第18話 ウィグルとニノン

「虹のサーカス団ー、アルカンシェルでーす……」


 歩くマッチ棒ことニノンは、大量のチラシを手にふらふらとアジャクシオのメインストリートをさまよい歩いていた。


「アル――」


 色鮮やかな服やおしゃれな帽子でめかしこんだ少年少女たちが、楽しげに笑いながら傍を通りすぎていった。歳はニノンと同じくらいか、もう少し幼い。どこかの国からやって来た旅行客だろう。駆けていった子どもたちのすぐ後を、両親が慌てた様子で追いかけていく。

 あっという間に過ぎ去っていった親子の背中を見つめながら、ニノンはチラシを持つ手を引っ込めた。


 家族。それは当たり前のように存在する、自分のことを知る、自分以外の人間たちの集まり。


――お姉ちゃん。……今、どこにいますか?


 ニノンはふと、心の中で呟いてみた。

 フィリドーザの町に流星群が流れた夜。流れ星が引き連れてきてくれたように、鮮明に蘇った記憶を、忘れないよう脳裏でなぞる。

 真夜中の野原を歩く自分。隣には姉がいた。暗がりでもわかる。姉の髪色は自分とは違う、普通の色だった。柔らかくて優しい声が「ニノン、まって」と、名前を呼ぶ。ニノンは走る足をとめない。でも、手はしっかりと繋いで絶対に離さなかった。離してはいけないと知っていた――なぜだっただろうか。なぜ、離してはいけなかった?

 それらはまるで、ほんの昨日の出来事のようにも、遠い遠い昔のようにも感じられた。

 そしてニノンの意識は己の親しい人たちへと飛ぶ。お父さんとお母さんは元気だろうか、と。


――私のお父さんとお母さんはどこにいるの?


 閉じていたまぶたを押し上げると、目の前は変わらぬ雑踏だった。人種も性別もあべこべな、大通りを行き交う人の群れだ。こんなに人が溢れているというのに、あるいはこんなにも人が溢れているからこそ、ニノンの心は孤独に打ちひしがれた。

 一人きりになると途端に襲ってくる闇。それは、世界に自分を知る者が誰もいないという、孤独の化身だ。


 すっかり宣伝する意欲を失くしたニノンは、ショーウィンドウ越しにディスプレイされたきらびやかな商品をぼんやり見て回ることにした。


「お嬢ちゃん、ちょっと見ていかないかい」


 そう声をかけられたのは、道端にぽつぽつと露店が現れはじめたところだった。

 気の良さそうな小太りの男は、ワゴンいっぱいに積まれたアクセサリーを鷲掴みにすると、「ミサンガだよ」と天高くそれらを掲げた。


「ミサンガってなんですか?」

「願いが叶う魔法のアクセサリーだよ」


 店主に腕を出すよう促され、ニノンは言われるがままに左手を差し出した。男はピンク色のミサンガを腕に取り付けながら「願いごとはあるかい?」と尋ねる。


「願いごと、願いごと……」

 必死になって頭を捻っていると、急いで考えなくてもいい、と店主は笑った。

「ミサンガは、一度付けたら外さない。起きているときも眠るときもずっと身に着けておくんだ。そしてこのミサンガが切れたとき、願いごとが叶うと信じられている――ほら、できた」


 店主はきゅっと紐を縛ってミサンガの長さを調節し終えると、まるまるした巨体をワゴンの中に引っ込めた。

 黄色いワンピースからのぞくほっそりとした腕に、ゆったりと巻かれたミサンガ。ピンクと白の麻でり合わされ、結び目のところに夕日色の小さなイタヤガイがぶら下がっている。

 ニノンは思わず胸がときめくのを感じた。


「あげるよ」

「えっ」

「お嬢ちゃんにぴったりの、可愛い柄だと思ったんだよ」

「でも……」


 ニノンは自身の腕と店主の顔を見比べて逡巡する。店主のパンみたいな顔がにっこりとした笑顔を押し付けてくる。やがてニノンは根負けし、そっと左手を下ろした。


「ほら、だんだん元気になってきたろう?」


 え、とニノンの口からまたしても間の抜けた声が出る。店主はばっちりウインクをして、わははっと陽気に笑った。

 遠目からでも分かるほど、落ち込んだ顔をしていたのだろうか。ニノンは申し訳なさから一瞬肩を落としかけたが、すぐに笑顔をつくって礼を言った。


「うん。元気になってきた!」


 大海原でさまよっていたぼろぼろの小舟を、遠くから灯台の灯りが見つけてくれたような心地だった。

 名前など知らなくても人と人は繋がれるのだと、このときニノンは知ったのだった。


「あ……そうだ」


 思い出したようにポケットをほじくり返し、眠っていたユーロコインをすべて店主に手渡した。小さくて軽い、銅色の硬貨が四枚だけしかない。


「お土産にあと二つ買って帰りたいんだけど、これで足りるかな……?」

「おお? うん、いいよ。一つおまけしてあげるから、好きな色三つ、持っていきな」

「嬉しい、ありがとう!」


 海の色と、太陽の色、生い茂る緑の色。たくさんの山の中から三つのミサンガを選んでポケットに仕舞った。そのうちの二つはもちろん、ルカとアダムへの手土産だ。ニノンは心優しい店主に別れを告げて、再び歩き出す。

