第23話 天架ける虹の橋

 事故だったのだと、少女は瞳に涙をめいっぱい溜めて言った。


 歓迎会が開かれた夜中のことだった。飲酒ができなかった腹いせに、テーブルに並ぶ料理を端から端まで食べつくしたせいか、胃もたれを起こしたシュシュは中々寝つけずにいた。夜風にあたろうと部屋を出た時、ホテルを抜け出すハビエルとウィグルを見たという。


「なんで二人が?」

「私も気になったから、ちょっと後を追ってみたのヨ」


 辿り着いたのはサーカステントだった。明かりがついてしばらく経った。ほどなくして灯りは消え、二人はテントから出てホテルへと戻って行った。ニコラスに反発しているウィグルが、ハビエルを誘って何か企んでいるのかもしれない――そんな憶測を立てながら入り口に足を踏み入れた時だった。シュシュは何かに足をとられ、けつまづいた。その直後、けたたましい音と共に上から装置が落下してきたと言う。


「それが大切な投影機だって気がついたら、パニックになっちゃって……わざとじゃなかったのよォ……ぅっ」

「分かってるよ。あなたがわざと大切な機械を壊すわけないもん」


 湧きだす泉のように止まらない涙を、ニノンはポケットにしまってあった真っ白なハンカチでふき取ってやる。


「じゃあさ、どうして紐を切ったりしたんだよ。今日だって、何かするつもりだったろ?」

「機械を壊したところ、誰かに見られちゃったの」


 その少女は暗闇と同じ色の真っ黒なローブを羽織っていたという。不気味な仮面をつけていたから顔は分からないが、気配もなく突然現れたので、シュシュは亡霊か何かだと思ったらしい。


「不気味な仮面?」


 ルカがぽつりと呟いた。


「その子に、バラされたくなければ明日の夜中に紐をズタズタにしなさいって言われたの。そして次の日はボールに穴を開けろって……」

「なんでそんな奴の言うことに従ったんだよ。機械は事故だったんだろ? だったら隠すことも――」

「知られたくなかったのよぅ!」


 と叫んで、シュシュはむせび泣いた。


「ゾラさんも死んじゃって、ウィグルと団長は喧嘩したままで、ただでさえサーカスができるか分からない状況なのに、機械を壊しちゃったなんて……ひっく。小さなものを壊していけば、あとは私が幽霊の仕業だって仕立ててあげるって、言われたからァ……うぅ」


 しゃくり上げながら、シュシュはステージの上でうずくまるようにして土下座をした。


「お願い、このこと、皆には言わないで……私、ルーに嫌われたくないよォ……!」


 その時、ステージの裏から大男がぬっと姿を現した。シュシュが、今この場に最も居てほしくないと願った男、ルーグだ。彼は無表情のままずんずんとステージ上をうずくまる少女の元へと進む。シュシュはまるで息の仕方を忘れたかのように静かに男を見つめた。


「ルーグさん、これは、その。とりあえず話を――」


 アダムの言葉を通り越して、ルーグは張りつめて壊れそうな少女に手を伸ばした。そしてその大きな腕で、優しくシュシュを抱きしめた。


「全て知っていた」


 ルーグはめいっぱいの優しさを込めて頭を撫でると、わずかに口角をあげて微笑んだ。


「お前が隠しごとなど、出来たためしがないだろう」

「――ご、ごめんなさい……!」


 シュシュは息を吹き返した。そして温かい腕の中で、壊れたおもちゃのように声をあげて泣いた。ルーグがそれ以上言葉を掛けることはなかった。心が通じ合った二人に、着飾った言葉は必要ない。


「ねぇ、ルカ。不気味な仮面って言ってたよね。それってまさか……」

「ベニスの仮面だ」


 ルカは暗闇を見つめた。やはりどこからか絵画の情報を嗅ぎつけて忍び寄ってきていたのか。しかし、逆に言えば、どこかに必ず絵画が隠されているということになる。


「ルーグさん。明日の朝、皆さんをここに集めてもらえますか」

「了解した」


 小さな背中をさする手を止めずに、ルーグは頷いた。



 サーカス開演まで残り一日。


「皆さんにご報告があります」と、アダムは一歩前に踏み出して取り仕切った。「投影機が無事直りました!」


 意気揚々と言い切って、自ら拍手をぱちぱちと打つ。ヴィヴィアンやグリエルモも続いてぱらぱらと拍手をした。


「これでなんとか開演できそうね」


 ニコラスは頬に手をあてて安堵のため息をもらした。しかし、テント内の空気は雨降りの日が続いたみたいにしっけて、くすんでいる。良かったわねぇと口々に言い合うのに、その笑顔はどこかぎこちない。ウィグルは笑ってさえいなかった。


