第26話 水の都ヴェネチア

 前方には疾走する黒いローブの男。その影を追って、ルカは深い緑の茂みを飛ぶ矢のごとく駆け抜ける。


「ルカ、ちょっと待ってよー!」


 後ろから息を切らしてニノンが追いかける。返答を返す暇もなくルカは仮面の男を追ったが、その距離は縮まるばかりかどんどんと引き離されてしまう。男はついに茂みの中へと姿を眩ませてしまった。


 ルカは肩で息をしながら、頬を伝う汗を手の甲でぬぐった。肺や、それに繋がる気管支がひきつったように痛む。

 男が走り始めたのは随分と遅かったはずなのに――なんて身体能力の高さだろう。

 はあ、とルカが一際大きく息を吐いたところで、やっと追いついたニノンも同じように肩で息をしながら男の消えた先を見つめた。


「あれ……水の音がする」


 ややあってニノンはぽつりと呟いた。言ったきり、じっと同じところを見つめている。ルカは不思議に思って視線を辿ってみたが、広がるのは葉の深い緑ばかりだ。


「水?」

「ほら、バシャバシャって。波の音かな?」


 まさか。ここは内陸であって海辺ではない――そう冗談めかして言おうと思ったが、それよりも先にニノンがずんずんと歩いていってしまったので、ルカは大人しく後をついていくことにした。


「水だ」

「ほら! 海――じゃないよね」

「どっちかというと運河かな。少し、潮のにおいがするけど」

「それにしても不思議……どうして水の中に建物が浮いてるんだろ?」


 程なくして深い森は終わりを告げ、開けた先には町が広がっていた。大きな運河をたくさんのエネルギー式ボートが行き交っている。ニノンの聞いた『バシャバシャ』という音は、おそらくこのボートが水上を走る音だったのだろう。

 通り過ぎるボートの向こう側には、オレンジ煉瓦の建物が運河に浮くようにして立ち並んでいる。正確に言えば浮いているわけではなく、建造物の間を運河が流れているのだ。大きな運河から枝分かれした細長い水路が、更に奥に続く建物の間をぬうようにして流れていく。

 ルカはこの独特の町並みを、本や絵画を通して何度も目にしたことがある。


「イタリアのヴェネチアにそっくりだな」

「ヴェネチア?」

「コルシカ島の右隣にブーツの形をしたイタリアって国があってさ。ヴェネチアはその国にある町の名前だよ」


 へぇ、と相槌を打ちながら、ニノンの心は既に美しい町並みに奪われていた。

 運河にかかる虹のアーチのような橋。煉瓦造りの建物からいくつも突出した黒い鉄格子で囲われた小さなバルコニー。そこから覗くバラやカラフルな花々。どこか異国を感じさせる町並み。その間を流れる青緑色の水路――を、何かが流れてくる。ロイヤルブルーの丸い何かが。

 ニノンがいぶかしげに青い物体を目で追っていると、橋の方からふいに少女の叫び声が聞こえた。


「そこの人ー! 私の帽子を拾ってー!」

「え、帽子って、これ?」

「その青いベレー帽よー!」


 慌てて運河に近寄るニノンを、ルカは「危ないよ」と制した。そして、地面に落ちていた長い木の枝を手に取ると、ベレー帽に枝の先を引っ掛けて、器用に帽子を拾い上げてみせた。

