第10話 アルマゲスト


 その昔、一人の男がこの村に住んでいた。

 男の名前はレナルド・トレミー。しがない画家だった。


 トレミーはフィリドーザをこよなく愛していた。駆け出しの内は、描くものといえば決まって村の風景か、あちこちを走り回る子どもたちだった。やがて彼はとある対象に心惹かれることになる。フィリドーザの星空である。

 彼は友人にこんな言葉を残している。「この村の星空の、なんと美しいことか」と。

 晩年、彼はフィリドーザの夜空をテーマにした連作を描き始めた。『アルマゲスト』と命名された連作は絵画十枚にものぼり、死ぬ間際まで描き連ねられたという。


 そしてついに天空の画家は、この世で一番美しい風景に出会う。

 辺境の地、フィリドーザに降り注ぐ数多あまたの星々。まるで宇宙を眺めているような不思議な光景。彼は連作最後の完結作として、また人生最後の作品としてこの神秘的な光景を書き残すことに決めたのだ。


 タイトルは『星の降る村』――連作の最後を飾る一枚が完成し、筆を置いた時、彼は満足したように永い眠りについた。


 それから間もなくして『星の降る村』は話題の的となる。この世とは思えない幻想的な景色を一目見ようと多くの観光客が村に押し寄せたのだ。元々収入の少ない家が多かったフィリドーザでは、千載一遇のチャンスを逃すまいと次々に観光客向けの宿屋が開業された。



「そういうワケでこの村には宿屋が多いんだ。おかしい話さねぇ」

「……あの、どちら様です?」


 アダムは目の前に佇む老婆をいぶかしげに見つめた。両目はぎょろりと飛び出し、肌はシワとシミだらけ。背骨が曲がりきり背中はこぶのように膨らんでいた。その老婆はどこかで拾ってきた太い木の枝を杖替わりに体を支え、藤色のオーバーコートを羽織り、春だというのにグレーの冬用マフラーを首に巻いていた。ジルダが話を始めたすぐ後に、どこからともなくやってきて勝手に昔話を語り始めたのである。

 少し、いやかなり怪しい。

 すっかり泣き止んだジルダは、いかにも怪しげな老婆を三人に紹介した。


「”南のばぁば”だよ。この村一の物知りなの」


 フィリドーザの一番南に住んでいるから”南のばぁば”。皆がそう呼ぶので、もう誰ひとりとしてこの老婆の名前を知る者はいない。


「南のばばぁが言った通りなら、どうしてこの村はこんなに閑散としてるんだ? 村の外から来た人間って今のところ俺たちぐらいしか――いてっ!」

「誰がばばぁ・・・じゃ、失礼な子だね」


 老婆は木の枝でアダムの太もも――本当は頭をぶちたいところだっただろうが、あいにく老婆の身長では太ももが限界だった――をぶった。”ばぁば”は問題ないが”ばばぁ”はご法度はっとらしい。


「確かにこの村の星空は綺麗だよ。でも、どうやってもトレミーの描いた景色を見ることはできなかったの」


 その景色を観た唯一の人物はもうこの世にはいない。だからいつ、どこで、どのようにしてその景色を見たのか、一切の情報はなかった。

 残されたのはたった一枚の絵画だけ。はじめは足しげくフィリドーザに通っていた観光客も時が経つにつれてまばらとなり、ついには誰一人として訪れることのない、元の寂れた村に戻ってしまったのだという。


「それって画家が空想の景色を描いてたってことなんじゃねェの?」

 ばっさりと言い捨てたアダムに、ジルダは少し俯きながら続けた。

「観光客はそう――ううん、この村の皆もそう。ただの空想を本物の景色だと勘違いしたって思ってる。でも……」


 ぎゅう、とジルダは両手を握りこんだ。


「私は本物ならいいなって思うよ」


 ニノンがぽつりと呟いた言葉に、ジルダはふっと視線をあげた。


「空想なんかじゃないよ。トレミーさんが遺した星空の絵はきっと、その景色を見て感動したから生まれたんだよ。ね、南のばぁば」


 ニノンはふふ、と笑って老婆に視線を送った。飛び出た目玉はあべこべな方向を向いていて、何を見ているのか分からなかった。だがその口元には三日月のような笑みが浮かんでいた。


「そうさね。信じるか信じまいかは人の自由。ばぁばはもうずっとずっと長いこと生きているがねぇ、ひとつ言えるのは、夢のない人間ほどつまらないものはないってことさ」


 老婆は伸びきってくすんだ人差し指の爪先を、ルカの鼻先に突き出した。


「蒼い目の坊や、お前さんにはどう見える? トレミーは哀れな夢追いの老人だったのかねぇ?」

「……」


 ルカにはトレミーが本当の景色を描いたのか、それとも空想の世界を描いたのか見当もつかなかったし、そんなことはさして問題ではなかった。ルカを突き動かすのは、薄汚れ、歴史に埋もれてゆく絵画たちの悲痛な叫び声だけなのだ。


「俺は絵画修復家です。この村に助けを必要とする絵画があるならば、それを修復するだけです」

「ほっほっほ。その眼差し、お前さんのおじいさんによく似ているねぇ」

「祖父に会ったことがあるんですか?」

 思わぬ名前が飛び出して、ルカは僅かに前のめりになった。

「あるともさ。随分昔に居間に飾ってあった絵を治してもらったことがあるよ。コースケは素晴らしい修復家だったねぇ」


 素晴らしい修復家だった――ルカは心の中でその言葉を反芻しては面はゆい気持ちになった。だが、身内を褒められるのは悪い気分ではない。ましてやそれが師匠同然だった祖父の話なのだから、当然だ。


