第15話 虹のサーカス団(1)

 壺を逆さにしたような小さな陶器の上に、オレンジ色のココットが乗っている。その中で、羊のチーズがとろとろに溶かされている。


「ニノン、これやるよ」


 アダムは目の前の皿に山盛りに乗せられた温野菜の中から、湯気のたちのぼるブロッコリーをつまみ出すと、ニノンの皿にぽいぽいと放り投げた。


「こんなにたくさん? いいの? 私ブロッコリー大好きなんだよね」

「ありがたく食えよ。俺にはそんな草のかたまり必要ねェからな」


 正確に言えばブロッコリーは草のかたまりではなく花のつぼみのかたまりである。チーズを絡めたじゃがいもを口に運び、ビリッと頬に走った痛みに顔を歪めた。


「……まだ痛む?」


 食べづらそうにするルカの顔を覗きこむニノンの眉は八の字に下がってしまっている。その怪我が自分を庇ってできてしまったものだからだ。

「大丈夫だよ」と宥めてみるが、下がった眉は一向に持ち上がりそうにない。放っておけば治るだろうと安易に考えていたルカに対して、大男にぶたれた箇所はだんだんとどす黒くなるばかりだった。痛々しい傷跡を目の当たりにして気が動転したニノンは、大袈裟なくらい分厚いガーゼで傷口を覆い隠した。

 実のところ、痛いから食べづらいというよりも、この大きなガーゼが邪魔なのだ。


「あのう、みなさん」

 机の端に座っていた茶色いくせっ毛の青年が、遠慮がちに声を出した。

「この度は本当にお騒がせしました。それから、助けてくれてありがとうございます」


 青年は縁が緑色の丸眼鏡を中指で元の位置に戻すと、「申し遅れましたが」と前置いた。


「僕の名前はロロ・ブーシェ。十九歳、北の街バスティアの出身です」


 十九歳と聞いてアダムはせき込んだ。背は高いがひ弱そうな外見からすると自分より年下だとふんでいたらしい。


「俺はアダム・ルソー。カルヴィ出身の修道士だ。アダムって呼んでいいぜ」


 アダムの言葉を聞いて今度はロロがむせ込んだ。く、と笑いを堪えるルカや、笑いを隠そうともしないニノンを見て、アダムは自己紹介に修道士というワードを使うのは今回かぎりでおしまいにすると宣言した。


「私はニノン。出身地は……覚えてなくて、わかんないの」

「え? 覚えてないって………?」

「ちょっといろいろあってさ、こいつにゃ記憶がない」


 アダムか横から補足すると、ロロはぎょっとした顔でニノンを見た。当の本人がニコニコと陽気な笑顔を浮かべているので、ロロはさらにぎょっとした。


「年齢も覚えてなくって。でも、ルカと身長が同じくらいだから十五歳ぐらいかなって。で、そのルカっていうのが――」

「俺です」

 抑揚よくようのない声がニノンの言葉を遮る。

「道野琉海ルカ。ニノンと身長が同じくらいの十五歳、アルタロッカ地方出身です」


 むすりとした口調で淡々と自己紹介を終わらせて、ルカは再び温野菜に手を伸ばした。日本人の血を四分の一受け継いだことは、残念ながら身長の伸びに影響を与えた。やっかむほどではないにしろ、ルカも例にもれず思春期の少年なのだから、少しは気にしたりもするのだ。

