第21話 ウィグルとハビエル

 機材の修理に希望が見えたところで、三人は今回の本業の掃除――もとい絵画の捜索活動を再開することにした。床上浸水の被害を拡大させまいとアダムがモップのしぼり方を教えてやったので、ニノンの手に握られているモップから水がしたたり落ちることはもうない。


 開演まで残るところ数日となった今、サーカス団のメンバーにとって日中の練習時間は何よりも貴重なものだ。絵画の在り処をウィグルに聞かねばならない三人だったが、話し合いの末、ひとまずは自分たちで手がかりを見つけようということになった。彼らの拠点はメインテントと倉庫テントの二つしかない。ざっと見て回っても一日と掛からないだろう。ウィグルの元へは、彼らの練習が終わってから訪れるといい。


「探すって言ってもな。なにか手がかりはあるのか?」


 手を首の後ろに回しながら、アダムは倉庫テントをぐるりと見渡した。

 懸命に掃除をしたおかげで少しは小奇麗になったが、吊るされたランプの明かりは相変わらず頼りない。物を探すのには苦労しそうな薄暗さだ。

 ルカは自分の家にベニスの仮面が侵入したときのことを思い出そうとする。


「一枚目の絵画が保管されていたのは地下室だ。扉は見たこともない錠で厳重にロックされていた。鍵を差し込むんじゃなくて、かざすだけで開く不思議な錠だ」

「さすがにここに地下室はねえだろ。サーカスは移動式だぜ」

「じゃあ、金庫とか? 大切なものは全部中に入れておくんだよね。それを泥棒が狙うの。金庫破り」

「破られたらたまんねえよ」


 二人が口々に意見を出す。ルカは右手の薬指にはめられた指輪に視線を落とした。ゆらめくランプに照らされて、ベルナールの紋様を作り出すわずかな溝に影が落ちる。


「この指輪が鍵になってるんだ。二枚目が保管されている箱か扉にも、これで開く錠が付いてるんだと思う。ベルナールの指輪を継承した人間にしか開けられないようにって」

「だったら、やっぱり金庫を探せばいいんだね!」

「金庫……まぁ、鍵のかかった箱って可能性は高いかな」


 そのとき、カサッ、とテントの奥で物音がした。

 三人は一斉に口を噤み、目だけを動かして音のした方をじっと見つめた。天井から吊るされたランプは相変わらず薄ぼんやりとしていて、物陰に潜むものの正体は見えない。

 団員は皆、メインテントで練習に打ち込んでいるはずだ。では一体誰が――?


 無闇に想像を掻き立てて怖くなったのか、ニノンがルカの右腕にしがみつく。一方、アダムは反対の腕に取り付き、「絶対ヤツだ。テントから追い出したから、復讐しにきたんだ」と震えている。

 ルカは両腕にへばり付く二人をずるずると引きずって、なんとか物陰に近付いた。

 そこにいたのは――。


「……ハビさん。こんなところで何してるんですか」


 積み上げられた木箱の裏で、ハビエルが身を屈めて隠れていた。今までルカにしがみついていた二人は一転して力を緩め、「なんだぁ、ハビさんか」「びっくりした」と安堵のため息をもらした。

 一瞬苦笑いを浮かべたハビエルだったが、膝をついて立ち上がると、険しい声でこう言った。


「君たち、一体何者なんだ?」


 普段の柔和な雰囲気はなりを潜め、彼は血色の悪い顔で三人の前に立ちはだかる。

 団員以外の人間が揃いも揃ってこそこそと倉庫内を物色している。しかも、「金庫を探している」などと言い合っているのだ――三人は、そこでようやく客観的に見た自分たちの怪しさに思い至る。


「あは、何者って、俺たちただの雑用係っすよ」

「そ、そうだよ。私たち、別になにか盗もうなんて思ってないよ!」


 あまりにも下手すぎる弁明に、ルカは思わず頭を抱えた。盗っ人と勘違いされても仕方がないレベルだ。

 だが、ハビエルから返ってきたのは意外な反応だった。


「鍵の付いた箱のこと、君たちも何か知っているのか?」

「え、君たち"も"……?」


 ハビエルはきまりが悪そうにがしがしと頭をかいた。そして、放置されていたペール缶に静かに腰を下ろすと、重々しく口を開いた。


「昨夜、大通りであやしいおばあさんに会ったんだ」


 近いうちに災いが起こること、ゾラの霊が行き場を失くしてさまよっていること、それが謎の箱に憑りついていること。


「最初はただの物乞いで、でたらめを言ってると思っていたんだ」


 ハビエルが嘆息した理由には、翌朝のトラブルが関係しているという。


「投影機器を含めたあの辺りのセット、組み立てたのは僕なんだ。枠組みとして使用する部品はちゃんと確認してから使ってる。だからボルトの経年劣化はあり得ない。組み付けも……僕自身はしっかりやったと思ってるんだ」

