第16話 虹のサーカス団(2)
三人が通されたのはメインテント脇に併設された小さなテントだった。
備品庫として使われているそこは埃っぽくて、真昼間なのに薄暗い。そこかしこに様々な布切れや丸められたポスター、ちぎれたロープ、用途の分からないガラクタが散乱していおり、お世辞にも整頓されているとは言いがたい有様である。
アルカンシェル団長――ニコラス・ダリは、一行ををここへ案内するなり自身の怪我を手当てをしにテントから出て行った。三人は椅子代わりのペール缶に大人しく腰を下ろし、彼が戻ってくるのを待っているところだった。
天井から吊るされたエネルギーランプが時折りちかちかと点滅する。
ルカは目だけを動かして薄暗い室内を見渡した。手持ち無沙汰になったニノンは真紅のフードを被り、首元をしぼったりゆるめたりして暇をもてあそんでいる。その隣で大きなあくびをするアダムの後ろに、木箱が高く積みあげられており、一番上に古ぼけた絵画が立て掛けられていた。繊細な細工の施された額縁は、かつては金色だったのだろうが、今やくすぶって輝きを失っている。
――人の、顔?
よくよく見れば、額縁に収められたキャンバスに描かれていたのは、向かい合う首だけの人間だった。
男なのか女なのか、大人なのか子どもなのかも分からない。片方の横顔は三日月の笑顔がを浮かべている。もう片方の口もとはうら寂しげに口角を下げていて、どうにもおどろおどろしい印象の絵だ。にごった泥のような背景も、不安を掻き立てられる要因の一つだろう。
不気味な絵画からふいとルカが目線を逸らしたとき、唯一の出入り口からニコラスが姿を現した。
「わるいね、待たせちゃって」
彼の頬には、ルカ顔をまだ覆っている分厚いガーゼと同じものが張り付いている。ニコラスは簡易テーブルに紙カップを並べ、ミネラルウォーターを注ぎ終えると、空いているペール缶に腰を降ろした。
「メインテント目当てのお客ばかりだからね、グラスの用意もなくて」
ルカはお構いなく、と頭を下げた。
ぬるい水をひと口飲んだところで、もう一度絵画へ視線を移し、また直ぐにニコラスへと向き直る。二つの生首に見つめられている気がして気味が悪かったのだ。首は相変わらず互いを見つめあっている。
ルカの視線に気がついたニコラスは「ああ、あれね」と、首をまわして絵画を見やった。
「不気味な絵だろう?」
「どちらかといえば」
ルカは感じたことを素直に口にした。
「〈擬態〉ってタイトルの絵でね。どこの画家が描いたものかもわからないけど、生前ゾラさんが大切にしていたものなんだ。発電所にも送らないでね……。どうしたもんかって言ってるうちに倉庫のガラクタと一緒にホコリを被っちまったのさ」
ニコラスはコップの中の透明な液体に視線を落とした。
”ゾラさんが死んだ”
そう告げたきり、彼はその話題について口を閉ざしてしまった。フィリドーザでジルダの両親から聞いた話によると、ゾラには子どもがいたという。本人に直接話は聞けずとも、親族に会うことはできるだろう。日夜を共にした旅仲間であり、後継者でもある現団長のこの男なら、何かしら事情を聞いているかもしれない。
奇妙な絵画の話題はそこそこに、ルカは本題を切り出した。
「あの絵のほかに、ゾラさんが絵画を保管しているという話を聞いたことはありませんか?」
「ほかの絵画? ゾラさんが?」
ニコラスの反応は初耳のそれだった。
「絵画というより、絵画の一部分なんですけど。父からことづかってきたんです。俺たちは今、そのバラバラになった絵画を集めて回ってるんです」
ニコラスはしばらく目を伏せて記憶の海に潜り込んでいるようだったが、程なくして「聞いたことがないね」と首を横にふった。
「そういうことは息子に聞くのが一番なんだけど」
げえ、とアダムが舌を出して露骨に顔を歪める。
「フィリドーザにトンボ帰りかよ……」
落胆の空気を察したニコラスは、ぱちくりと目を瞬かせた。
「息子もアルカンシェルの一員だよ」
「マジっすか!」
移動の手間が省けたと喜ぶアダムに、ニコラスは「ただし」と念押しする。