「問題は解決したってのに、何でそんなに浮かない顔してんだよ」


 耐え切れなくなったアダムがおもむろに切り出した。答えたのはニコラスだった。


「ただの緊張だよ。色々ハプニングもあったからね」

「そうじゃないですよね」


 ルカがはっきりと言い切る。


「……あんたらに何が分かるって言うの」


 ルカは用意していた絵画をそっと持ち出すと、掛けられていたタオルケットを取り払った。そこには血の通った男女の、笑いあう横顔が二つ。背景は淡い色が何重にもかさなって柔らかい虹色を表していた。ゾラが生涯手放すことなく大切にしていた絵画の蘇った姿は、不気味でもないし、恐ろしくもなかった。


「ここを見てください」


 そう言って、ルカは両手の人差し指で、絵画の二ヶ所をさした。


「〈ファン・ブラック〉――サインが二つ?」

「そうです。片方のサインは劣化により埋もれていました。修復中に見つけたんです。しかもそのサイン、よく見ると向きが逆なんです」


 これがどういう意味だか分かりますか。ルカはそう問いかけるように、一人一人に目線を送った。そして、掲げていた絵画をくるりと反転させた。下に書かれていたサインは逆向きになり、逆向きに書かれていたサインは正常な向きになった。


「こ、これは――」


 ルカはこくりと頷いた。男女だった顔は性別が逆転し、笑顔は悲しみの表情に変わった。嘆き、泣いているようにさえ見える。


「ファン・ブラック――大昔の巨匠が『擬態』というタイトルに込めた願いです」


 イメージが伝わってきた、とニノンが隣で呟いた。

 絵画からイメージやメッセージを受け取るとき、彼女は神が降りたシャーマンのように空気をがらりと変える。今だってそうだ。少しだけ伏せた瞼の下に覗く瞳は何も映し出していない。少女の身体を介して、ブラックの言葉が口から溢れだす。


「どれだけ笑顔を作ったって、心から笑えないとそれは悲しみが擬態しただけの偽物だよ。人間は、悲しい時にはうんと悲しまなきゃいけない。じゃなきゃ悲しみはしこりとなって心にたまって、いつか心を壊してしまう」


 うんと悲しむ――ヴィヴィアンはニノンの言葉をそっと繰り返した。


「ゾラさんや、ゾラさんのお父さんはこの絵画を違う風に見ていたみたい」


 そう言って、ニノンは虚ろ気な目をしたままルカの掲げていた絵画を再び反転させた。二人の顔に笑顔が戻る。


「どんなに悲しい思いをしている人でも、いつかは笑顔にすることができる。ゾラさんはそういう人になりたくてサーカスを始めたんだよ」


 雨上がりの空に掛かる虹を見つけた。それだけで人は訳もなく幸せになれる。ほんの少しの非日常が、日々の辛い出来事から一瞬でも逃れることができるなら。人間というのは不思議なもので、心に少しでもゆとりができるとこんこんと力がみなぎってくるものだ。

 ゾラはそれを知っていた。だから、自分たちが少しでもそんな存在であればと願って――〈虹のサーカス団〉という名前をつけた。


「ふん。そんなこと言ったって、結局一番身近にいた俺はないがしろだ。細かいことばっか言って、褒めたためしもねぇ。親父の理想のサーカス団に、言うこと聞かない落ちこぼれのクソ息子は邪魔なだけだっただろうなぁ。お望み通り抜けてやるよ、こんなサーカス団!」

「待てよ、ウィグルさん! あんたは親父と本当に向き合ったことがあるのか?」


 出口へと足を向けたウィグルの眉がぴくりと動いた。アダムは呆然としていたニノンの腕を掴むと、投影機の前まで引っ張っていった。ニノンは完全に意識が戻ったようで、ぱちぱちと目を瞬いた。


「言っておくがこれから起こるのは、ちょっとばかり不思議な体験だ。こいつには変な力があって、さっきので分かったと思うけど、絵画に染みついた気持ちを読み取ることができるんだ」