 ロロは話題を変えるべく、慌てて口をひらいた。


「皆さんは観光でこちらに?」

「あー、まぁそんなとこだな」


 アダムはバゲットを頬張った口をもごつかせながら曖昧に頷いてみせた。


「私たち、サーカスを観に来たの」

「ああ、アルカンシェルですか」

 得心したようにロロは頷く。

「ロロ、知ってるの?」

「ええ。彼らは人気がありますからね」

「じゃあロロもサーカスを見に来たんだ」

「いえ、僕はちょっとした用事で各地をまわってるんですよ」


 そこで一旦区切りをつける。「……実はですね」と声をひそめ、ロロは三人に顔を寄せた。


「僕、エンジニアを目指してるんです」


 エンジニア、という単語に力がこもる。

 束の間の沈黙。そして――。


「なるほどな。それであのなんとかパンチャーってわけか」


 へんちくりんな名前だけどな、とアダムは笑った。ルカは初めて出会う職業の名に少なからず興味を覚えたし、ニノンはなんだかよく分からずにとりあえずにこにこしている。


「わ、笑わないんですか?」


 一同のなんともあっさりした様子に、ロロは目をぱちくりさせた。


「え、笑うところなの? それよりもエンジニアって何? 難しいの?」

「も……モノを開発する人のことです」


 ニノンからの質問の嵐に気圧されながら、ロロはかろうじてそれだけ答えた。


 五十年前のエネルギーショックを機にほとんどの人間の価値観はぐるりと百八十度変わってしまった。その変化に巻き込まれたのは芸術家や天文学者だけではない。目に見えない存在意義を主張するありとあらゆるものが対象だった。例えばそれは科学者であったりエンジニアだったりした。

 だがその当時、特定分野の排斥に別段異議を唱える者はほとんどいなかった。仮にいたとしても、彼らは皆物好きか単なるひねくれ者、あるいは頭のイカれた異端児としてヒンシュクを買いすらした。


 手を広げすぎてはならない。質素に生きねば。


 それが、エネルギーショックを乗り越えた世界の、暗黙の価値観となっていた。

 AEPが発明され夜の家々に明かりが灯った世は、不満をもらすには十分すぎるほど、生きるのに不自由ない世界だったのだ。

 極大な危機を経験した者同士の絆は深い。高望みをしないエコロジーな世代に、未来への過剰な投資は不要なのである。


「大抵の人は僕みたいな人間をバカにして、笑いものにするんですよ」

 ロロはぎゅうと握り拳に力を込めた。

「だけど、僕は! エンジニアという夢を諦めたりしません……!」


 興奮気味にまくしたてるロロの声は思った以上に店内に響き渡った。思い思いに食事を楽しんでいた客たちは次々と顔をあげ、発言した青年の顔を訝しげに見つめる。隣のテーブルではマダムたちが顔を寄せ合いひそひそと何かを囁いていた。

 途端にロロの顔は耳まで真っ赤に染まり、たらりと冷や汗が額を伝った。

 アダムはコップの中の水を一気に飲み干すと静かに席を立ち、この店を出ようと三人に声を掛けた。


「気にしなくていいぜ、ロロ。こんなご時世、くそくらえだろ」


 ロロは恥ずかしげに肩を竦めた。



 *Arc-en-ciel



 大通りを山間にずっと進んだ先にあるゴードン広場には、海を背景にして大きな銅像が立っている。前足で地を蹴り上げる迫力ある馬と、それにまたがる英雄。彼が従えるのは袈裟けさを身にまとった三人の僧侶たちだ。

 緑青ろくしょうにおおわれた瞳の見つめる先には、赤と青のストライプ柄の大きなテントが張られていた。テントの頂点では虹色の旗が潮風にヒラヒラとはためき、観光客や地元民が代わる代わる物珍しげな眼差しをテントへ向けては去っていく。


「ウィグル、ウィグルー!」


 男の声はテントの中に響き渡りこだました。天井に吊るされたライトが照らし出すステージの上で、楽器の弦を調整していた手を止めて、二股帽子をかぶったピエロがひょこりと顔を上げる。その途端、プツンと音を立ててブリッジから弦が弾け飛ぶ。ピエロは慌てて弦を押さえ込んだ。


「ああ、邪魔したね、グリエルモ。続けてちょうだい。――まったくどこ行ったのかしらあのバカ息子は……」


 男が困ったように頬に手をあてた時だった。ステージ袖の深紅の垂れ幕がゆらりと波打ち、中から美しいシルクのドレスに身を包んだ女性が微笑みをたたえて現れた。


「ウィグルなら今朝街の方へ出ていきましたわよ、団長」

「あら、そうなの。ありがとうヴィヴィアン」


 ヴィヴィアンと呼ばれた女性はにこりと笑うと、観客席に向かってしずしずと歩き始めた。腰まで伸びる漆黒の絹のような髪の毛を高い位置で一つに結わえながら、黙りこくってしまった団長の横顔をちらりと覗き見る。