 一本の三つ編みを忙しく揺らしながら走ってきた少女に、ルカはつまみ上げたずぶ濡れのベレー帽を手渡した。


「ああ、ありがとう。風に飛ばされちゃって。またお父様に怒られるところだったわ――わぁ、綺麗な髪!」


 少女はまじまじとニノンの髪の毛を見つめながら、感嘆の声を漏らした。


「あ、ありがとう……。その髪もとっても綺麗だよ。キラキラしてて、まるで金貨みたい」


 ブロンドの髪の毛を金貨だなんて例える人間を初めて見たので、ルカはぎょっとした。少女はというと、そんなことにはたいして気にも止めずに、


「ありがとう! ブロンドの髪の毛はイングランドにはたくさんいるわよ。それよりもこの桃色の髪、見たことない色だわ! 珍しくて素敵」


 と屈託なく笑った。


「珍しいのって素敵なことなのかな?」

「そりゃあそうよ。普通ほどつまらないものなんてないじゃない? 朝起きて歯を磨いて、ご飯を食べたら習い事。夕方にポークソテーを食べたらお風呂に入って、夜に本を読んで一日はおしまい。一週間後の夕食はまたポークソテー! 毎日毎日同じことの繰り返し。はぁ、イヤになっちゃう」


 息継ぎも忘れて一気にまくし立てた少女は、最後に盛大なため息をついて会話を締めくくった。そんな勢いに気圧されて、二人はあっけらかんと少女を見つめた。


「はっ、ごめんなさい。喋り出すと止まらなくて……。私の名前はドロシー・ワズワース。あなたたち、見ない顔よね? 違う町からやってきたの?」

「うん、そうなの。私たち旅人で」

「旅人!?」

「う、うん。コルシカ島を車で」

「車で!?」


 喋ったり驚いたり忙しい女の子だなぁ、とルカは心の中で呟いた。あまりにも温度差が激しいと自ら身を引くのがこの少年の性分なので、ドロシーへの説明は全てニノンに放り投げることにした。ニノンも面倒になったのか、早々に「色々とあって」などという言葉を使っている。


 仮面をつけた男はベニスの仮面の一人だったのだろうか。今までで確認できたメンバーは三人。ペストと名乗った長身の男。老婆に化けていたという少女。それから光太郎を刺した男だ。

 背格好からして、茂みに潜んでいたのは三番目の男だろうとルカはふんでいた。あの嵐の晩のことを思い出す度に、絵画を奪われた悔しさが蘇った。それと同時に不気味な恐ろしさも思い出す。真っ白な仮面の奥に隠された、氷のような眼差しを――。


「ねぇ、ルカ」


 ん、と考えに耽っていた顔をあげると、ニノンが揉み手擦り手で近寄ってきた。そして、ぱちんと両手を顔の前で合わせると「一生のお願い!」と叫ぶ。


「ちょっとだけこの町、見ていこうよ」

「え、それは……アダムたちを待たせてるし」

「お願いお願い、ちょっとお散歩するだけでも!」

「うーん」

「きっとお友達もこの町に来るわよ」

「え?」


 首をひねるルカの顔を覗き込みながら、ドロシーがしたり顔で言った。


「あんな一本道に車なんか止められないし、この辺で町といえばここだけだもの。とりあえず車を止めに来るはずよ。だったら問題ないでしょう? 私がこの町を案内してあげるわよ。その代わり、あなたたちの旅のお話をたっくさん聞かせて!」


 ふん、と自信たっぷりに鼻から息を吐いたドロシーの隣で、ニノンはまるで神頼みでもするように両手をこすり合わせた。


「そういう事なら」

「やった!」

「仕方ないなぁ……」


 ばんざいをしながら喜ぶニノンを見て、ルカは笑った。


――仕方ないなぁ。


 そのとき、どうしてだか入道雲のように懐かしさがもくとくと積立って、ニノンの心はそれらに覆い尽くされた。

 揺れる黒髪の奥に何かが見える。

 声が聞こえる。



 窓ひとつない部屋だった。

 いたる所にたくさんのブロックや、木で出来た鼻の長い人形、カラフルなクレヨンが散らばっている。子供部屋のようだ。本棚にはびっしりと本が詰め込まれていて、天井からは揺れると音が鳴る星の飾り物が吊るされている。