「今あの子を訪ねたところで話なんか聞けやしないと思うよ」
「ええ……どっちなんすか」
「ゾラさんのこともあるし、一週間後には公演も控えてるんだ。ヘタに手を出すと噛みつかれるかもしれないね」
ニコラスはゾラの息子を『野に放たれた手のつけられない狂犬』と評した。そこでアダムとニノンは「ああ」と合点した。
「さっき俺にぶつかってきた猪男!」
「あの金髪ツンツン頭のお兄さんだ!」
そうそう、そいつだよ、とニコラスは頷いた。ウィグルと呼ばれていたあの男こそがゾラの息子で、ニコラスを殴った張本人なのだ。
「息子さんに話をうかがうチャンスはないでしょうか」
ルカは尋ねる。手に負えない暴れ犬だと言われたところで、はいそうですかと食い下がるわけにもいかない。ルカには父から託された使命がある。
「そうだねぇ。協力してあげたいのは山々なんだけど」
こんな状態で言うのもね、とニコラスは頬のガーゼに手を当てて
そのとき、隣でニノンが世紀の大発見でもしたようにぽんと手を叩き、「いいこと思いついた!」と自信満々に言い放った。
「なんだよ、いいことって……」
「スパイだよ、スパイ!」
「は?」
ニノンは両手で握りこぶしをつくり、瞳を目一杯輝かせる。
「サーカス団の一員になって、こっそり絵画の在り処を探すっていうのはどうかな」
胡乱げな様子で話を聞いていたアダムは、すべてを聞き終える前にぐるりと目を回して溜息をついた。
「あのな、ニノン。俺たちはそもそもサーカス団には入れねェ」
「どうして?」
「どうしてってお前……大玉の上に乗って歩けるのかよ? 空中ブランコは? 火の輪くぐりは?」
「やってみなきゃわかんないよ」
「わかるっつーの。お前にゃ無理だ! そもそも『スパイ』なんて言葉、いつの間に覚えてきた? 使い方間違ってんだよ。そういう場合は
一方的に捲し立てるアダムを、ニノンは紫色の目でじっと見つめている。
「……なんだよその目は。その無駄な自信は一体どこから湧いてくんだよ?」
「勘!」
「お前、スパイって言葉使いたいだけだろ!」
アダムの言っていることはあながち間違ってはいない。
アジャクシオのメインストリート、人通りの一番多い一角に大きな看板が設けられている。そのうちの一つに、とある新書の宣伝ポスターが掲げられていた。スパイの男が活躍するシリーズものだ。ポスターに書かれた疾走感のあるあおり文をニノンが食い入るように見つめていたことを、ルカは知っている。
今の彼女は記憶を失くしているからか、単なる無知だからなのか、言葉を覚え始めた幼児のようにそこここに転がる単語に興味を示しては、しきりに使いたがった。
そんな彼女の保持している記憶は”でたらめに切り抜かれたスクラップブック”のようなものだ――というのが、山道をほど走る車の中でルカとアダムが抱いた印象だった。
ニノンの直近の記憶は森の中から突然はじまっている。
それ以前の記憶はおろか、己の名前さえ分からず、どこで生まれ育ったのかも親の名も不明だった。しかし、言葉を話すことはできた。太陽を太陽と認識し、茂る葉を緑色だと形容することもできた。
つまるところ、ニノンの頭から抜け落ちていたのは、彼女の歩んだ人生を記したページということになる。彼女は二人に、ふとしたことでそのページが見つかるのだとも語った。
『眠っているあいだに夢で見たり、町の中を歩いていたり夜空を眺めたりしているときに、ふと思い出したりするの。はっきりとじゃないんだけど、”ああそういえば昔こんなことあったな”って感じで』
見つかるページがあまりにもちぐはぐなので、スクラップブックというわけだ。
それは自分たちと同じような感覚かもしれない、とルカは思った。幼い頃の記憶を思い出すとき、それは鮮明な輪郭を持っていない。おぼろで、色褪せていて、水に垂らしたインクのように揺らいでいる。
どこか似たような景色、音、香り。外界のいたるところにトリガーがある。それらに触れるたびに記憶がふわりと目を覚ますなら、こうして旅路を歩むだけでも彼女の記憶探しの介助にはなっているのかもしれない。
