第19話 三つの確執

「えっ。ルカ、お前マロンビール飲んだことねえの?」


 向かいの席に座るアダムが、口に白いヒゲをつけて驚いた。バカにされているわけではないと知りつつも、ルカは少し不服に思いながら頷く。

 十六歳以下はお酒を飲んではいけない、という法律の年齢が引き下げられて数十年。コルシカ島が特別ということではない。今やフランスに住む人間は、十三歳を過ぎれば誰でも酒を飲むことができる。就学期間を早期にシフトさせることにより、効率的に労働人材を増やそうという社会の動きによるものだった。

 大抵の子どもたちは――コルシカ島に住む子どもたちは特に、十三歳で修学を終え、就業する。


「こんなに美味いモンを知らずに生きてるとは……二年無駄にしたな」


 マロンビールは後味に甘みがふんわりと広がる、苦みの少ない飲みやすいお酒だ。コルシカ島は栗の宝庫であり、栗の粉を使ったパンが主食なのは当たり前、デザートにも栗のクッキーやケーキが出され、羊や豚などの家畜はその辺に落ちている栗を気兼ねなく食んで育つ。

 そんな島で作られるビールもまた例にもれず、栗を使って作られるのだ。


「そんなにおいしいのか?」

「うまい」


 にんまり笑うアダムに対抗して、ルカはしゅわしゅわと発砲するビールをぐっと口に含んだ。が、コンマ数秒で後悔する。栗のにおいにつられたが、実際は塩辛いアテとともに楽しむもので、全然甘くない。

 ルカは眉間にしわを寄せて息を止め、口の中のものをひと思いに呑み込んだ。


「…………にがい」

「バッカだなあ」

 口元の泡をぺろりと舐めて、アダムは笑った。

「こういうのは喉で美味さを感じるんだよ、喉で」



 今夜は雑用係の歓迎会だ。ニコラスの何気ない思いつきで、急遽行きつけのバールにて開かれることになった。

 アジャクシオのメインストリートにはレストランやバールも多く並ぶ。路上にはカラフルなクロスが掛けられたテーブルが置かれ、陽気なウェイトレスが道行く人々を迎え入れるためニコニコと笑顔を作っていた。

 とっぷりと日も暮れた頃、家族連れで賑わっていた大通りは夜の街へと姿を変える。ほろ酔い気分の大人たちが鼻歌まじりに石畳を闊歩かっぽし、手をつないだ男女は熱い視線を交わしながら薄暗い路地へと消えていった。

 そんな中、二人掛けの席を横長にくっつけた即席のパーティーテーブルを、アルカンシェルの面々は窮屈そうに囲んでいた。


「どうして私だけ違う飲み物なの! 信じられない!」


 一人だけオレンジジュースを手渡され癇癪かんしゃくを起こしているのは、フランス人形のような少女、シュシュだ。ルーグは無表情のまま首に巻きつく小さな生き物を宥めている。


「そんなに泣いたら明日の朝おめめがりんごになるぞ。せっかく可愛い顔してんだからさ」


 マロンビールを一瓶あけてほろ酔い気分のアダムは、頬をほってりさせながら笑う。シュシュは相棒の首元にうずめていた顔を上げ、乾ききった目できっとアダムを睨んだ。


「同情なんていらないんだから、このスケコマシ!」

「うえっ」


 まさか怒られるとは思っていなかったのだろう。アダムは突然の反撃に目を瞬かせる。まだご立腹のシュシュを肩に担ぎながら、ルーグが無言でぺこりと頭を下げた。ニコラスやヴィヴィアンらの座る席はもうずっと賑やかだ。


「ふん、マセガキめ」


 盛り上がるテーブルとは真反対の、一番端の席でウィグルがぼそっと呟いた。


「スケコマシーとマセカキってなに?」


 不機嫌そうな男に声を掛けるニノンを見て、ルカはぎょっとした。また暴力沙汰にでもなったら、今度は庇いきれる自信がない。


「また質問かよ」


 意に反してウィグルはにっ、と唇の片端を吊り上げた。それからニノンの手にあったマロンビールをかっさらい、わざわざ新しく注文したオレンジジュースと取り替えた。奪われたグラスには八割ほど中身が残っていたが、泡はすっかり消えてなくなっていた。