「そのトラブルに、ゾラさんの亡霊が関係してるって……?」


 尋ねたニノンの顔を一瞬窺ったハビエルは、分が悪そうにすぐさま視線を逸らした。


「そんな話を鵜呑うのみにするなんて馬鹿げてるって自分でも思う。だけど君たちも同じような話をしてたから、もしかしたらと思ったんだ。――路上でおばあさんに会ったのか?」

「あー、えっと。おばあさんには会ってないんだけど」

「じゃあどうして箱のことを?」

「それは……」


 三人は目くばせしたのち、言葉なく頷きあう。そして、ハビエルに今までの経緯を洗いざらい話すことにしたのだった。


 *


 ルカたちの目的が"窃盗団に狙われた絵画の回収"であること、その一部を所有していたのが虹のサーカス団・前団長のゾラであること、倉庫を物色していたのは絵画を収めた鍵付きの箱を探すためであること。

 一から十まで説明し終えたところで、真面目に耳を傾けていたハビエルがふむ、と腕を組んで頷いた。


「とりあえず、僕たちの目的は一致していると考えていいんだね。僕も君たちも、鍵付きの箱を探したい、ってことだ」

「絵画がその箱に入ってるならば、です」


 ハビエルはもう一度頷き、立ち上がった。頭身があるので、頭が吊るされたランプに当たりそうになる。ニノンはフードの紐先をいじっていた手を止めて、男を見上げた。


「手分けしようよ。私たちが倉庫の中を探す、ハビさんがウィグルさんに話を聞くっていう割り振りはどう?」

「ウィグルにはもう聞いたさ。これが"知らない"の一点張りで」

 ハビエルは肩をすくめてお手上げのポーズをしてみせた。

「でもそれは多分、嘘だ。あいつ、きっと何かを隠してる」

「どうしてそんなことがわかるの?」

「わかるよ。ずっと一緒に組んできたからね。それにウィグルは単純だから嘘が下手くそなんだ」


 そう言ってハビエルは笑った。優しさの目一杯つまった、彼らしい自然な笑顔だった。


「今から僕も探すのを手伝いたいところだけど、生憎練習が押しててさ。君たちに、テントの中の捜索を任せてもいいのかな」

「もちろん!」

「もちろんっすよ」


 ニノンが自信満々に自分の胸をトンと突いてみせると、同じタイミングでアダムも同様の仕草をした。互いに顔を突き出してムッと眉をひそめる。


「真似すんな」

「真似じゃないもん」


 またしても幼稚な喧嘩が始まったので、ルカはすかさず二人の間に右手をつき出した。二人の仲裁に入るのももう慣れてきた。幾度となく繰り返されるルーチンワークである。


「あはは、君たちは面白いね。このまま予定通り公演スタートできる気がしてきたよ」

「弱気なこと言ってないで、ハビさんはきっちりウィグルさんと空中ブランコ成功させてくださいよ」


 励ましのつもりか、アダムは遠慮なくハビエルの背中をばしんと叩いた。「それが一番の難問かもしれないなぁ」と苦笑いを浮かべながら、ハビエルは三人に見送られて倉庫テントを後にした。


「時間もあんまりないし、手分けして探そう」


 再び静けさを取り戻したテント内で、ルカが先陣を切って動いた。捜索箇所をざっくりと三手に分け、手当たり次第に探していく。

 積み上がった段ボールを一つずつ開けていくが、どれもスパンコールがふんだんに使われた衣装やカラフルなレオタードばかりが出てきて、箱らしきものはひとつも出てこない。ルカが担当したスペースは、どうやら衣装道具がまとめられていた場所らしい。

 四箱目の段ボールを閉じ直したとき、後方からぽつりと声がした。


「なにか聞こえるよ」


 振り返れば、ニノンが暗闇の片隅に視線を投げたまま立ち竦んでいた。


「ニノン〜、そういう冗談はよせって。寄ってきちまうだろうが、いろいろと」


 アダムは顔を青くさせながら叱責する。どうやら彼女の言葉を心霊的な発言と捉えたらしい。「んなとこで突っ立ってないで、さっさと探すぞ」とニノンの肩を引っ張ったが、ニノンはある一点から目線を外そうとしない。


「な、なんだよ」

「あそこから聞こえる」

「俺には聞こえねーぞ!」


 怯えるアダムを無視して、ルカはその視線の先に目を向ける。

 そこには、浮遊するふたつの生首があった。


「うぎゃッ! ……って、この間の不気味な絵画じゃねえかよ。ビビらせるなよ、まったく」


 男と女の、横を向いた生首が一体ずつ暗闇にぼうっと浮かんだような構図は、初見でなくとも気味悪さを覚える。ニノンはアダムを振りほどき、引き寄せられるように絵画の前に立った。