 アダムはニノンの背中をばしんと叩いた。バトンタッチ、という具合に、今度はニノンが喋りだす。


「今回は絵画だけじゃないの。このテントからたくさんの感情が伝わってくる。例えば、ゾラさんとか」


 一瞬周囲がざわめいた。冗談めいた口調でハビエルが口をはさんだ。


「そんな映画みたいな話があるならぜひ聞いてみたいけどな」

「嘘じゃないって皆に信じてもらいたい。だから――ステージにゾラさんの気持ちを映し出すよ」

「そんなことできるはずが――」


 ハビエルが言いかけた時、テント内の照明が全て落ちた。ニノンは叫ぶ。今から読み取ったイメージを、投影機を通して現すから、と。ロロが投影機のスイッチをONにする。一筋の光が白いカーテンを明るく照らし出した。


「あ……これは…………」


 ルーグに抱きかかえられていたシュシュが呟いた。その隣でヴィヴィアンは小さく息を呑んだ。


 ステージの壁いっぱいに広がっては消えていく、メンバーの姿。まだつぎはぎだらけで日の光が透けるほどちんけなテントでショーを開いていた日々。必死になって練習したメンバーたちの顔。雪の積もった日に作った大きな雪だるまと並ぶピエロや、些細なことで喧嘩をしている最中の親子。初めて大きな街でサーカスを成功させた時の、ステージ上に並ぶ誇らしげな顔。夏の夜皆でたき火を囲って語り合う姿。

 そのどれもが溢れんばかりの笑顔を称えていた。心から幸せだと分かる笑顔。同じ時を過ごし、血を超えた繋がりを持った人間たち。そして彼らを見守ってきたゾラの、走馬灯とも言える記憶の欠片。


「ずっと一緒に過ごしてきた人がいなくなって、平気なわけないよ」


 彼らは師を失った悲しみに背を向けているのだ、とニノンは思った。気丈にふるまっているだけで、心の底から大丈夫と言える状態じゃない。だから演技もどこかちぐはぐで、テント内の空気がこんなにも湿っぽいのだ。


「分かっていたの。でも、いったん現実を受け入れてしまうと、元に戻れなくなりそうだったのよ。もう、泣きわめくような年でもないのだし」


 言いながら、ヴィヴィアンは目の端から涙をこぼした。


「悲しみを我慢するのが大人じゃない。それは強さじゃないよ。皆にはもっと悲しむ時間が必要だと思う」

「悲しむ時間……か」


 ニコラスはまぶたを伏せた。それをメンバーに促したのは自分自身だ。ゾラが消えればアルカンシェルも終わる、などと思わせたくなかった。だから、何が何でも今回の公演は成功させたかったのだ。それが仇となってしまった。

 まだまだあなたの足元にも及ばない――ニコラスは心の中でそっと呟いた。


 映し出されるイメージは更にさかのぼり、それは一人の青年にクローズアップされた。青年は少年になり、おぼつかない足取りで歩きはじめ、やがて、泣きじゃくる赤ん坊とそれを抱きかかえ幸せそうに笑う男の姿を映しだした。


「これは、俺と――親父、なのか」

「お父さんはウィグルさんをないがしろになんかしてない。少し気が張っていただけだよ。一人前にしなきゃって。でも、ずっと迷いの心が残ってた」

「迷いの心……」


 ロロは静かに投影機のスイッチを消した。テント内に再び照明が点った。


「ウィグルさんをこっちの世界に道連れにして良かったのかって。本当は歩むはずだった普通の人生を、自分は奪ってしまったんじゃないかって。ウィグルさん、最後に喧嘩した時に言ったんでしょう?」


 『サーカス団になんて入りたくなかった』――それは口からついて出ただけの、ただの喧嘩言葉だ。だけどそれはゾラにとっては非常に辛い言葉だった。ウィグルは「そんなつもりで言ったわけじゃない」と呟いた。


「言葉ってそんなものだよ」


 ニノンは微笑んだ。


「便利だけど、誤解も生まれやすい。ゾラさんの厳しさの裏にはちゃんと愛情があったこと、ウィグルさんに知ってほしかったんだ」


 返す言葉もなく、ウィグルは床に膝をついた。しんと静まり返った中、ニコラスはゆっくりとウィグルに近づいた。そして取り出したものを差し出した。何の変哲もない真っ白な封筒に、達筆な字で〈ニコラスへ〉と書かれている。


「最後にゾラさんに会った時に渡された手紙だよ。『私に何かあったら読んでくれ』ってね」


 ウィグルは無言でその手紙を受け取ると、ぎこちない動きで手紙を広げた。その内容は数枚にも及んでいた。「あんたたちも読みな」とニコラスが言ったので、他のメンバーたちもウィグルの持つ手紙を囲んで輪になった。