「スケコマシはプレイボーイって意味だ。マセガキはそんな言葉を使うガキのこと」


 律儀にもきちんと説明をしてから、ウィグルはぬるくなったビールを一気に飲み干した。


「なるほど。ちょっとかしこくなった!」

「ふん、そりゃよかったな」


 まるで兄弟のように仲睦まじいやり取りが、ルカには不思議に映ってならなかった。いつの間に、という疑問がひとつ。一方が暴れ猪とか狂犬などと称された人物なだけに、なおさらである。けれどそんな男の意外な一面を垣間見た気がして、おや、とも思う。


「恐い人ってイメージあるよね」


 警戒心が表情に出ていたからだろうか、隣でハビエルがふふ、と笑いをもらした。


「あっ、いえ……」

「いいよいいよ、わかるから。質問なんかしたら胸ぐら掴まれそうとか、口答えしたらメリケンサックで鼻の骨折られそうとか」

「おいコラ」

 すかさず、言われている本人の鋭い眼光が飛ぶ。

「実は腹に見せられないような傷跡があったりして」

「ハビ、てめぇ」


 ハビエルは笑いを堪えながら、ごめんごめんと両手を合わせて謝るしぐさをした。


「でも見た目と違って小動物が好きでさ。僕たちが宿泊しているホテルに黒猫が住み着いてるんだけど、わざわざ餌付け用のフードまで買うんだよ」

「いますね、賢そうな黒い猫」

「昨日なんかカバブサンドをあげてたみたいだし」

「いい加減にしろよ。ベラベラ喋るのはこの口か?」

「いいじゃん、悪いことは言ってない。そういえばこの前、ニノンちゃんのビラ配りも手伝ってあげたんだってね。こう見えて案外世話焼きなんだよ、ウィグルは」

「よし待ってろ。今からきっちり縫い付けてやる」


 なんだかんだで仲の良い二人を見ていると、ウィグルという男の本質が分からなくなる。見た目や言動が怖いだけで、中身は悪い人ではないのかもしれない。


「ウィグルさんって、お兄ちゃんみたい」


 ニノンが言うので、ルカは素直に「そんな風には見えなかった」と口にした。


「さっきハビさんが言ってたけど、チラシ配り手伝ってくれたんだ。カバブサンドも奢ってくれたし」

「それって餌付け……」

 頭の中で、頬袋を膨らませた姿が瞬時に浮かぶ。時折り思うのだが、ニノンはどこかリスっぽいところがある。餌を与えるウィグルの気持ちは分からなくもない。

「えづけ?」

「いや、なんでもない」

「……? あ、それでね。お喋りしながら町の中散歩して、海の方まで行ったんだ」

「ずいぶん仲良くなったんだな……」


 自分には絶対無理だ、とルカは思う。

 それから、探りを入れるならニノンが適役だ、とも。


「ニノン、ウィグルさんから何か聞いた?」

「うん。お父さん――ゾラさん、病気で亡くなっちゃったんだって」

「そうだったのか」


 こちらから尋ねる雰囲気ではなかったので分からずじまいだったのだ。もしかしたらテント内での事故死かも、と考えたこともあった。


「みんなわかってたことだからって……。それから、自分はバカだって言ってた」

「……バカ?」


 ニノンの記憶のようなちぐはぐな情報を聞きながら、ルカはちらりと視線を前方に向けた。ウィグルとハビエルの二人は既に別の話題に興じており、ビールをあおりながら笑っている。ルカは視線をニノンに戻す。


「絵画のことは?」

「それが、聞けるタイミングがなくて」


 まだ、とニノンは申し訳なさそうに首を振る。

 ルカはそうかと頷き、今一度目の前の席に座る男を見つめた。骨付き鶏にかぶりついているウィグルは、先ほどよりも若干機嫌が良さそうだ。しらふでニノンに探ってもらってもいいが、今ここで自分から問い質してみるのもありだろう。酒の力が人の口を緩めることは多々ある。