 ゆるやかにしな垂れる黄緑色をした前髪の奥に、悩める複雑な表情を浮かべ、男は暗く閉ざされたテントの入り口を見据えている。


「あんまり考えすぎるとお肌に悪いわ」

「……そうね」

 男はぼんやりと返すばかりだ。

「あの子には時間が必要なのよ」

「ええ、わかってる。だけど、そんな甘ったれたことを言っていてはね」

「団長――」


 ヴィヴィアンが口を開きかけた時、ほの暗いテントの中に一筋の光が射しこんだ。

 出入り口に掛かる幕を手で押しのけながら、渦中の男が乱暴な足取りでテントの中に入ってくる。いばらのように立たせた金色の髪の毛が日に当てられて金属のようにてらてらと光る。しかしよくよく見ると、根本の部分は地毛の焦げ茶色がのぞいていた。


「ウィグル、ちょっと待って!」


 ウィグルと呼ばれた男の背中を追って、気の弱そうな青年がテントの中に滑り込む。彼の両手は大きな紙袋で塞がっている。


「またこんなに買い込んでさ……自分はちっとも持ちやしないし」


 ウィグルはステージの下に佇む黄緑髪の男――団長の存在に気がつくと、後ろでぶつくさ文句を言う青年から荷物をぶんどり、わき目も振らずにステージ裏に向かって歩き始めた。


「ウィグル。あんた練習はどうしたの」


 団長の怒気を含んだ声を耳にして、ウィグルはぴたりと歩をとめた。


「帰ってきてそうそうにお説教か? 練習なら昨日やっただろうが。俺は街で遊んでくたくたなんだ。そこどいてくれ」


 話は終わりとばかりに歩き出すウィグルを、団長は「待ちな」と鋭い声で制止する。


「話は終わってないよ」


 ウィグルはぴくりと片眉を動かした。片手に掴んでいた荷物を再び青年に押し付けると、肩をいからせて男の元へ歩み寄った。


「ウ、ウィグル、ちょっと……!」

 青年が叫ぶ。

「ハビエル、黙ってろよ。今日こそきっちりケリつけてやる」


 二人はぴったりと間を詰めると、仁王立ちの状態で向かい合った。火花を散らしながら睨み合う様子を、ハビエルと呼ばれた青年はハラハラした面持ちで見守ることしかできなかった。

 ステージの前に佇み一部始終を見つめていたヴィヴィアンは、困ったわねぇと人知れずため息をついた。



 *



「僕はしばらくこの街に滞在する予定ですから、またよければご一緒しましょう」


 大通りでロロに別れを告げたルカたちは、今度こそサーカス開催予定地のゴードン広場へ向けて歩き出した。

 看板から飛ばされてしまったポスターを拾い、道行く人に尋ねれば『この先まっすぐ』という案内がいかに不親切なものだったかを思い知らされた。何しろゴードン広場はアジャクシオでも最も有名な部類に入る観光スポットで、大通りを数分も歩けば誰でも見つけられるようなひらけた場所にあったのだ。

 ニノンが自信たっぷりに進んだ道は九十度も違う方角だった。


「うわぁ大きい! お菓子の包み紙みたいでかわいい!」


 幼い子どものように広場を走り回るニノンは、そのままテントの間近まで駆け寄って下から見上げた。青空に映える虹色の旗が、風にはためいている。少女の瞳はいっそう輝きを増した。

 はしゃぎ続ける少女を見やりながら、ルカはすたすたとテントの入り口へ歩いてく。

 『WELCOME!!』と書かれたカラフルな看板の下、入り口と思しきカーテンの傍には、小柄な少女と熊のような大男が立っていた。少女は近づくルカに気がつくと、パッと笑顔を作ってビラを片手に「ハァイ」とあいさつをした。


「アルカンシェルへようこそォ! 公演は一週間後だから、チケット買って、首をながぁくして待っててネ」


 少女は人形のような大きな瞳をぱちんと閉じてウィンクし、チュッと音を立てて投げキッスまで寄こしてみせた。

 反応に困るなぁという顔をして、ルカは頭をかいた。少女の髪はわた菓子のようにふわふわとしており、ピンクや水色が交じり合って遠目にはうす紫に見える。真っ白な肌とは対照的な黒いチュチュを身に着けた少女の身長はルカの頭一つ分以上は低い。とても小柄なのに存在感があって、垢ぬけた表情をしている。

