第24話 カーテンコール

 ショー用のスパンコールが散りばめられた衣装に身を包み、今日もばっちりと髪の毛を立たせた男が、忙しなくあたりを行き来していた。思わず蹴っ飛ばしてしまったシマ模様のボールが、せっせと準備に勤しんでいたグリエルモの尻にヒットした。


「落ち着きなよ、ウィグル」

「はぁ? 俺はいつだって落ち着いてるだろうが」


 明らかに落ち着いていないのだけれど、本番前になるとウィグルはいつもこうなることをハビエルは知っている。苦笑いを浮かべながら今日のショーの段取りについて考えていると、背後からぬっと飛び出てきた拳が、ゴツン、とウィグルの頭に落ちた。


「なに緊張してるんだい。みっともない」

「やめろよ、セットが乱れるだろ!」

「ふん。それだけ元気があれば、今日のラストは大丈夫そうだね」


 ニコラスはにやりと笑ってステージ裏の奥の方へと消えた。

 不器用だけど、誰よりも団員に目を配り気遣うことができる。そんな彼の、本来の姿が戻ってきて本当に良かった、とハビエルは心から思った。だからこそいつにも増して緊張してしまうウィグルの気持ちもよく分かる。今回の公演は新生・アルカンシェルにとってひとつの節目となる、大切な公演なのだ。


「スッキリしておきたいから今聞いちゃうけど」


 ハビエルは、きゃんきゃんと犬の鳴くような声のする方へ顔を向けた。今日のシュシュはやけにカラフルなチュチュを着ていて、いつも以上にファンシーな仕上がりだ。


「あんたたち、夜中にコソコソとテントで何してたの?」

「え、どうしてそれを」

「どうしてって……べ、別に何も悪いことなんてしてないんだから! 夜中に目が覚めてたまたま目撃しちゃっただけヨー!」


 やけに焦るシュシュをいぶかしげに見つめていると、少女は小猿のようにぴょんぴょん跳ねながら「さっさと白状しなさいよ!」とあおり立てた。


「空中ブランコの練習をしてたんだよ」


 うろついていたウィグルがぴたりと足を止め、ぶっきらぼうに言ってのけた。


「なーんだ。悪さじゃなかったのネ」

「誰がそんなことするかよ」

「で、で、成果はどうなの?」

「あーもー、人のことつべこべ言わずに自分たちの準備しろよ!」


 はーい、と元気よく両手を広げて、シュシュはルーグの大きな体を駆けのぼった。

 その傍から淡いパープルのシルクドレスに身を包んだヴィヴィアンがゆったりと体をくねらせてやって来る。漆黒の髪を金色の髪飾りでひとつに束ねながら、そういえば、と口を開いた。


「結局、投影機が壊れたり紐が切られたりした事件は何だったのかしらねぇ」


 ぎくりと肩を震わして、シュシュはさっとルーグの首元にしがみついた。まるで大男が虹色のフォックスファーマフラーを巻きつけているみたいで、ひどく不格好だ。


「あれ、お化けの仕業ですよ」


 何食わぬ顔でアダムは言った。


「でももう大丈夫です。俺たちがやっつけちゃったんで」

「あらあら、アダム君は悪魔祓いもできるの? それは頼もしいわねぇ」


 世の中真実を知らない方が良いこともある。嘘も方便とはまさにこのことだなぁ、と端の方で一部始終を見ていたルカは、小さい頃に祖父が教えてくれた日本語を思い出した。

 そっと顔を上げたシュシュに、アダムは小さくウインクしてみせた。



「ウィグル」


 相変わらず行ったり来たりを繰り返している男に、ハビエルは声を掛けた。


「最後の、空中ブランコのことだけど」


 一旦言葉を区切ってこくりと唾を呑みこんだ。シュシュやルーグのように、言葉がなくても気持ちが伝わるほど器用な性格ではない。だったら、思っていることはしっかり口に出すべきだ。

 ハビエルは昨日の出来事から一晩、ずっと考えていた。そして、二人の間に隔てられていた透明な壁の正体にやっと辿り着くことができた。ウィグルが怒っていたのは、あの日――空中ブランコを失敗した時に、その事について自分が何も口に出さなかったからなのだと。