 そのたもとに、少年と少女はいた。


『水に浮かぶ町なんて、すごいね』

『この島じゃない。海を越えた、もっとずっと先だよ』

『でも実在するんでしょう? 良いなぁ、一度で良いからこの目で見てみたいよ』


 少女は床に広げられた本のページに視線を戻した。水の都ヴェネチア。ゴンドラ乗りの男が妙にポーズを決めて舵を取っている。


『じゃあ、いつか連れて行ってあげる』

『ほんと?』


 顔をあげると、少年の顔は墨で黒く塗りつぶされていた。だけどなぜだかその少年の言葉は信じられる。彼が嘘などつかないということを、知っていたからだ。


『仕方ないなぁ』

 少年は黒髪を揺らしながら、優しく笑った。




「……ルカ?」

「なに?」

「あ、ううん。なんでもない」


 また何か思い出していたの、と言うルカにかぶりを振って、ニノンは運河を見つめた。真っ黒なゴンドラは浮かんでいないけれど、本のページに載っていた風景にそっくりな町だ。

 あれはいつのことだったのだろうか。分からないが、蘇った記憶の中で、その少女は確かに本の向こう側に広がる世界に夢を抱いていた。いつかこの目で本当の景色を見てみたいと。


「私、ずっとここに来たかった気がするよ」


 ルカは心配そうにしていた表情を緩めて「なんだそれ」と笑った。

「そんな気がしただけ! ドロシー、この町の案内よろしくね」

「ええ、任せておいて」


 三人は運河にかかる大きな橋を渡って、神秘の都ヴェネチアへと足を踏み入れた。



「実際に来たのは初めてだけど、ほんとヴェネチアそっくりだな!」

 ビートルの駐車を終えて町へと繰り出したアダムは、開口一番に感心の声をあげた。

「数年前に来た時と全然変わってない。本当に綺麗な町だよ」


 〈ヴェネチア〉――イタリアの都を模して作り変えられた町だ。ノスタルジックな風景は模倣町として完成度が高く、いつしか人はこの町を『ヴェネチア』と呼ぶようになった。内陸にあって水の都を作り出すことが出来たのは、ひとえに海から続く大きな一本の川がこの地にまで伸びているからだ。


「アダムちゃん、あの子らを探してきなよ」

「あ? ニコラスはどうすんだよ」


 観光でもする気かとアダムが眉根を寄せている間に、ニコラスはすたすたと広場の方へ歩いていってしまった。

 人はそれなりに行き交っていて、広場の左手には市場があり、魚屋の男が唄いながら通り過ぎる人たちに何か声をかけている。反対側には小さなお店が軒を連ねるちょっとしたストリートが続いていて、人の層が市場の通りより若干若いように見える。

 それらの通りの出発点となる広場の奥に、大層立派な建物が見える。おそらくこの辺りで群を抜いて大きいその建物には〈独立図書館〉という文字が掲げられていた。


「この辺でいいか」


 ニコラスは顎をさすりながら辺りをぐるりと見渡した。そうして市場と反対側の方に設置されたベンチのあたりを陣取ると、かばんから小さな機械を取り出して、なにやら準備を始めた。


「おいおい、何をはじめようってんだよ」

「あんたら、ろくに金も持ってないだろう?」

「な、なんでそれを」

 ぎくりと肩を震わせるアダムに、ニコラスはにっと笑った。

「だったら資金調達しなくちゃね」


 *


 水が染み込んで紺色になってしまったベレー帽を雑巾のようにぎゅうっと絞りながら、ドロシーは石畳みをさっそうと歩いた。


「本当は左を行った方が大通りに近いんだけど、こっちの道には素敵な水路があるの――ホラ! 少し曲がった水路と小さな橋、それからあそこのお宅はこの時期になるといつもバルコニーにミモザを飾るの! 細長い空の水色、ミモザの黄色、水路の緑。とってもお洒落な景色でしょう?」