 ぐいぐいと押し付けられるビラをやんわりと断ると、ルカは少し屈んで少女と目線を合わせた。


「ここの団長の『ゾラ』さんという人に会いにきたんだ。中に入っても?」


 すると少女は、「あらぁ!」と声を上げ、途端に眉を吊り上げた。そして、顔を真っ赤にして隣に立つ大男にぴょんと飛びついた。


「ルー、この人私を子ども扱いするワ! 信じられない! しかも客じゃあないって言うのよ! 信じられない!」


 首元に顔をうずめてわめき散らす少女の頭をぽんぽんと撫で付けると、大男はルカに向かって小さく一礼した。


「すまない、客人。シュシュはすぐ癇癪かんしゃくを起こす。許せ」

「あ、いえ。おかまいなく……」


 ルカは大木を思わせる大男を見上げた。近くで見れば見るほど里山に降りてきた熊にそっくりだ。地鳴りのような低い声、黒に近い茶色をした前髪の奥に見え隠れする小さな瞳からは男が何を考えているのか読み取りづらい。けれど、男が発した言葉から少なくとも怒ってはいないことだけは伺えた。



「なーに女の子泣かしてんだよ」


  ルカがふ、と肩の力をぬいたとき、端から様子を伺っていたアダムが茶化すように声を掛けてきた。いつの間にかナポレオン像の方まで足を延ばしていたニノンも、騒ぎに気がつきこちらへと駆けてきた。


「しばし待て。団長に掛け合ってみよう」


 そう短く言い残し、ルーと呼ばれた大男は首元に巻きついたまま離れない少女の背中を撫でながら、テントの中へと姿を消した。


「なに言ったんだよ、このプレイボーイ」

「俺も知りたい」

「ねぇルカ、プレイボーイってなに?」

「……アダムみたいな人のことだよ」

「こらこらこら」


 三人はしばらくテントの入り口の前で他愛もない話を口にしながら時間を潰した。

 が、いくら待てども大男が入口から顔を出す気配はない。それどころかテントの中から微かに男の言いあう声が聞こえてくる始末。面会など揉めるほどの話でもない気がするが、もしそれが原因ならなかなか申し訳ない気分だ。

 三人は顔を見合わせると、意を決して入り口のカーテンをめくった。


「ごめんください……」


 と、その瞬間、人を殴る嫌な音がテント内にこだました。次いで「ウィグル!」と叫ぶ女性の声が響く。あっと声をあげている内にアダムは全速力で駆けてくる男性とぶつかり、跳ね飛ばされた。

 男は周りに目もくれずそのままテントから出て行った。


「待ってよ、ウィグル!」


 一歩遅れて青年が後を追うようにテントから飛び出していった。


「いってェ……猪かよ、あいつは」

「アダム、大丈夫か?」


 尻もちをついたアダムを引っ張り起こしたルカは、そのまま開け放たれたテントの入り口へ足を踏み入れた。すぐにステージの下に目がいき、ルカはぎょっとした。見覚えのある男が頬を抑えて倒れているのが見えたのだ。

 ショッキングピンクの花柄シャツに緑のスキニーパンツ――まぎれもなく、午前中に警官から三人を守ってくれた男だ。

 大男の肩からぴょんと飛び降りた少女は男に駆け寄り、「団長!」と金切り声をあげた。


「……団長?」


 この男が虹のサーカス団、アルカンシェルの団長なのか。

 ルカはゆっくりと観客席の間の通路を進み、黄緑色の髪の男の前で立ち止まった。

「あっさっきのお客じゃない人間! 何勝手に入ってきてんのヨ!」と喚く少女を、ルーは軽々と担ぎ上げ、宥めすかす。


「ゾラさん——ですね」


 ルカはゆっくりと口を開いた。見上げてくる男の瞳はこちらの姿を見定めるように素早く動いた。この、右手に光る鈍色の指輪をも。


「道野家の長男、ルカです。あなたに会いに、この町までやってきました」


 目の前の男は、しかしゆっくりとかぶりを振った。

 何に対しての否定だ――と一考するまでもなく、男は心地の良い低い声で告げた。


「私の名前はニコラス・ダリ」


 黄緑色の髪の奥で哀しげな瞳が伏せられた。


「ゾラさんは死んだよ。二週間前に」

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