったとアダムは心底安堵した。
「あのなぁ――」
「仮面の男がいたんだ」
「は?」
「多分、ベニスの仮面だ」
言うが早いかルカはドアを勢いよく開けて車から飛び出すと、そのまま森の茂みの中へと入って行った。「待ってよ!」と、慌ててニノンがその後を追う。
「ちょ、ちょっと待てよ。ビートルはどうすんだよ!」
「アダムちゃん」
「なんだよ!」
「このミモザロードの近くにある町は、確か一つだけのはずだよ」
「町?」
「ああ。一度だけそこでサーカスをしたことがあるのさ。案内したげるよ」
「なるほどな。助かるぜ。こんなとこで通せんぼしてたんじゃあ事故に遭っちまうよ」
と言いながら、アダムはすかさずアクセルペダルを踏み込んだ。
「あの子たちはどうするんだい」
「放っときゃいいんだ。どうせ一番近い町に行き着くだろ」
「ま……それもそうだね」
すすけたビートルは森の茂みに隠れた町を目指して、ミモザの咲き乱れる道を駆け抜けていった。
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