 雲に覆われていた心にはいつの間にか日が差して、泥のように重たかった足も心なしか軽くなっていた。それは時折りスキップが混じるほど――視界を遮るフードを思いきって外したら、頭上には爽やかな青空が広がっていた。


「お願いごと、何にしようかな。うふふ……」


 顔の前で掲げた左腕をくるくる回しながら、ニノンはあれこれと考える。流れ星が消える前に願い事を三回唱える必要もないのだ。悩む時間は十分にある。腕を揺らすたび、ゆるく巻いた麻紐とイタヤガイが揺れた。

 そうやってしばらく歩いていると、ある時点で周囲の妙なざわめきに気がついた。嫌な予感がして、ニノンは歩みを止めずに人々の様子を目の端で窺ってみる。

 視界の隅に、耳を寄せ何事かを囁きあう女性たちの姿を捉えた。珍しい物でも見るかのような表情で通り過ぎていく人々や、遠くでは指さすカップルまでいる。


――私……?


 そのどれもが、この珍しい髪色に注目しているようだった。


「うわぁ、お姉ちゃんって色ナシ・・・なの?」


 突然、後ろから子どもたちが駆け寄ってきて、そう声を挙げた。


「あ、あの、えっと」

「はじめて見た! オモチャみたい!」

「うわーホンモノの色ナシ・・・だー」


 何も言えぬまま立ち尽くしていると、みるみる内に子どもたちに囲まれてしまった。ニノンは口々に喋る彼らに向かって、おずおずとこう尋ねる。


「さっきから言ってるその……”色ナシ”って、なぁに?」


 子どもたちは目をぱちくりとさせて、互いの顔を見合った。


「そんなことも知らないの?」

 子どもの一人が笑う。

「ヘンな色の髪のことだよー」

 途端に周囲は笑いで満ち満ちた。純粋な、けれども鋭利な笑い声だ。


「……そうなんだ」


 脱色症のことだと、ニノンはすぐに悟った。

 子どもには難しい名前だから"色ナシ"という分かりやすい名称が浸透したのか、それとも別の意味が含まれているのかは分からない。純粋な子どもたちの笑顔を見ていると、そこに他意などないように思える。けれど、ニノンの心はどうしても細い縫い針に刺されたかのような、チクチクとした痛みを覚えてしまう。


「そこの暇をもてあそんでるガキども。もっと珍しいもんを見たくないか?」


 ふと背後から降ってきた男の声。途端に子どもたちは「見たい!」と騒ぎはじめる。ニノンの肩越しににゅっと伸びた筋肉質の腕が、チラシを数枚つかみ取った。


「変てこなピエロとか、体がグネグネのチャンネーがいるぞ。一週間後だ。かーちゃんに頼んでこい」


 チラシをもらうのに夢中になっている子どもたちに、男は「あとオカマもいたわ」と付け加えた。


 子どもたちが嵐のように去ったあと、ニノンは背後を振り返った。


「ウィグル……さん」

「何やってんだよ新人。てっきりビラ配ってるのかと思ったが」


 まったくと言っていいほど厚さの変わっていないチラシの束を見るなり、ウィグルは面倒くさそうに頭をかいた。


「ウィグルさんはどうしてここに? お散歩?」

「そりゃこっちの台詞だ」


 彼は手に小さな紙袋を提げていた。袋に『ブラヴォーカバブ』と印字されている。

 ここに来る途中に並んでいた露店のひとつに、同じ名前の看板があったことをニノンは思い出した。大きな肉の塊がくしに刺さっていて、観光客が前を通り過ぎるたびに、陽気なトルコ人がのこぎりのような包丁を使ってこれみよがしに肉を削ぎ落とすのだ。


「……よだれをふけ」

「はっ、ごめんなさい。美味しそうな香りを思い出して、つい」

 謝罪の言葉を否定するように、ニノンの腹からきゅるきゅると情けない音が鳴る。ウィグルはこめかみを押さえて溜め息をついた。そして、紙袋から取り出したカバブサンドをずいっと押し付けてくる。


「やる」

「え……でもこれ、ウィグルさんが食べるために買ったんじゃ」

「安心しろ。俺の分も買ってある」

 ウィグルは袋からもう一つ同じものを取り出して、ぶっきらぼうに言った。

「お前のはハビの分だ」

「えっ、余計に貰いづらい……」

「あん? 余計にとはどういうこった?」

「い……いただきます」





「ウィグルさんってもっと恐い人なのかと思ってた」

 ウィグルは大口をあけてカバブサンドを頬張りながら、「こういうのをな、餌付えづけって言うんだよ」と悪い顔で笑った。

 二人は大通りに比べてずいぶんと人気の少ない港までやって来ていた。表の大きな港から少し離れたこの場所は、停泊する船も小ぶりなものが多く、針金のような穂先に邪魔されずにすっきりと水平線を眺めることができる。