「もー、なによう。こんなチャンス滅多にないのに!」
言いあいにらちのあかなくなったニノンは、
そして、飲みかけていた水のコップをたんと机に置くと、急いでニノンにフードを被せ直した。
「うわわ、ど、どうしたの?」
「どうしたってアンタ、
「どうして?」
ぎゅうぎゅうに絞られたフードの穴から不満そうな顔がのぞく。まるで洞から外界を伺うリスのようだ。
「どうしてって……その桃色の髪、”
脱色症という単語を耳にして、アダムは小さく笑った。
「それはただの迷信っすよ。昔は信じられてたんだろうけど——それともこの地域にはまだそういう風習が残ってるとか?」
ニコラスはハッとして、マッチ棒の先みたいに丸まっていたニノンのフードを慌てて外した。
「流浪の生活だから、迷信とか噂話がごちゃ混ぜになってたのかも。ごめんなさいね」
「ううん、大丈夫。それより、脱色症って……?」
撫子色の髪の毛をさらさらと揺らしながら、ニノンが首を傾げる。
答えるのはやはりアダムだ。
「たまーに変わった色の髪と目を持って生まれる人間がいる。ピンク、水色、白、紫……決まった色はない。でも一目でそうと分かる色をしてんだ。そいつらは太陽に当たると髪の色がだんだん薄くなっていって、抜けきったら死んじまうってのが脱色症。ま、ただの
アダムは”迷信”という言葉を強調した。
脱色症と呼ばれる人々が死に怯えて生きていた時代もかつてはあったのだろう。それがいつから迷信に変わったのか定かではないが、少なくとも彼らが太陽の光を浴びて脱色することはないし、普通の人間と同じように生きて死んでいくことに変わりはない。
稀にアルビノが生まれるように、脱色症もまた遺伝子の問題だと、今でははっきりと分かっていることだ。
しかし、地方に行くと未だに根拠のない迷信を信じる人々がいるのも事実だった。
「ふぅん。この色は病気の色なんだ」
「病気っつってもよ、別に珍しい色ってだけだろ」
横顔に垂れる一房の髪の毛をつかんで、ニノンは透きとおる朝焼け色を眺めた。
それはルカの好きな色だった。毎朝早起きして見に行った、崖向こうに広がる撫子の空の色。
漂う沈黙を気まずく思ったのか、ニコラスは一瞬にして笑顔をつくり、パチンと手を鳴らして一つ前の話題を引っ張り出した。
「スパイの提案、いいじゃないか。うちもちょうど人手が欲しかったんだ。あんたら、アジャクシオに滞在する間だけでもアルバイトしてみるかい?」
「アルバイトって、金が出るんスか?」
スパイ行為への好感触な反応に、アダムは思わずといった風にニコラスを見た。
「そんなにたくさんは出せないけどね。公演開始までの一週間と、公演期間中三週間、合わせて一ヶ月」
「どんなお仕事をすれば良いの?」
今度はわくわく顔でニノンが尋ねた。
「メインは掃除とビラ配りになるかしら」
でしょうね、とアダムは今一度テント内をぐるりと見渡した。クモの一匹や二匹、箒ではたけば簡単に飛び出てきそうだ。
「アダムちゃん、だったかしら」
「――はい?」
突如ぬるい風のような声色で名を呼ばれ、アダムはぎょっとした。
「私の専属アルバイトなら、少しはお給料はずんであげてもいいけど」
足を組んで、膝に両手を乗せながら、ニコラスは獲物を定めた獣のように瞳をギラつかせている。
「さ、三人で……お掃除、頑張りまーす」
からからになった喉からかろうじて絞り出たアダムの声はあまりにも
喉を潤すために生唾を飲み込んだ、ごくりという音が静まり返ったテント内に響き渡った。
*
ニコラスという男はとても綺麗な字を書く。それに、地図を描くのが上手い。手元にある手書きのメモ用紙を眺めながら、ルカは父親の書いたミミズの這った跡のような地図を思い出していた。
後頭部で手を組みながら、ふらふらとルカの後ろを歩くアダムは「確かに俺はイケメンだし、昔から結構モテてきたけどさ」などと、ぶつくさ言っている。
「な、ルカ、一緒に専属バイトやろうぜ。お金弾んでくれるって」
「それ専属って言わないんじゃないか?」