「僕は今回の公演、絶対成功させたい」


 分厚いカーテンが揺れて、隙間からちらちらと照明の光が漏れる。ハビエルはその光から目を逸らさずに、空中で華麗に舞う自分たちの姿をそっと思い浮かべた。


「だから、空中ブランコは絶対つなげる。何があっても」


 静かに聞いていたウィグルは、にっと笑うとハビエルの背中をばしんと叩いた。

「ったりめーだろ。俺らがどんだけ練習してきたと思ってるんだ」

「そうだったね。うん……そうだったよ」

「おう」


 二人は照れ臭そうに笑って、パチンと手を叩きあった。


「――さ、みんな集まって!」


 パンパンと手を打ち鳴らして、ニコラスは団員をステージ裏の一角に集めた。ルカ達雑用係も加わり、十一人はぐるりと大きな輪を作った。


「もうすぐ本番だけど、準備は良いわね?」


 ニコラスは一人ひとりの顔をゆっくりと見つめた。厚みのあるカーテンの向こう側から、観客たちの期待をはらんだざわめきが聞こえてくる。途端に一同の鼓動は早まった。緊張もある。だけど、それを超えた興奮。そして純粋な嬉しさ、サーカスができるという喜び。

 もはやこのテント内を埋め尽くす感情は、明るいものばかりだった。冷たい嵐は過ぎ去ったのだ。


「大丈夫。私たちは今からこのショーを成功させる。絶対ね。自信を持ちな――さぁ、行くよ!」


 団長の後に続いた全員の掛け声と共に、重ねられた手のひらが、ぐっと押しこめられた。輪は散り散りとなり、それぞれの定位置へと向かう。そして、ニコラスは顎を引くとマイクを握りしめ、さっそうとカーテンの向こう側へ飛び出した。


Benvenutiようこそ我が a casa miaサーカス団へ!――……」



 ホテル・トリトンの一階部分はロビーを除いて全てが食堂にあてられている。といっても、普段このホテルに客が入ることは極めてまれな上に、食堂の存在を店主がアナウンスすることも無いため、その存在を知る者は少ない。

 しかし、店主の粋な計らいで、虹のサーカス団・アジャクシオ公演の大盛況を祝うパーティーはこの食堂で夜通し行われることになった。三週間という長い公演期間中、大した問題も起きずにサーカスは大団円を迎える事ができた。もちろんラストの空中ブランコも一つのミスも出さずに全て成功させた。そして、最終日。亡きゾラの意向により、全席無償の招待プログラム開演が実現したのだった。


 メンバーたちは思い思いに酒を飲み、料理をつまんだりしながら、尽きることなく話に花を咲かせた。


「お疲れさま」


 ハビエルとグリエルモに折り重なるようにして眠りこけているウィグルのタオルケットを掛け直しながら、ニノンはそっと呟いた。

 連続公演は想像以上に体力の消耗が激しい。朝方にもなると皆が皆、糸がぶつんと切れて動かなくなった人形の様にぐっすりと眠りこんだ。団員が目を覚ますのはおそらく日がすっかり昇った頃になる。ロビーのメモ用紙を勝手に拝借し、メッセージを書き終えると、ニノンは一人一人の枕元にそれを差し込んだ。


「本当にいいんですか? 挨拶しなくて」


 ルカが問う先では、身支度をすっかり整えたニコラスがアルバムとにらめっこしていた。じっくり吟味した後、一枚の色あせた写真を抜き取ってかばんに大切に仕舞い込む。彼がゾラに拾われてから初めての公演――それが成功したあと、馬鹿みたいに騒ぎ立てた夜の写真だった。

 ニコラスは顔をあげて、「いいのよ」と微笑んだ。


「それより私の方こそ、無理言って悪かったね」


 まだ団員が興奮冷めやらぬ雰囲気で話に興じていた頃。ニコラスはルカ達にある相談を持ちかけていた。


:


『唐突な話だな、旅に同行したいなんて。サーカス団はどうすんですか』


 肉の塊がのどに詰まり、アダムは思わずせき込んだ。すかさずニコラスが「声が大きいよ」と人差し指を唇に押しあてる。


『次期団長は決まってるから問題ない。まだ青臭い部分は抜けてないけど、ウィグルはもう立派にゾラさんの意志を継いでいけるよ』


 グラスに残った生ぬるいワインを一思いに飲み干して、ニコラスは楽しそうに笑いあうメンバーたちを眺めた。今までの思い出が、蓋をしたはずの心から溢れ出そうになる。


『つらそうな顔してる』


 緑色に染めた眉の間に寄るシワを見つめながら、ニノンがぽつりと呟く。


『そりゃあ、別れはいつだってつらいもんだよ』

『どうしてつらい方を選ぶの?』


 すると、ニコラスの大きくて暖かい手が、ニノンの頭をくしゃくしゃと撫でた。


『人にはやらなきゃいけない時ってもんがあるからさ』


 持て余していた空のグラスを机に置いて、ニコラスはおもむろに胸元からネックレスを取り出した。細いチェーンに通された銀色の指輪。それを見た瞬間、ルカは驚きにあっと声をあげた。