「あと、もっと元気がないと思ってた」


 ニノンは地面から突き出たボラードに腰かけながら、ウィグルに奢ってもらったカバブサンドをかじる。


「親父のこと、聞いたのか」

「二週間前に亡くなったってことだけ」


 ヘビの鱗に似た細かな雲の間を、ぼやけた太陽が水平線に向かってゆっくりと落ちていく。

 たった二週間。そんな短い時間で親しい人との別れを理解できるということが、ニノンには不思議でたまらなかった。


「持病だったんだ。俺も含めて、あいつらも皆、その覚悟はできてたんだろ」


 ウィグルは水色とオレンジ色の混ざった奇妙な空を眺め続けている。晴れているとも曇っているとも言えない、どっちつかずの空を。


「あんなクソ親父。いなくなって清々するぐらいだ」

「ウィグルさん、お父さんが嫌いだったの?」


 問い掛けにウィグルは海から顔を背けて振り向いた。


「嫌ってたのはあっちのほうだろ」


 その瞳には憎しみや苦しみが混ざり合ったどす黒い感情が溶け込んでいて、ニノンは少し寂しくなった。


「なんたって、こんな出来損ないの息子を選んじまったんだからな」

「選ぶ?」


 ウィグルはしまった、というように一瞬口をつぐみ、先に続く言葉を探す素振りをみせた。


「……俺の親父は、お袋と離婚してサーカス団を結成したんだ」


 ぽつり、ぽつりと、ウィグルは話し始めた。


「そん時の俺はまだアルファベットも書けねぇくらい小さくてな。ワケもわからないうちに、気づけばサーカス団の一員として各地を点々としていたんだ」


 冷めきったカバブにかぶりつきながら、ウィグルは「今でもアルファベットは間違うし、学校にもほとんど行かなかったから、バカに育ったが」とぶっきらぼうに言い捨てた。


「だったら私もバカだよ。だって記憶がないもん」


 一足先にカバブを食べ終えたニノンは、包み紙を手の中で丸めながら、今までのことをウィグルに話した。ウィグルもつられてぽつぽつと思いで話を語って聞かせてくれた。

 ぼやけたままの太陽が水平線に重なり始めるまで、それはずっと続いた。



「ねぇウィグルさん、あの時どうして団長を殴ったりしたの? 喧嘩でもしたの?」

「お前本当に質問ばっかりだなあ。俺の妹にそっくりだ」

「妹? 私と同じくらいの?」

「いや、今はもう立派な大人だよ。俺の記憶の中の妹って意味でな……」


 懐かしげに瞼を伏せるウィグルはまさしく兄の横顔だった。兄妹とは、離れていてもこうして相手を思い出しては懐かしむものだろうか、とニノンは思う。そうあってくれたら嬉しいとも。


「女の子はお喋りなんだよ」

「ああまったくだ。けどな、シュシュ――あいつは駄目だ。マセてるばっかでまるで可愛げがねえ」


 ウィグルは立ち上がると、うんと伸びをしてからニノンの腕に抱かれていたチラシの束を奪い取った。


「ぱぱっと配っちまうか。日暮れまでに帰らねえとお前、団長に怒られちまうだろ」

「ウィグルさんだって怒られちゃうよ」

「俺は慣れてるからいいんだよ」


 夕暮れの中歩き出したウィグルの背に、ニノンは一際大きく声をかけた。


「私ね、少し不思議な力をもってるの」


 突拍子もない話題に、ウィグルは「は?」と振り返る。


「絵画の声が聞こえるんだ」

「絵画の――なんだって?」


 眉をひそめてウィグルは問い返す。

 こえ、とニノンはゆっくり反芻した。


「絵じゃないんたけど、あのサーカステントにいるとたくさんの幸せな気持ちとか、嬉しさとか、楽しさが伝わってくるんだよ」


 それらの感情を包み込む、大きな感謝の気持ちがイメージとして頭の中に流れ込んできたことを、ニノンは思い出した。そして、それと同じくらい膨らんだ不安な気持ちも。たくさんの夢と希望を吸い込んだテントの中に渦巻く感情は様々で、もはや誰の思いだったのかニノンには分からない。分からないが、ひとつだけはっきりしているものがあった。


「混ざりあった感情の中で、はっきりと浮かぶイメージがあって――それが、ゾラさんの『ついて来てくれてありがとう』って気持ちだったんだよ。たぶん、息子の……ウィグルさんに」


 はじめは奇妙なものを見る目をしていたウィグルも、ニノンの熱弁についぞ笑いを漏らした。


「新しいなぐさめ方か? 面白いな、お前」


 そう言うと、ウィグルは引き返してきてニノンの頭をチラシの束でぺしっとはたいた。


「いっ、いたい……」

「もう一度言っておくが、俺は別に落ち込んでるわけじゃねえよ。勘違いすんな――わかったらさっさと行くぞ」

「あ、待ってよウィグルさん!」


 夕日を背に歩きだしてしまったウィグルを、ニノンは小走りで追いかける。そして、いつかこの男が父親の気持ちを信じられる日がくればいいなと願うのだった。

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