 ルカが泡の消えかかったマロンビールをぐび、と喉に流し込んだ時だった。


「おい、ニコラス。全部聞こえてンだよ」


 ウィグルの一言に、一同がしんと静まり返った。

 先ほどの陽気な雰囲気とはうってかわった、どすの利いた低い声。研ぎ澄まされたナイフのように鋭い目線を、対角線上に座る男に突き刺している。

 向こうの会話にまで注力していなかったので、ニコラスたちがどんな話をしていたのかは分からない。が、二人の男の間にとてつもなく深い溝のようなものを感じるのは確かだ。


「団長、でしょう。ウィグル」


 黒髪の美女、ヴィヴィアンが優しく諭す。その隣でピエロのグリエルモが、緊迫した空気に耐え切れずごくりと生唾を呑みこんだ。


「そんな馬鹿げた無償席作るなんて、俺は断固反対だからな」

「ウィグルさん」

「お、おいバカッ」

「無償席って?」

「ニノン!」


 アダムは仲間の愚行を止めようと必死に叫ぶ――ただし小声で。今にも暴れ出しそうな形相の男に、果敢に立ち向かう少女。そんな風に見えているのだろう。彼は未だにウィグルのことを血も涙もない冷徹な鬼、あるいは暴れ猪だと勘違いしているのだ。


「教えてやろうか。無償席ってのは、浮浪児のための席のことだよ。浮浪児は金がないからタダで見られるってわけだ。高い金払って観にきてる客の隣にあるんだよ、無償の席が。そんな不満の種をまくような行為、普通に考えてありえないだろ? ところがコイツときたら、日中にアジャクシオの旧市街地にいるガキどもに無償のチケットを配ってまわってやがる。頭がイカれてるとしか思えない」

「ウィグル、少し落ち着きなさいな」

「冷静なのは俺のほうだろ!」


 ヴィヴィアンの言葉を遮って、ウィグルは声を荒げた。


「情にかまけて馬鹿なことやってるのは団長あいつだ。わからないのか?」

 獣のようにぎらついた目が、ぐるりと団員を端から端まで睨めつける。

「毎日毎日、何のために鍛えてると思ってんだ。一体なんのために命を懸けてる? 俺たちはボランティア団体じゃねぇ。金稼がなきゃ死んじまうんだぞ!」


 ウィグルの中で爆発した怒りが次々と口から飛び出した。激昂を受け止めたニコラスは、しかし彼とは真反対で冷静そのものだった。


「私たちが命を懸けてステージをこなすのは、観客に夢と感動・・・・を与えるためだよ。そしてそれらを今最も必要としているのは、将来を担う子どもたちだ――これは私個人の意見じゃない。アンタの父親、ゾラさんの遺言さ」

「だったら証拠を見せろよ!」


 だんっ、とテーブルに手をついてウィグルは勢いよく立ちあがった。あまりの振動に驚いたグリエルモが、思わず席から転げ落ちた。


「毎回親父の遺言だって大ホラ吹いて、本当は全部アンタの戯言なんだろ? 結局、同じ境遇のガキどもに同情してるだけなんだよ。アンタは俺の親父に拾われたからまだいいが、この町のガキは違うもんな。かわいそうだもんな」

「ちょっと、いい加減にしなさいヨ!」


 黙っていられずにシュシュは喚きたてた。だがもうそんな言葉では変えることができない程に、空気は熱をもってしまっていた。

 ニコラスは何も答えない。冷え切った鉄のかたまりのような眼差しを、逸らすことなく男に向けるだけだった。


「アンタの掲げているものはただの”偽善”だ。そんなものに囚われて大切な仲間のホームをぶっ壊す奴のことを、俺は絶対”団長”とは認めねぇ」

「ちょ、ウィグル! さすがに言いすぎ……」

「バッカじゃないの! アンタまだそんなこと言ってるのォ!?」


 仲間たちの制止も聞かずにウィグルは店のテラスから飛び出し、闇夜のストリートへと消えていった。


「い……行っちまった……」


 再び静けさを取り戻したテラスには、まだ熱のこもった空気が充満していた。重たい雰囲気をかき分けるようにして、ハビエルがおずおずと席を立った。「僕……行ってきますね」と言い残し、失踪した仲間の後を追って彼もまたストリートに消えた。