 そこにはやはり達筆な字で、遺書のような文章が書き連ねられていた。

 新プログラムに導入する新しい試みについて。取り入れたい今後の技術について。虹のサーカス団のこれからの方針について。その中には、ニコラスとウィグルの衝突の話題であった無償席についての言及もあった。

 そして最後に、次期団長にウィグルを就かせたいこと。その為の力を養うまで、代役としてニコラスに団長を務めてもらいたいことが書かれていた。


「無償席を作るのはゾラさんの意見だけど、私の希望でもある。それは否定しない。同じ境遇だっていう私情があるのも否定しない。でも、少しでも幸せを必要としている人たちに、楽しみを与えたい。それが虹のサーカス団の存在意義だって私は思ってる」


 ウィグルは押し黙った。誰も口を開こうとしない。ニコラスの決意は固かった。これが、彼の最後の仕事になるからだ。


 その時、「ぼくは、ぼくは」という聞いたことのない声が上がった。パイプに穴が開いて、空気が漏れるような、おかしな声だった。


「エッ、もしかして、グリエルモ?」


 シュシュは驚いてピエロメイクの男を見つめた。グリエルモはふごふごと口を動かし、必死に言葉を紡いだ。


「僕は、こんなに変な声だから。フガ、小さい頃から喋らないで生きてきた……。でも、言葉にしてつたえたいから、がんばる」


 グリエルモはフガフガといっそう力を込めて声を出した。


「僕は、もう一度、フガ、みんなと全力で、サーカスがしたい! ゾラさんがっフガ、安心して――旅立てるように」


 その言葉に、メンバーたちは徐々に顔をあげた。

 『皆ともう一度、全力でサーカスがしたい』――色んなことが起こりすぎて、そんな単純な思いを誰もが心から失くしていたのだろう。その言葉は優しくアルカンシェルの心を繋いだ。

 激しい嵐が過ぎ去った青空。ちょうど七色の、天架ける大きな虹のように。


 ニコラスはふ、と小さく息を吐き出すと、何かが吹っ切れたようにパンパンと軽快に手を鳴らした。


「じゃあここで最後の採決を取るよ。明日のサーカス開演に賛成の者は挙手!」


 はいはい! と率先してシュシュが左手をつき出した。それにならって他の面々も手を挙げていく。最後に、俯きながらウィグルが小さく手を挙げた。「満場一致だね」とニコラスはにんまり笑い、もう一度手を鳴らした。


「そうと決まればホラ、ぐずぐずしないで、リハーサルの準備するよ。雑用係! リハーサルの準備頼むよ!」

「はいはい、了解! ほんと、人遣い荒いんだよなあ」

「私の専属アルバイトする気になったのかい」

「スイマセン!」


 しゃあねぇな、と呟きながらもステージ裏に向かうウィグルに、それを追いかけるハビエル。興奮気味に話かけるシュシュに、再び顔を真っ赤にして口を閉じてしまったグリエルモ。そんな彼らを見守るルーグとヴィヴィアン。先ほどの重たい空気が嘘のように、今や彼らの顔は晴れ晴れとしている。


「成功して良かったですね」


 ロロはほっと胸を撫で下ろした。


「助かったぜロロ。お前ってホントはすっげーエンジニアなんだな」

「そ、そうですか? いやぁそれほどでも」


 投影機に繋がれたパソコンの画面には、取り込まれたアルバムの写真が映し出されていた。頭を使うというのは、そういうことだったのか、とルカは思った。確かに、目からの情報は他の器官よりも何倍も影響力がある。


「皆、元に戻ってよかったね」


 画面から目を離し、アルカンシェルの団員たちを眺めた。迷いの無くなった彼らは何倍にも輝いて見えた。


「みんなで力を合わせれば、変えられないことなんて無いんだって思えちゃうよ」

「なにそれ。ニノンは、変えたいことがあるの」


 そう言ってルカは笑った。言ってみただけだよ、とニノンは笑われたことに少し頬を膨らませた。


「ルカはないの? そういうの」

「……うーん。漠然となら」

「えっ、教えて」

「秘密」

「なにそれ。けち!」


 ニコラスからの催促の言葉が飛ぶ。アダムと、なぜか雑用係にカウントされているロロは慌ててステージ上へと駆けていった。ニノンの手を引いて、ルカも彼らの背中を追った。

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