ルカは大通りから少し外れた石畳の小道を、更に右へと折れた。地図がなければ絶対に踏み入ったりしないような細い路地が続いていた。
「それにしても、息子があの暴れ猪じゃあ情報聞きだすのも骨が折れそうだよな」
「案外話せばわかってくれる人かもしれないよ。あんなに怒ってたのも、なにか理由があるかもしれないじゃない?」
そうであってほしいと楽天的に考えるのがニノンだ。
対してアダムは「どうだかな」と鼻を鳴らした。どうやらテントの入り口で跳ね飛ばされたことを根に持っているらしい。
「俺にはあの金髪イガグリ、ガラの悪いチンピラにしか見えねーよ」
ウィグルさんもアダムにだけは言われたくないだろうな、とルカは思ったが、面倒だったので口を挟むのはやめた。
そうこうしている内に、一行は目的の建物にたどり着いた。石壁の背の高い建物がぴっちりと並んだうちの一つに、ひときわ年季の入った木製の扉がある。ニコラスが手配してくれたホテルのはずだが、取り立てて看板があるわけでもなく、特徴的な置物があるわけでもない。
三人は疑問に思いつつも、壊れかけのドアノブを回して中へと足を踏み入れた。
「……ここ本当にホテルなのか?」
心の中で思っていたことを、ついにアダムが口にした。
ロビーと思しきフロア——といっても、カウンターの前に三人が並べばぎゅうぎゅうになってしまいそうな、本当に小さな部屋——は真っ暗だった。
ルカは壁伝いにどうにか照明のスイッチを見つけて明かりをつけた。
「――!」
室内に明かりがともった瞬間、三人は一様にびくりと肩を強張らせた。フロントのカウンターに大きな足を乗せ、椅子に腰掛けた状態の人間がいたのだ。穴の開いた靴下から飛び出た親指はぴくりとも動かず、顔には船乗り用の帽子が被さっている。
死体かもしれない——そんな最悪の可能性は、カウンターの上に立てられたカードによってあっさりと消え去った。
「『休憩中、起こさないでください』――はァ?」
よく見ると、組まれた屈強な腕の下で規則的に体が上下していた。帽子からはみ出ている髪とも髭ともつかないもじゃもじゃした白髪も、それに合わせてわずかに揺れている。
「よ…よかった。死んでるのかと思った」
「よくねえ。爆睡じゃねーか! どうやって部屋に入りゃいいんだよ」
「『予約した人のみ、ご自由に』」
ルカはカウンターに置いてあるメッセージカードを読み上げた。
「あ?」
「鍵は自由に持っていって、って書いてある」
「適当すぎんだろこのおっさん」
時折り地鳴りのようないびきを立てて眠りこける男を起こさないように、ルカはゆっくりと後ろのボックスから三〇二号室と三〇三号室の鍵を抜き取った。
――”オステル・トリトン”
鍵に刻印された〈トリトン〉というのがこのホテルの名前なのだろう。壁に掛けられた木製の
椅子の上で深々と眠りを貪る男は、帽子だけでなく、服装までセーラーだった。よほど海が好きなのだろう。
「なぁーん」
「きゃあ、猫ちゃんだ」
フロントの奥からひと鳴きしたあと、黒猫はぴょんとカウンターに飛び乗った。その頭には、主人と同じセーラー帽が無理やり括りつけられていた。
黒猫はもうひと鳴きすると、今度は右手にある階段までとことこと歩いていき、三人を振り返り柔らかく尻尾を振った。
「案内してくれたの?」
主人と違ってよく働く可愛らしいドアマンだ。感心したのも束の間、階段の柱に何かが貼り付けられているのが見えた。
——”猫の餌やり、大歓迎”
「お前も苦労してんな」
アダムは黒猫を哀れむように見下ろした。
「なぁーん」
道中の大通りで買ったビスケットを黒猫に分け与えてから、三人は自室で準備を整えた。
「よーし、スパイ作戦がんばろうね!」
「潜、入、捜、査、な」
「そう、潜入捜査!」
足取り軽く階段を降りていく二人の背中を追いかけながら、やはり目的が少しズレてるよなぁ、とルカは小さくため息をついたのだった。
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