「あの、その話を詳しく――」


 ルカは言いかけたが、老婆はそれを遮ってジルダに話しかけた。


「さぁさ、この少年に絵画を直してもらうんだよ。なに、きっとうまくいくよ。この村の事も、あんたの夢の事もすべてねぇ。心配はいらないよ。何しろ南のばぁばの言うことだからね」


 老婆はくぐもった笑い声を漏らしながらくるりと背中を向けると、背中のこぶを揺らしながら、再び南の家に戻っていった。





 ビートルのトランクからリュックサックを引っ張り出したルカは、その足で宿屋の二階にある一室に上り込んだ。


「これで連作『アルマゲスト』は全部だよ」


 ベッドの上に所狭ところせましと並べられたトレミーの絵画にはすべて煌めく星空と、変化してゆく月が描かれていた。

 ルカは顎に手をあて一枚一枚を眺めて回った。長年客室に飾られていたにしては比較的損傷が少ない。おそらくしっかりとした額縁に入れられていたか、所有者が保存方法を心得ていた為だろう。


「……?」


 ふと、一番最後に並べられた絵画に目が留まった。

 明らかにその絵画だけ他のものよりも傷みが激しかったのだ。


 湖畔こはんを画面の下四分の一ほどにたたえ、左右には少しばかりの黒い木々の影、そして大きくひらけた星空という構図。しかし画面は暗く、星の光がかすんでしまうほどに汚れている。月明かりのない闇夜は美しさよりもおどろおどろしい恐さを思い起こさせる。まるで光化学スモッグが夜空を覆ってしまっているようだった。


「今回は数が多いから時間がかかりそうだね」

 同じく隣で絵画を覗き込みながらニノンが呟く。

「数は多いけど綺麗な状態のものが多いから、言うほどじゃないよ」

「俺たちも何か手伝うぜ」

「うん。ありがとう」


 ルカは絵具や洗浄液で汚れたままの黒いエプロンに袖を通すと、手慣れた手つきで両袖をまくった。アダムとニノンも一階からエプロンを借りてきて、それを身に着けた。

 準備が整ったのを見計らってルカは深呼吸をした。そして、「よろしくお願いします」と十枚の絵画に向けて丁寧にお辞儀をする。

 修復作業始まりの合図だ。



「筆を優しく持って……そう。毛先で空気を動かすように」

「結構難しいな」


 初心者の二人に与えられたのは、絵画の表面に積もりたまった埃を払い落とす作業だった。絵画保護の目的で塗り被せられたワニスの上にも年月が経てば埃が付着し層になる。その汚れを絵画が傷つかないように柔らかい筆で取り払う作業は、修復を進める上で最も初歩的な、しかしとても重要なステップなのである。

 ルカは指示を出しながらも己の手を止めない。リュックサックから小型の懐中電灯のようなものを取り出し、その光を絵画へと当てた。


「それは何?」

「X線だよ」

「えっくす線?」

 ニノンの声にアダムも顔を上げる。

「絵具とかワニスの成分を調べることができるんだよ」


 ライトから照射されたX線は目には見えない。しかしその光は絵画を貫通し、絵具やワニスがどんな成分から出来ているのかを知らせてくれる。言わば医者が患部のレントゲンを撮るのと同じだ。治療をする為には調査が必要不可欠なのだ。

 ニノンが覗き込もうとするのを制止して、危ないよとルカは諭した。


「汚れたワニスがどの薬品で溶けるのか、絵具を溶かさない為にはどうすればいいのか、この調査でだいたいわかる」


 以前アダムはルカの修復作業を目の当たりにして「魔法みたいだ」と言った。ルカはそうは思わない。地道な作業を積み重ねていく修復作業は、むしろ化学に近い。しかし、初めて見る者の目にはやはり奇術のように映るらしい。


「魔法みたい……」


 目を瞬かせて不思議なパフォーマンスを眺めていたジルダの呟きに、ルカは口元をわずかに緩めた。こちらの視線に気付いたジルダははっと我に返り、机に手をついてルカをじっと見据えた。


「ルカお兄ちゃん、私も何か手伝いたい」

「いや――依頼者に手伝ってもらうのはちょっと」


 それは真っ当な断り文句だったが、ジルダは己が手持ち無沙汰になるのが嫌だったのだ。彼女の瞳が潤んでゆく様を見て察したニノンが慌てて取りつくろう。


「あ! そうだ。私、ジルダの夢のお話し聞きたいなぁ、なんて」

「……私の夢?」

「うん。南のばぁばが言ってたでしょう。ジルダの夢がどうって……」

「それ、俺にも聞かせてくれよ」


 夢というワードが出た途端、ジルダの顔には複雑な表情が浮かんだ。ワクワクした希望の光が表れたかと思えばすぐさま影が差して、ジルダの眉尻は見る間に下がった。何度かそんな葛藤かっとうを繰り返していたが、やがてジルダは意を決して口を開いた。


「フィリドーザの星空には本当にたくさんの星が輝いていてね。私、いつもメンヒルの遺跡で星を眺めてるの」

「メンヒルの遺跡?」


 それはフィリドーザの南の果てにある湖畔のほとり、三〜四メートルもの長大な巨石群が地面から突き出すようにして垂直に立てられている。湖畔を見守るようにして立ち並ぶそれらの列石をメンヒルと呼ぶのだと、ジルダは語った。


「その遺跡で……見せたいものがあるの」


 そこではじめてルカは作業の手を止めた。ジルダの瞳はキラキラと輝き、まるでフィリドーザの星空が写り込んでいるようだった。


「ジルダ、今夜そこに案内してくれないか?」

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