「うんうん。まるでおとぎ話の中に迷い込んだみたい!」

「うふふ、そうでしょう。私はこの通りがヴェネチアの中でも一二を争う穴場スポットだと思うの」


 女の子特有のきゃぴきゃぴとしたトークから一線引いたところで歩いていたルカは、賑やかになりはじめた通りの向こう側に、大きな箱のような建物を見つけた。アーチ型の屋根が他の建物の三角屋根と異なるからか、ひどく目立って見える。


「この町のもう一つの特徴は、大きな図書館があることね」

「図書館、ってなに?」

「え……あなた、図書館を知らないの?」


 ベレー帽を絞る手を止めて不思議なものでも見るような顔をしているドロシーに向かって、ルカは「あー」と変な合いの手を打った。別段記憶喪失の件を隠していた訳ではない。ただ、根ほり葉ほり聞かれそうだったので、あえて口にしなかったのだ。


「コルシカ島には独立図書館って一つしかないからさ。一体どんな本が並んでるんだろうって興味があったんだ。それだけだよ」

「あら、だったら後で行ってみるといいわ。あそこは誰でも無料で利用できるから。きっと一生かけても読みきれないほどたくさんの本と出会えるわよ!」

「ああ、うん。そうするよ」


 それからしばらくの間、ドロシーのヴェネチア講説もとい観光案内は絶え間なく続いた。

 すっかりくたびれてしまったルカは、いくつ目かの橋の向こう側に見知った人物の姿を捉えてほっと胸を撫で下ろした。きっと今ほど彼が修道士に見えた瞬間もない。ぶすっと口を尖らせて、全然誠実そうな顔をしていなくとも。


「お前らなに観光してんだよ! アホか!」


 後ろに一つ結びにされたオレンジ色の髪の毛を揺らしながら、アダムは肩をいからせてやって来た。しかし隣に見慣れない少女がいることに気がつくと、しゃなりと柔らかい歩き方に変えて、微笑みを作った。


「お嬢さん、こいつにナンパでもされたんですか?」

「まぁ、ナンパだなんて。帽子を拾って下さったお礼に町の案内をしていたんです」

「それはそれは、こいつらがお世話になりました」


 と言うと、片手を腹に添えて、王子が姫にするようにぺこりと一礼した。隣で胡散臭いものを見るような視線を投げかけている二人には気付きもしない。


「そういえば、ニコラスは?」

「ああ。金稼いでる」

「か……?」


 よく分からない事を言う。首をかしげるルカの肩を抱いて、アダムは「その間、俺たちはフリータイムだぜ!」と声高らかに笑った。


「じゃあ私、行きたいところがある!」


 ニノンはびしっと片手を挙げた。


「あ?」

「独立図書館」

「図書館って――ああ、あの広場のとこの。なんで?」

「本を読んでみたいから」

「ああそう……」


 質問するんじゃなかったぜ、と独りごちて、アダムは元来た道を引き返した。手を頭の後ろで組みながらぶらぶら歩くその背中をルカは小走りで追いかける。面倒くさそうな素振りを見せるくせにきっちりと最後まで付き合ってあげるのは、彼に七人もの妹弟がいるからなのだろうか。


「マスカレード・カーニバルで会えるといいわね!」


 三人が橋を渡りきった時、ドロシーは向こう岸からそう叫んだ。耳馴れない単語だった。しかし、ニノンが尋ねる前にドロシーは慌てた様子で橋の向こう側へと走り去ってしまった。


「何だったんだろう」


 橋の向こう側を眺めながらニノンは首をかしげた。


「図書館行くんだろ、ほら」

「あ、うん」


 ポケットに手を突っ込んでぶらぶらと歩き出したアダムの背を追いかける。

 その背後で、びゅうっと吹いた一迅の風が何かを空へと巻き上げた。一週間後に迫った、この町で催されるカーニバルのポスター。それは人目に触れることなく水路にはらりと落ちて、ゆるく流されやがて見えなくなった。

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