 残されたのは、息苦しいほどの沈黙だけ。喋れないグリエルモはもとより、ニコラスもヴィヴィアンも、ニノンでさえ、命の宿っていない石像のようだ。


「いやあ、ハビさんって、本当に人がいいよな~。こんなときまでお世話係やってら」


 あはは、と重たい空気に耐え切れなかったアダムが、先陣を切って口をひらく。口調が明るくなりすぎて逆に不自然だった。


「だって二人は大切な相棒だもん」


 シュシュはそう言って、オレンジジュースをぐびぐびと飲み干した。


「相棒?」


 そう、とシュシュは次にチーズのたっぷりつまったキッシュに手を付けながら「知らなかったっけ?」と、首をかしげる。


「プログラムの最大の見せ場、エンディングを飾るとっても大事な技”空中ブランコ”を担当してるのヨ」

「そういえば、今朝ニコ……団長がなにか言いかけてたな。説明しようとしてさ、あの猪男が急に不機嫌になったから最後まで聞けなかったけど」


 ルカも今朝のことを思い出す。どうしてウィグルはあの時不機嫌になったのだろう。


「ゾラさんが亡くなる前に、アイツったらゾラさんと大喧嘩しちゃったノヨ。今までちょっとした喧嘩は絶えなかったんだけど、あれは凄かったなァ~。百年ためて爆発した火山みたいな勢いだったワ――フフフ、話の続き、聞きたい?」

「うん。聞きたい! 教えて、シュシュさん」


 ニノンが急かす。シュシュは「イイワ」と得意げな顔をした。


「昔っから怠けぐせが絶えないヤツだったんだけどネ。とうとうそれがたたって、本番一ヶ月前を切ったってのに通し練習の時にミスして、ハビをブランコから落っことしちゃったの!」

「えっ、ハビさん、大丈夫だったの?」


 今度はぶどうジュースに口をつけながら、シュシュは焦るニノンを立てた人差し指で制した。


「練習だから当然下にマットは引いてるわヨ。でも本番だったら命取りになってたでしょうネ。もうそれでゾラ親子は大喧嘩。それで、仲直りしないうちにゾラさんは――」


 そこでシュシュは一旦言葉を区切った。三人は耳をそば立てて話の続きを待つ。もう誰も料理に手を付けようとはしなかった。


「『きっと次の団長は俺だ!』なんて思ってたんじゃないの? インガオウホウよ。結局はアイツの八つ当たりなのよネー。……キャッ!」


 鼻高々に語るシュシュを、ルーグが軽々と担ぎ上げる。


「少し喋りすぎだぞ」

「ムゥ。……ごめんなさい」


 ルカは二人が走り去った暗闇を意味もなく見つめた。そこにはただブラックホールのように闇が色濃く広がるだけだった。



 *Javier



 規則正しく並ぶ外灯のたもとを、ハビエルは夜空に星がないことにも気づかないぐらい足早に進んでいた。


 ウィグルは、苦楽を共にしてきたパートナーだ。幼い頃からもうずっと一緒に練習してきたのだ。

 ハビエルは、ウィグルのことを誰よりも分かっているつもりだった。失敗したことを誰よりも悔しく思っているのはウィグル自身だと、ちゃんと理解していた。

 だから彼がミスを犯した時――通し練習の時にウィグルが自身を取り落とした時にも、ハビエルは別段責めたりしなかったのだ。青ざめた顔で駆け寄ってきた相棒に、笑顔で「大丈夫」と答えたのだ。


 そこから二人は一度も空中ブランコを成功させていない。


 単なるトラウマなのか、それともスランプなのかは分からない。けれど、あの日を境に変化が起こったことは確かだった。二人を隔てる薄いプラスチックの膜のようなものは日を追うごとに分厚くなっている。いつかその幕が壁となれば、一生空中ブランコが跳べなくなるかもしれない。考えるほどに技は噛み合わなくなり、不安は募る一方だった。