『ベルナールの指輪……! どうしてそれを……』

『あんたをずっと探してたんだ』


 ルカの右薬指にはまった指輪と瓜二つのにぶい輝きを放っている。何から尋ねれば良いのか、とルカが思案している間に、ニノンが胸元からラピスラズリのペンダントを手繰り寄せた。今度はニコラスがあっと息を呑んだ。


『私はニコラスさんを探してたんだ。ダニエラさんについて聞きたくて』

『ダニエラ――それは、私の弟の名前だよ』

『え?』


 詳しいことは後でゆっくり話そう。ニコラスはその言葉を最後に、テンション高く跳ねまわっていたシュシュに引っ張られるようにして、賑わう群れの中へと入っていった。


:


「そういや、結局テントから絵画は見つからなかったな。どうすんだよ、ルカ」


 アダムは机や床に散らばった小包装タイプのお菓子をせこせこと拾い集め、ありったけかばんに詰め込んでいた。ついでに皿に残った生ハムやチーズを仕事のように口に放り込んだ。


「それなら問題ないよ」

「は? 見つかったのか?」


 相変わらずパンパンに膨らんだリュックサックを背負込むと、ルカは無言のままこくりと頷いた。



 同刻――。

 山道を歩く男が二人と、少女が一人。姿を隠す必要がない今は、黒いフードを目深に被ってはいるが、息苦しい仮面で顔を覆うことはない。


「ネジ緩めてトラップ仕掛けたり、わざわざ男に絵画を探させたり、オペラは小細工がほんと好きだよねー」


 一番背の高い、分厚い瓶底眼鏡をかけた男がおどけた口調で言った。すぐ隣で少女はムッとした表情をした。その手には長方形の箱がたずさえられている。ちょうど丸められた絵画が一つ入るくらいの大きさだ。

 箱の開閉部分には、雲母のようにきらめく、つるりとした長方形のプレートが貼り付けられている。道野家の地下室に通じる扉に施された鍵と同じものだ。


「でかしたぞ、オペラ。中身は確認したんだろうな?」

「……解除用のキーがないから、まだ……、……?」


 長方形の箱を探っていた手がぴたりと止まる。鍵が開いている。プレート式の鍵は、対になる鍵でしか開けることができない。不思議に思いながら、少女はゆっくりと箱を開けた。


「…………きゃあぁ!」


 か細い叫び声が森に響き渡った。少女は思わず箱を放り投げ、背が低い方の男にしがみついた。高く上がった箱をキャッチした背の高い男は、箱の中から飛び出た『あるもの』の触覚を器用につまみあげて「ひゃっひゃ」と笑った。


「ふん。まだまだ詰めが甘いな、オペラ」

「……ごめんなさい、ボルト」

「まぁ良い。最後に笑う者が勝つんだからな」


 がっくりと肩を落とす少女を気にする風でもなく、ボルトは再び歩き始めた。


「ねぇねぇボルト、コレ飼ってもイイ? イイよね?」

「さっさと捨てろ」


:


 アダムはばしんばしんと自分の太ももを叩きながら腹を抱えて笑った。「えげつねぇ」とか「やっぱり『ヤツ』は戻ってきたんだな!」などと遠慮なくはしゃぐので、ニノンは団員の眠りの妨げにならないだろうかと心配になった。


「ハビさんが見つけてくれたんだよ。中身はちゃんとここにある」


 結局絵画はウィグルが所持していたという。それも、ホテルの自室にしっかりしまい込んであったらしい。どうして知らないなどと嘘をついたのか。ハビエルが問いただすと、ウィグルはバツが悪そうに顔を背けて「親父の形見を大切にしまってるなんて、恥ずかしいだろ」と言った。


「ま、なんにせよ絵画も回収できて一件落着だな」


 古びた木の扉を開けると、きしんだ音がした。そびえ立つ壁のような建物に切り取られた空が白みはじめている。まだ冷たい朝の空気に、春の終わりの匂いが混じる。

 ニコラスは最後に扉の向こう側にいる団員をじっと見つめた。ルカたちはそんなニコラスを、言葉もなく見守る。


「行きましょう」


 何かを吹っ切るようにしてニコラスは踵を返した。後を追う三人。

 その時、入り口で黒猫がにゃあと鳴いた。カンカンカン、とけたたましい音が鳴り響いたのは、ニノンが振り向いたのと同じタイミングだった。


「な……なに?」


 入り口にセーラー帽を被った屈強な男が、フライパンと金づちを持って仁王立ちしていた。店主が起きている姿を目の当たりにして驚くルカたちに、男は再び金づちでカンカンとフライパンを打ち鳴らした。