「この絵画、なにか言おうとしてるみたい。でもイメージにモヤがかかってて、うまく読み取れないの」


 ルカもその不気味な絵画の前に立ち、ふたつの生首をじっと見つめた。

 ニコラス曰く、生前ゾラが大切にしていた絵画である。

 ルカは木箱の上に立てかけられていた絵画をそっと持ち上げ、テーブルへと移動させた。絵はぱっと目につくほどに埃をかぶっている。額縁の部分に積もった埃を手で払ってみるが、金属はくすみ、本来の輝きを失っていた。


「まさかルカ……その気味悪ぃ絵画、修復するとか言うんじゃねぇだろうな?」

「そうだけど」

 即答すれば、「やめとけって!」とアダムに激しく非難された。

「探してる絵画とは関係ないんだろ? だったら放っときゃいいだろ。頼まれてるワケでもねえんだし」

「うん。だから、ニコラスさんに許可をもらいにいく」

「いやなんでそうなる!」

「よかったね。ルカが治してくれるんだって」

 絵画に優しく語りかけるニノンを見て、お手上げだというようにアダムは肩をすくめた。


 他人に呆れられたって構わない。ルカにとって重要なのは、そこに修復を望む絵画があるかどうかということだけだ。

 目の前の絵画は今まさに助けを求めている。

 ならばそれを救うのが修復家の定めであり、修復家と名乗る者のプライドなのだ。


「はぁ……ほんとこの修復バカは、どうしようもねえな」


 薄暗いテント内に、どこか諦めたようなため息が吐き出された。



 * Arc-en-Ciel



「痛いところはない?」

「団長ってば、大げさなのヨ。ちょっと擦りむいただけなんだから」


 ステージの上でうずくまるシュシュは強気だった。大きな怪我ではないが、膝が少し擦りむけ血が滲んでいる。


「すまない、シュシュ」

「ルーのせいじゃないわ。私のミスだもん」


 普段の練習でも滅多にミスをしない彼らのアクシデントは、メンバーたちに一抹の不安を残していく。


 トランペットのピストンバルブにせっせと注油するグリエルモの脇を通り過ぎ、ハビエルはウィグルの元へやってきた。


「シュシュ、なんだか元気ないね」

「珍しくミスしたから、しおらしく落ち込んでんだろ」

「そうなのかなぁ。朝から元気がなかったから、もしかしたら体調が悪いのかな」


 さぁな、と空返事をして、ウィグルは右足を伸ばしてストレッチを始める。ハビエルもそれに倣って屈伸運動を始める。膝を折り曲げ、伸ばし、深呼吸。目の前で黙々と準備運動をこなす男の様子をそわそわとした面持ちで窺いながら、ハビエルはいつも通りの口調で話しかけた。


「ウィグルはどう思う?」

「なにが?」

「その――公演をやるかやらないかって話だよ」


 足の裏側をぴったりと床につけて、肺の中の空気をすべて吐き出す。まるで服がたたまれるみたいに上半身を足に沿って折り曲げながら、ウィグルは「分からない」とだけ答えた。


「やりたいからやる。やりたくないならやらない。そんな単純なことじゃ駄目なのか? 難しいことは俺にはわからん。大人ってのは面倒な生き物だ」

「単純に生きられるのは多分、言葉も知らない赤ん坊くらいだよ。僕たちの人生は自分のものだけじゃないんだし」


 ストレッチを終えたウィグルが、ゆっくりと顔をあげる。


「最近、俺、お前のこともよくわからない」


 向けられた言葉はガラスの破片のように鋭利で、ハビエルの心臓にざりざりと傷をつけていく。体内に入り込んだたくさんの破片は中で再成型されて、二人の間に分厚い壁を築いていく。


「俺は馬鹿だし、エスパーでもない。だから、言葉からしか気持ちを探し出せない」

「……それは僕に対する文句か? 悪いけど、僕にもウィグルの言いたいことがわからないよ」

「――悪い。ちょっと外出てくるわ」

「ウィグル!」


 小さくなっていく背中を追いかけることはできなかった。胸の内にくすぶる苛立ちをどうすることも出来ずに、ハビエルは床をだん、と蹴りつける。


「わからないのはこっちの方だよ……」


 今回のプログラムでは、ラストのシーンでバックカーテンに大きな虹がかかる。その虹を渡るようにして空中ブランコのパフォーマンスが行われ、プログラムは大団円を迎える。

 このショーに、空中ブランコの成功は必要不可欠なのだ。


 経験は人を大人へと成長させる。しかしその過程で、失敗を減らすためのフィルターが体にどんどんへばりついてがんじがらめになっていく。保身的な考え。危険予知。汚れてしまった角膜では七色のアーチを見つけられない。そうすればもう、二人で宙を飛ぶことはできないだろう。


――僕たちの目ではもう、虹を見つけられないのでしょうか。ゾラさん。


 誰もいないテントの入り口を呆然と眺めながら、ハビエルは心の中で呟いた。

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