 ハビエルは夜の石畳を駆けはじめた。焦りが体を動かしていた。


「ちょいとそこのお兄さん」


 あと二つ先の通りを右に折れればホテルに辿り着く、という時だった。急ぐハビエルの足を、しゃがれた老婆の声が引き留めた。


「あんたさん……大変な苦労の相が出ているよ」


 老婆は黒いローブで全身を覆い隠しており、薄汚れた木箱を机代わりに路上に座り込んでいた。


「おばあちゃん、わるいけど、僕急いでるんだ。ごめんね」


 ハビエルはポケットをまさぐり、金貨を一枚取り出した。これで手を打つのだ。差し出した矢先、ローブからぬっと出た皺だらけの手が、金貨ではなくハビエルの手首を掴んだ。

 ぎょっとするハビエルを尻目に、老婆は外灯の明かりを頼りにして大きな手のひらをまじまじと見つめては「ほぉ」やら「ははぁ」などと独り言をもらした。


「おばあちゃん……チップならあげるから、放してくれないかな」

「最近、近しい者が死んだね」

「え?」


 ハビエルはぎくりとした。

 老婆は干した柿のような顔をひしゃげさせ、にやりと笑う。


「未練を残して死んじまったのかねぇ。生前の記憶もほとんどなくして、地上に縛りついておる。それの臭いがあんたさんからぷんぷんするよ」

「そ、それって――」

「多分、よくないことが起こるよ。近々ね……」


 老婆はヒヒヒ、と気味の悪い上擦った笑い声をあげた。そして、顔色の優れない男の顔に人差し指を突き立てて、こう言い放った。


「死者と一番近しかった者がいるね。そいつが持ってる――あれは何だろうねぇ、何か四角いモノ……に憑りついているようだ。不思議な鍵のついた、不吉な"箱"さ。もしも見つけたら、手放した方が身のためだよ。自分の命が惜しけりゃね……」


 老婆は再び上擦った笑い声をあげると、金貨をぶんどった。それからすっぽりと黒いローブを被り、それきりだんまりとして路地に座りこんだ。


 ハビエルは後退るようにしてその場を離れ、ホテルへと向かった。

 得体の知れない後味の悪さをずっと引きずっていた。それが老婆の単なる血迷い事だと分かっていても、予言とも取れる不吉な言葉が彼の頭を離れることはなかった。



 *???



 路地裏に駆け込んだ老婆を出迎えたのは、仲間の一人であるペストの不気味な笑い声だった。


「相変わらずばーちゃんのマネ、上手だねー。きっもちわるい笑い声。ヒャヒャヒャ!」


 ベニスの仮面のメンバーは、それぞれをマスクネームで呼びあう。鼻が顎よりも下に伸びた鳥型の仮面は、その昔ヨーロッパで流行した病、ペストの治療にあたった医師たちが身につけていたものだという。


「……ペストにだけは言われたくない」


 不満そうにつぶやく声は先ほどのしゃがれた老婆のものではない。容姿は干した果物のようなのに、その口から発せられるのはいまやみずみずしい少女の声だ。


「オペラの変装にはいつも感心するな。コイツとは比べ物にならない」


 路地裏の影に佇んでいたもう一人の仮面の男が、ペストを指差して淡々と言った。

 オペラと呼ばれた老婆は、手を顎の下にかけるとそのままぐっと力を込めて『老婆の顔』を剥がした。それからすぐに、オセロのように左右を白黒に塗り分けた仮面ですっぽりと顔を覆い隠し、二人の仮面の群れに合流した。


「……ボルトに褒められるのは嬉しい」

「今回の作戦が成功すれば、うんと褒めてやる」

「ねぇ、僕にも褒めてほしい? 褒めてほしい?」

「……ペストは別にいらない」


 ボルト――柄のない真っ白な仮面をつけた男は、喉の奥からくつくつと笑い声をもらし、黒いマントを翻して路地の奥へと歩き出した。

 後を追う二つの仮面も、瞬く間に暗闇に紛れて姿を消した。

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