「あんたは、挨拶もろくに覚えずに育ったのか?」


 ひどく気だるげな顔をもたげて、ウィグルがのそのそと通りに出てきた。後に続いて他の団員もぞろぞろと集まってきた。


「何も言わずに去るなんて、水くさいのヨ!」

「ふがっ……ウンウン……さみしい」


「団長、どうしても出ていかなきゃならないのか?」


 寂しげな瞳をこちらに向けて、ハビエルが問う。

 できるならば留まってほしい。それは誰の胸にもある思いだった。


「ええ。ごめんね、ハビ」


 静かに微笑むニコラス。今度はヴィヴィアンが音もなく歩み寄り、同じ程の背丈の男を優しく抱きしめた。


「寂しくなるわ……。でも、あなたが自分で選んだ道ですもの」

「ヴィヴィアン、たくさん世話になったね」


 彼女の瞳からこぼれる涙を手でぬぐってから、ニコラスはゆっくりとウィグルに向き直った。


「アルカンシェルを頼んだよ、団長」

「……ニコラス」

「大丈夫、あんたなら出来るよ」


 朝焼けに霞んだ笑顔は、ウィグルには見えなかったかもしれない。それでもニコラスは絶対の信頼を込めて笑顔を作り、再び彼らに背を向けて歩き出した。もう戻れない。けれどそこに自分の居場所があったことだけは確かだった。その事実はきっと、ニコラスを守る力となる。

 去りゆく背中に突如、仲間たちの声が突き刺さった。


「今まで――ありがとうございました!」


 新しい団長の声と共に、団員の声が重なった。

 七人は過ぎ去った日々の尊さを思った。まぶたを閉じればすぐそこに広がる、スポットライトに照らし出される煌びやかなステージ。沸きおこる歓声。高鳴る鼓動。隣には苦楽をを共にしてきた仲間達の笑顔――その全てを、彼らが生涯忘れることはないだろう。


「それはこっちの台詞だよ。こんな奴についてきてくれてありがとうね――これからも頑張るんだよ」


 ニコラスは振り返らずにそう告げた。見上げれば青みがかった空。目が痛くなるほど清々しい朝だ。白くなり始めた三日月が建物に隠れるまで、ニコラスは明けの空をずっと見つめ続けた。瞳にたまった涙がこぼれてしまわないように。


「また会おうねー!」

「眠りこけてる眼鏡にも言っといてくれー!」


 ニノンたちは振り返り、叫んだ。呼応するように団員たちも別れの言葉を口にする。そして、四人が白んだ町の向こう側へ消えゆく姿を、いつまでも見送っていた。



「ええ! みなさん、もう行ってしまったんですか!」


 太陽が昇りきった頃、起き抜けの顔でロロは叫んだ。ごっちゃりした荷物の中から小さな機械を取り出しながら、「どうして起こしてくれなかったんですか」と唇をとがらせた。


「僕も最後のあいさつぐらいしたかったですよ……って、え?」


 ロロは咄嗟に画面に顔をくっつけて、そこに映し出される解析結果をまじまじと見つめた。


「お前らさっさと片付けろよ。広場の貸切期間は今日までだからな」

「何なのウィグルってば、ちょっとしっかりしちゃって」

「ブン投げてやろうか、チビ!」


 お決まりの、意味不明なスキンシップが始まる様を見つめながら、ハビエルは痛む頭を押さえた。人知れず吐き出された重たいため息は、ロロの素っ頓狂な叫び声にかき消されてしまった。


「あの人たち、どこに向かったって言ってました?」

「さぁ……そう言えば、行き先は聞いてなかったな」

「そんなぁ!」


 ロロは解析機と通信機を握りしめてホテルを飛び出した。画面にはここ一ヶ月の日付とグラフが表示されている。グラフ上にぽつぽつと光り輝いている部分が二ヶ所あった。日付を見るとちょうど三週間前――サーカスが開演する前日を指している。ロロは慌てて通信機のボタンをプッシュした。コール音が一つなったところで『どうした』と機嫌の悪そうな声が機械から発せられる。


「ジャック! エネルギーの反応がありました!」

『いつ、どこで』

「場所はアジャクシオ。反応が大きいのでとても近いと思います。時間は、三週間前で――」

『遅すぎる!』

「すっ、すみません……」

『で、発生源は特定したのか』

「は、はい。目星は……でも、その」

『はっきり言え』

「ええと……今どこにいるのか分からな――」

『この、マヌケ眼鏡! 探せ! 追え!』


 けたたましい怒号とともにブツリと音を立てて通信は途切れた。あまりの剣幕にうっすらと浮かべた涙をぬぐいながら、ロロは慌てて荷物をかばんに詰め込んだ。そして、二日酔いにガンガンする頭をさすりながら、賑わいをみせるアジャクシオの大通りを駆け抜けた。


「どこに行っちゃったんですか、みなさんー!」


 彼の悲痛な叫び声がルカたちの耳に届くことはなかった。


〈五章 虹のサーカス団・完〉

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